第27話

 それで、と電話の向こうが言った。

「何もなく?」

 テーブルの上に散らばった写真。その一枚を持ち上げて市倉は頷いた。

 毎日一枚ずつ増えている。

 これは──買い物帰りの匡孝か?どこかの店の前…

「多分」

「多分?」

 訝し気に聞き返される。

 ため息まじりに市倉は言った。

「多分──何かあったけれど、本人はそれがそうだとは気づいていないってことだ」

 あー、と何とも言えない声が返ってきた。

「そりゃまた…大変なことで」

 市倉は眉を顰めた。言いたいことは痛いほど分かるだけに、なんとも返事のしようがなかった。

 耳元で潜めた笑いが漏れる。

「まあ、いいんじゃないの?あんたがそーんな振り回されるなんてさ…俺的には感激です」

「うるさい…」

「約束忘れないでくださいよ」

「何だったか?」

 はは、と笑い声が上がった。

「それ嫌ってこと?」

 ひどいなあ、と笑う相手はどうやらまだ外にいるらしい。声の後ろに車の行き過ぎる音が聞こえる。がさがさと風の音。

 それじゃ、と笑いのおさまらない声で向こうが言った。「明日」

「ああ、それじゃ」

 明日──すべては明日。

 そう思いながら市倉は電話を終えた。



 それじゃ、と言って会話は終わった。

 大通りの交差点で信号待ちをしながら、携帯をしまう。

 青になった。歩き出す。少し前には長い髪を揺らして歩く背中──次の角を曲がるまで、と決めていた。


***


 土曜日、朝。

 10時半ごろにコンタットに着いた匡孝は、裏口に自転車がないことに気がついた。

「おはようございまーす、浜さん?自転車…」

 厨房の戸を開けながら匡孝は浜村を探した。

 あれ、いない?

 コンロにはトマトソースの入った大鍋が載っている。火は消えていたが、湯気が上がり鍋肌は熱かった。今まで加熱していたようだった。

 匡孝は客席の方を覗く。

「あれ…?」

 そこにも浜村の姿はなかった。トイレかと、首を傾げながらも匡孝は朝の支度を始める。湯を沸かし、コーヒーマシンの電源を入れ、掃除をして、スピーカーのスイッチを押してBGMを掛けた。

 シンクに入っていた洗い物を片付けているとかたん、と音がして、厨房の戸が開いた。

「──江藤」

「おはよう浜さん」

 振り向くと浜村だった。

「おはよう、悪い、ちょっと出てた」

「うん」

 あ、と思って匡孝は言った。

「浜さん昨日ありがと、あのさ、俺の自転車…」

「あー…悪い、それなんだけどさ」

 バツが悪そうに浜村は頭を掻いた。

「俺が直してやろうと思ってちょっとやったんだけど、なんか余計駄目にしちまって、そんで今店に持ってってきた」

 え、と匡孝は目を丸くした。

「そんな、いいのに。ごめんいくらだった?修理代」

「いらねえって」

「えっでもっ」

 慌てる匡孝に浜村はさらに手を合わせた。

「俺のせいだし、なんか修理も明日になるって言われてさ、ホントごめんな」 

「えーだってもうパンクしてたんだし…」

 謝ってもらう事なんてないのに、と匡孝が言うとくしゃ、と髪を掻き回された。

「だから今日はおまえの好きなもん何でも作るから、昼メシ、考えといて?」

 と浜村が困ったように言うので、匡孝はそれ以上何も言えずに、うん、と頷いた。



 ボールが見事な弧を描いて飛んだ。

 ダン、とシュートが決まり黄色い声援が上がった。

 沸き起こる歓声。

 状況は劣勢だ。しかし雰囲気は穏やかだった。

 今日の練習試合の相手は前回と同じ高校だ。同じ私立──向こうは共学だが──で互いにのんびりとした校風のためか、顔馴染みのためか、慣れ切った相手なので試合展開も山も谷もなく進んでいく。

 いわゆるこれは交流試合だった。

 というよりただの交流だ。

「おーいシャキッとしろよー」

 市倉の隣では相手側の顧問がにこにことしながらげきを飛ばしている。

 檄?…あれは檄か?

 こちらのベンチはと言えば、皆応援に来ている女子達の方に目が向いていて、どうにもこうにも締まりがない。

「いっちゃーん、来週もやろうよー」

「はっしーの復活は来年でいいわ」

 目がハートになってるぞ。

 歓声が上がりまた点が入る。もちろん相手チームにだ。

 コートの中で吉井が敵のキャプテンと笑い合っている。今のシュートすげえな?

 そう言ったか?

