第17話
泣き腫らした目をしてバイトに出てきた匡孝を見て、浜村は一瞬目を丸くしたが、特に何も聞いては来なかった。ただ三十分程休憩にしようと開店前に紅茶を淹れてくれた。乾燥させた林檎の皮の入ったアップルティーを、ふたりで厨房の隅で飲んだ。
客席の窓の外は薄く曇っていて、広がる雲の隙間からほんの少しだけ青空が見えた。
午後は晴れそうだ。
その横では浜村がクリスマスのメニューに頭を悩ませていた。
そうか、クリスマス。もうそんな時期なのかと匡孝は思った。
*
くしゃりと風が匡孝の髪を乱していった。手の中にある紙を匡孝は制服の内ポケットにしまった。半分開けた窓の外は日曜日と同じように少しだけ曇っていた。
土曜日のあの後、ようやく涙が止まった匡孝を、あの後結局市倉に手を引かれてマンションの部屋の前まで送られた。まるで子供のようだと恥ずかしくて、顔をまともに見ることが出来なかった。あんなに──泣いてしまうなんて。もうどんな顔をしたらいいか分からない。
「ほら、帰るぞ」
匡孝の左手を取り、迷わずに握りしめて、市倉は匡孝を引っ張った。かあっと全身が火を吹いたように熱くなって、俺がこんなに恥ずかしいのに、この人は一体何をしてくれてるんだ、と眩暈がした。
「せ、せんせっ…!ちょっと」
市倉が目だけで振り向いた。
「なに」
「は、恥ずかし…っ」
「恥ずかしいのか」
ふーん、と口元が笑って、ぎゅっとさらに握りこまれた。指を―─絡められた。
「っぎゃああっ!」
なにすんだこの人!
「恥ずかしがってろ」
意地悪そうに口の端を吊り上げて、市倉は笑いながらそう言った。
「匡孝寒い、閉めてい?」
匡孝の机を挟んで向かい合っていた吉井が匡孝に聞いた。あ、ごめん、と匡孝は窓を閉めた。
「寒いな」
「うーん部活行きたくねえ…」
月曜はイヤだ、と机に突っ伏した吉井の後頭部を匡孝はシャーペンの先でつついた。昼休みももうすぐ終わる。
「練習試合あるんだろ」
「えー、茶しに行こう?」
行かない、と匡孝は笑った。「おまえキャプテンだろ、頑張れ」
吉井の深いため息に匡孝は苦笑した。
「勝てないぞー?」
「勝たなくていい…オレの信条は『そこそこやれれば大満足』なんだ」
「それ信条って言わないだろ」むしろ今の気持ちだろ、と匡孝は呆れた。
あー、と吉井は伏せたまま呻いた。
「疲れてるんだなオレは…甘いもん食いたい…」あ、と吉井がぱっと顔を上げた。「こないだハルとどこ行ったんだ?
匡孝は言葉に詰まった。
「あー、うん、
吉井がじっと匡孝の顔を見て、眉をひそめた。「なんかあったか?」
匡孝は苦笑した。つくづく自分は顔に出やすいのか、分かりやすいのか…
「まあちょっとね」
吉井がつと目元を険しくした。
「ハル、あいつ…」
「───ちか」
吉井の声を遮って、姫野が匡孝を呼んだ。ゆっくりと振り返った匡孝のすぐ後ろに姫野は立っていた。今日、初めて顔を見る。姫野はひどく読めない顔で匡孝を見下ろしていた。
「──なんで携帯出ねえの?」
何度も掛けたのに、と姫野は淡々とした声で匡孝に言った。
屋上に続く階段の踊り場、人気のない場所に匡孝と姫野はいた。屋上への扉は数年前から封鎖されているので、ここに来る者はほとんどいない。使われる用途としては、下級生を呼び出して難癖をつけるときか、喧嘩、サボり、または人に聞かれたくない話をしたい時だ。踊り場のリノリウムの床の隅には、埃が厚く溜まっている。
「春人」
あの後からずっと続く姫野の着信を匡孝は無視し続けた。メールも電話もアプリの着信も無視を決め込んだ。既読すらしなかった。日曜の夜になってもそれは止まず、匡孝は電源を落とした。根競べのようなそれに負けるつもりはなかった。怒っているのはお互い様だ。居場所が分かっているのに姿を見せないのは、姫野に後ろめたさがある証拠だと匡孝は思った。言いたいことがあるなら来ればいいのだ。携帯なんか、その存在を忘れれば、切ってしまえば、何の役にも立ちはしない。
