第二部 切り裂きジャックの恋わずらい
プロローグ
† † 夜半のさつじん † †
「はっ……はっ……」
古びた教会の裏手にある狭い路地。黒いインクを撒き散らしたような暗がりを、ジャックは急ぎ足で歩いていた。
路地裏の空気は、薔薇に囲まれたリデル男爵家に流れる空気と違って生臭い。
深く吸い込まないように気をつけるが、服には匂いが染みついているだろうから、屋敷に戻ったら丸洗いしなければならない。
本来ならば、ここまで遅くなる予定ではなかった。
急いで帰り着いて、執事らしい服装で朝の支度を調えなければ、双子かリーズか、アリス自身か、一家の誰かしらが疑いを持つ。察しが良すぎるというのも問題だと、ジャックはこうなって初めて思い知った。
リデル男爵家の家業で鍛えられているので夜目はきく。だが、気を付けないと足下をすくわれて転んでしまうだろう。
油断しそうなときほど、不運な出来事はやってくるものだ。
気を引き締めたそのとき、進行方向に明かりが見えた。
「っ」
教会のかげに身を潜める。
治安の悪いこの場所を、真夜中にランタンを持って歩いていることからするに、巡回の警官だろう。もしも布でくるんだサーベルを見咎められれば面倒なことになる。
気配を消して、息を止め、心を静めていると、警官は何事もなく通りすぎた。
カラン、と小さな音がして上を向く。曇った夜空に、薄ぼんやりと浮かびあがるのは教会の尖塔だ。聞こえたのは、修道士に祈りの時間を報せる鐘だった。
ジャックは、少し逡巡してから、目を閉じて祈った。
大切な人を思い浮かべて、胸の奥を熱くして、この気持ちが伝わるように祈る。
しばらくして、なんて馬鹿らしいことをしているんだろう、と自分を嗤いたくなった。
普段の自分なら他力本願な真似はしない。リデル男爵家で惨劇が起きた日から、ジャックは神なんか信じていない。
地上に干渉するのは悪魔ばかりだと思い知ったのはつい最近のこと。
絶望の上に絶望を塗りかさねて生きている人間に差し出されるのは、救いの手ではなく割りの悪い契約だけだ。この世に栄えるのは悪徳の方なのである。
「神だのみして、誰が救われるっているんだ」
そう口にしながらも、ジャックは神にすがる自分が嫌いではなかった。
恋する男は、皆こんなものかもしれない。
浮き足だって転びまろびて、愛する人が笑いかけてくれるのを夢見て、心をかき乱されて、眠れない夜を過ごして……ろくでもない気を起こすのだ。
――それが大切な一家(ファミリー)を裏切ることになろうとも。
思いきって教会の裏から飛び出し、屋敷を目指して道をひた走る。
ジャックはもう止まれなかった。
激情のストッパーになってくれる『アリス』は、今頃ベッドの上で健やかな寝息を立てているだろう。リーズは、自身の恋にばかり寛容でジャックの心には興味がないし、ダムとディーはまだそういう年齢ではない。
それらは、ほんの小さな言い訳に過ぎない。誰も巻き込みたくないのが本心だ。
恋わずらいの甘美な衝動に焼かれるのは、自分だけでありたい――。
走り去るジャックは気づかなかった。暗がりに紛れていたはずの自分を、じっくり値定めするように眺める者がいたことに。
細められた瞳は、まるで水底に沈んでいるかのように、ゆらゆらと揺れている。額からは、悪魔の証である角が一本、突き出していた。
悪魔の後ろには大きな血だまりがあり、その血に長い髪を浸すかたちで人間が倒れている。ジャックが教会のかげに隠れた際に、ちょいと横を見れば惨状に気づけたはずだ。
だが彼は、そうしなかった。
なぜなら、これは『切り裂きジャック』が起こした事件。
ジャックは、この件に巻き込まれる運命にあると、神に定められていたのだから。
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