 負けているのに誰一人として悔しがらないのはいかがなものか。ハイタッチし合うな。

 試合中にも関わらず補欠部員達の目は体育館の入口にたむろしている女子達に向いたままだ。

「あークリスマスに彼女欲し―」

「合コンやりてえ」

「あっ、こっち見てる!やべえ、いっちゃんが目立つから、俺らも見られてる!なあそこにいて!そのまま目立ってて!」

 俺らの後ろから動くな、と誰かが言い始める。

「もうさー、いっちゃんが顧問でよくね?」

 はっしーじゃこうはいかねえもんなあ、とげらげら笑いだす。

 馬鹿たれ、と呟きながら市倉は嘆息した。

 煙草が吸いたいのを必死で我慢していると名ばかりの練習試合も終了となった。

 昼前に指導員コーチとともにバスケ部員を高校に送り届けた市倉は、職員室で活動報告を作成した。本来の顧問である橋爪に連絡を取り、確認のためそれをメールで送った。

 返事を待つ間、自分で淹れた茶を啜り、ようやく一息つく。

 ありがたいことにすぐに橋爪からお疲れさまでしたとの返信が届く。

 時刻を確認すると昼を過ぎていた。

 慌ただしく支度をしてから高校を出る。

 ここからではギリギリだ。約束の時間が迫っていた。

 車を走らせ駅前を過ぎ、大通りを郊外に向かう。

 街並みが見覚えのあるものに変わる。

 ここはかつての自分がいたところだ。

 生活のすべてがあった。

 小さな世界。

 小さな世界だ。

 やがて辿り着いた約束の場所──懐かしい、小さな店。古ぼけた喫茶店の扉を押し開けると、あの頃と同じ匂いがした。

「──市さん」

 奥まった小さなテーブルから立ち上がった若い男が、市倉よりも先にこちらを見つけて名を呼んだ。

 テーブルにはもうひとり、男が背を向けて座っている。

 市倉は軽く頷いた。

 背後で、ばたん、と扉が閉まった。



 吉井は急いで職員室を覗き込んだ。けれどそこに市倉の姿はない。

「え…?」

 汗をかいた背中が冷えた。

 皆の手前捕まえて話をするわけにもいかず、機会をずっと窺っていたのだが、市倉は試合中も移動中も部員に囲まれていて話すチャンスがなかった。しかし顧問は試合後も活動報告などで残っていることが常なので、部活の隙をついて抜けて来たのだが、どうやら遅かったようだ。

 準備室?いや、違う。

 確か──今日は車だったよな。

 慌てて職員室の窓から見える裏の職員用駐車場の方も確認する。練習試合に部員を乗せた市倉の車は──古いスバル・ランカスターは──どこにもない。

「くそ…ったく!」

 あの野郎。

 とっとと帰りやがって!

 吉井は悪態をつきながら、走って部室へと引き返した。


***

 

「ありがとうございましたー」

 匡孝は昼の最後の客を扉の外で見送った。日が傾きだした外はカットソー一枚では身震いするほど寒い。急いで白い扉を半分閉めておこうと動いたとき、裏の方から大沢が歩いてきた。

「店長」

「あ」

 目が合うと、江藤君、と大沢は微笑んだ。いつものグレーのダッフルコート、濃い目のジーンズ、マフラー。今日は会うのがこれが初めてだった。

「お疲れさま…あ、昼は終わり?」

「はい。どっか行くんですか?」

「うん。…あ、そうだ、招待状、出来上がったから後で手の空いた時にでも配っておいてもらえるかな」

「はい」

 匡孝は頷いた。

「じゃあ、ごめん。悪いけど頼むね」

 そう言って大沢は前庭を横切り行ってしまった。その後ろ姿を見送ってから、匡孝は店内に戻った。

「えとうー、メシー何にする?」

 戻って来た匡孝に浜村が聞いた。何でも言え、と言われてちょっと焦る。

「あー、とね…」

 忙しすぎて考える暇もなかった匡孝は、結局何も思いつかずにいつものメニューを口にして、浜村に大いに呆れられた。

「だめ、却下!」

「なんでえ⁉」

「あのなあ、おまえは何でそうかなあ、もう俺が決める。肉だ肉!」

「はあー⁉」

 何でそうなるのかわからないまま掃除などをこなしていると、やがて呼ばれた匡孝の前には立派なトレイに載ったハンバーグ定食がどかっと置かれた。

 デミグラスソースのハンバーグ、コンソメスープ、コールスローのサラダ。

 その匂いに、とたんに匡孝は忘れていた空腹を思いだした。

 うわ美味うまそう!