意味のないことだ。
「なんでだよ」
「なんで?」
「あの子の何が気に入らないわけ?」
「春人」自分の声にかすかに混じった苛立ちを匡孝は感じた。
「ちかの事、侑里は好きなんだよ。なんで駄目なんだよ!」
匡孝はそこで気が付いた。姫野は自分が匡孝にしたことを、なにも悪いことだとは思っていないのだ。騙して連れて行ったうしろめたさはあっても、姫野の怒りの元は侑里を袖にした匡孝の行為の方だ。最初から姫野の怒りと匡孝の怒りの焦点は微妙にずれている。匡孝は覚悟を決めた。
「西尾さんの事は関係ない」
匡孝は姫野をまっすぐに見返した。西尾は侑里の苗字だ。ぐ、と喉を詰まらせたように姫野が顎を引いた。そんなふうに匡孝に見られるとは思っていなかったのだろう。
いつも匡孝は姫野のわがままを寛容に受け止めてきた。今回もそうだと、思っていたに違いない。
「俺はちゃんと要らないって言っただろ、断ったよな?誰とも付き合う気がないのに、それ知ってて引き合わせたのおまえだろ」
「だって、っ!」
「思い通りにならないからって、なんでなんて、おまえに言われたくない!」
「ちか…っ」
怒鳴られた姫野は青ざめた顔をしていた。柔らかな見た目と反して長男気質の匡孝を初めて目の当たりにして、その怒りの前に姫野は動揺していた。歳の離れた姉二人に甘やかされて育ってきた姫野は、いつだって許されてきた。家族にも周りにも、大抵の事は大目に見てもらえたのだ。
けれど、何をしても許されるだなんてあり得ない。
「侑里が、…ちかにまた会いたいって言ってる」
「会わないよ、会うわけないだろ」
切って捨てるように言った。それに縋るような目をした姫野を匡孝は睨みつけた。
「なんでだよ。もう一回くらい」
「春人!」
姫野は息をのんだが、匡孝に負けまいと見返してきた。「一回会っただけで何が分かるんだよ、好きになるかもしんねえじゃん!」
匡孝の耳に侑里の声が甦る。
『なにも私の事知らないのに、だめだなんておかしいよ』
それは──、
それはきみも同じだろ?
あの時、そう言い返してやればよかった──
「あの子だって、俺の事知らないよな?」
「それは…っ」
「たった一回会っただけだろ」
あの時が初対面だった。そうだ。間違っていない。姫野は何かを言おうと口を開き、必死でそれを探していた。
「そうだろ春人、おまえだって知らないんだ、俺の事だって何も知らないんだよ」
「っ、俺は、ちかの事知ってるよ!」
その瞬間、匡孝は頭の芯がすっと冷えていくのを感じた。
「何を?」
自分でも驚くほど冷たい声に姫野が怯んだ。
「なにって…!、ちかの事…!」
「知るわけない!」
即座に匡孝は言い返した。その剣幕に気圧された姫野が言葉を失って黙り込んだ。
「ずっと言わなかったんだから、おまえが知るわけない」
匡孝はぎゅっと手を握りしめた。
「春人、俺はね、女の子を好きになれない」
姫野が一瞬表情を失くし、それから匡孝を見た。
匡孝はその揺れる目を見返した。
言った言葉が姫野の中に沁みこむまで待った。
「俺はそうなんだ」
そうなんだよ、と繰り返した。姫野は息を呑んだ。
こんな形で言うなんて。
できれば──秘密にしておきたかった。
ずっと秘密に、友達でいるために、それはなによりも大事にしてきた事だったのに。
「だからもう、誰とも会ったりしないから。西尾さんにもほんとの事を言っていい。ちゃんとはじめから、言っておけばよかったよ。春人」
ごめんな、と言いながら、匡孝は茫然とする姫野の横をすり抜けた。
階段を駆け下りる途中、ちか、と呼ぶ声が鳴り始めた予鈴にかき消えていく。ちか待って、だが匡孝は振り返りもせずに教室に戻った。
*
トントン、と机の上を指で叩く音がした。