「米かパンか?」

「こ、こめ…」

「はいよ」

 ちょうどよく盛られたご飯茶碗を目の前に出されて、匡孝はそろそろとそれを受け取った。

「浜さんは?」

「俺はいいから」

「えっダメだよ、半分こしようよ」

「これは詫びだから、俺はいいの」

 そう言って向かい合って座った浜村の前には匡孝のハンバーグの、ソースだけを使った即席オムライスの皿が置かれる。

 うーわ美味おいしそう…

 思わず呟いた。

「えっ俺そっちも食べたい…」

 スプーンでまさに卵を掬おうとしていた浜村の手が止まる。「…食いたいのか?」

 こくこくと匡孝は頷いた。食べたい。オムライスは佐凪の好物だ。食べて今度作ってやりたい。

「じゃあ半分こするか?」

「するっ」

 勢い込んで返事をした匡孝に浜村は大笑いした。そして結局ふたりで皿を回しながら、遅い昼食を取った。


 1時間ほど休憩を取りながら、夜の仕込みをしていく浜村に、匡孝は言った。

「あーそうだ、店長が招待状配っておいてくれって言ってた」

 野菜を刻む手を止めて浜村が振り返る。

「そうだったな。いいわ、俺がやっとくよ」

 明日の朝にでも、と言った浜村に匡孝は笑った。

「俺今手が空いてるから、俺がやるよ。裏にあるんだよね?」

 夜の営業が始まるまでまだ1時間以上ある。掃除も終わったし、洗い物も片付けた。手持ち無沙汰な匡孝はそのまま裏へ行こうとして浜村に呼び止められる。「いやいいって」

 その口調はなぜか硬い。

「江藤、もう暗いから、明日でいい」

「?今日やっとけばいいじゃん、暇なんだし…」

 扉に手を掛けたまま匡孝は振り返る。

「浜さん?」

「もう外は暗いだろ」

 何言ってんの、と匡孝は笑う。

「心配しすぎだよ、子供じゃないし」

「自転車もないだろ」

「え、歩いて行けるとこばっかじゃん」

 浜村はなぜか眉を顰めた。

「あのな──」

 浜村が言いかけた時、店の電話が鳴った。浜村がそちらに気を取られたので、その隙に匡孝はじゃあ、と厨房を出た。

「行ってくるねー」

「おい江藤っ、待て…!」

 慌てる浜村の声が聞こえたが、匡孝は構わずにバックヤードの机の上から招待状の束と、一緒に置かれていた配布リストを手に上着を羽織って外に出た。

 これは俺の仕事、美味しいご飯のお礼、忙しい浜村のためにひとつでも何かしてやりたかった。

「えーと、…」

 リストを見ながら歩き出す。

 薄闇が空を覆っていた。


 

 あああああもう、と浜村は髪を掻きむしった。

 人の気も知らねえで!

「──はい⁉カフェ食堂コンタットですがっ」

 こんなときに掛けてきやがって、と鳴り続けていた電話をむしり取った。

 

***


 日が暮れていく。

 長い時間が過ぎた気がしたが、実際には2時間ほどだった。

 若い男──三重野みえのとは店で別れた。

 藍色に染まり始めた夕闇の中を、市倉は車を走らせていた。

 オレンジと深い青が混じりあう夜の前。

 助手席に乗せた男は青白い顔をして、じっと俯いている。渋滞にかかるたびに重苦しい沈黙が車内を埋め尽くしていた。

 知らない曲が小さな音でFMから流れている。

 信じられないよ、と何度目かの渋滞の中で男は呟いた。

「こんな…」

 手の中の写真を握りしめる。

 そうだろうなと市倉も思う。

 信じられない。

 それはまごうことなき本音だ。

「けど、それが事実だ」

 男の横顔は暗い夜に呑みこまれつつあった。

 言いようのない哀しみが込み上げたが、市倉はそれを押しやった。

 慰めたりなどしない。

 高見たかみ、と懐かしい名前を口にした。

「おまえの妹はもう、どうにもならない所にいるんだろうな」

 前を見据えたまま市倉は言った。

 俺を抹殺するまで、と心の中でその続きを呟く。

 貶めて、苦しめて、仕事を失くし、居場所を奪い、大事にしているものを奪って、立ち上がる力さえも残さずに、生きたまま社会の中で殺していく。

 完膚なきまでに。

 自分の兄のように、──同じように。


***


 最後の招待状を手に匡孝は角を曲がった。

 その家は住宅街の奥まった場所にあった。いわゆる旗竿地はたざおちと呼ばれるものだ。隣は更地になっており、一軒だけぽつんと離れている。大きな家で、どうやらコンタットの立つ土地は以前この家の持ち物だったとか──その宛名を見て匡孝は浜村がそんなふうなことを言っていたのを思い出していた。

 なので、上の空だったのだ。

 もう一度道の角を曲がるとその家に辿り着いた。けれど家の明かりは点いていない。薄闇にひっそりと静まり、どの窓も暗かった。

 留守のようだ。

 チャイムを鳴らしたが応答はなかった。匡孝は少し待ってから招待状を郵便受けに入れた。これで終わりだ。店に帰ろうと──振り向き──凍り付いた。

「──」

 日は落ちていた。

 すぐ後ろの闇の中で、見覚えのある顔が匡孝を見て笑っていた。

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