江藤、と呼びかけられて匡孝は我に返った。
「えっ、あ、なに?」
俯いた視線の先には解きかけのプリントがある。慌てて顔を上げると、くしゃりと髪を撫でられた。
放課後の国語準備室、いつもの補習の時間だった。
「進んでねえぞ」
「ご、ごめん…」
「なんだよ眠いのか?」
市倉の声が仕方がないな、というふうに笑っていた。
「何か飲むか」
覗き込んでいた市倉が立ち上がる。側をかすめる煙草の匂いを追うように匡孝はその姿を目でたどった。
窓の前の棚の上にあるポットから湯気が立ち上る。窓の外ではすっかり葉の落ちた銀杏の木が見えた。薄く曇った空が寒さを強調するかのように、陽を遮っている。風が冷たそうだ。その中を野球部の生徒たちがひたすらに走っている。
「ほら」
目の前に湯気の立つカップを置かれた。その表面はカフェオレ色に揺らめいている。
「…ありがと」
「今日はバイト休みだろ」
背を向けたまま市倉は言った。うん、と匡孝は頷いた。コンタットの定休日は月曜だ。けれど先程浜村から連絡があり、この後少し寄ることになっていた。
「でもちょっと顔出すことになった…」
「そうなのか」
「クリスマスのメニュー、試作したから食べに来いって」
「へえ」
そりゃいいな、と自分の飲み物を作る市倉の、その背を眺めながら匡孝はカップを手に取った。
「…甘いね」
「甘くていいだろ」
「うん」
「おまえは色々と…考えすぎだな」
そうかもしれない、と匡孝は思った。温かなカフェオレは甘くて冷えた体の隅々に染み渡るようだった。市倉が淹れたインスタントコーヒーの香りが漂う。窓の外、遠くから誰かの笑い声が聞こえる。静かな部屋にはふたりきりだ。
匡孝はカップの中を見た。
甘いカフェオレ。
柔らかく甘い匂い。
自分はきっと今とても甘やかされているのだろう。
市倉はあの後も変わらずに同じように接してくれる。
でも──
思えば勝手な言い分だった。姫野が悪いわけではない。言わずにいた自分が、臆病だっただけだ。
明日から姫野はもう近づいてこないだろう。
そのことを吉井になんて言えばいいだろう。誤魔化しは通じない。問い詰められる前に自分から言っておくしかないだろうか…
それとも、姫野がもう話しているだろうか。
明日、秘密は、──誰の手の中にあるだろう。
誰もが秘密を持っているだろうに、それを自分の中だけに閉じ込めておくのは案外難しい。いつも思いもしないところから綻びて零れ落ちていく。
自分自身の手でだってそうなのだから。
「先生はさ、秘密にしてることってある?」
市倉は棚に腰を引っ掛けて立ったままコーヒーを飲んでいた。淡い曇り空の逆光がその顔を陰にしている。伏せた目、落とされた視線がふと匡孝を捉えた。
「どうした?」
「…ごめん、なんでもない」
匡孝は誤魔化すように笑った。
「秘密はないな…俺は割と単純に出来てる」
「そうなの?」
意外だと思わず言った匡孝に市倉は喉奥でおかしそうに笑った。「おまえは俺をどんなふうに見てんだ…物事はおまえが思うよりもずっと単純だよ」
「…そうかな」
「そうだよ」
でも、と市倉は続けた。
「そうだな、隠してることならあるけど」
なぜかその瞬間匡孝の脳裏にはりいの姿が浮かんでいた。
心臓がどく、と跳ねる。作業机の隅に放り出されている市倉の携帯が視界に入る。あの時のようにまた鳴りだしそうで、匡孝は目を逸らした。
「おまえにはそのうち言うかもしれないな」
思わず市倉を見上げると、市倉もまた匡孝を見ていた。目が合うと市倉は窓辺を離れ、角を挟んだ斜め前を引いた。飲みかけのカップを置く音がやけに大きく響いた。両手をついて屈みこんだ影が匡孝の上に落ちていく。気がつくと、やけに近い場所に互いの顔があった。
近すぎる。
鼓動が早く強くなる。
意識を逸らすように匡孝が声を絞り出した。
言ってよ、と匡孝が言うと、市倉は目を細めて穏やかに笑う。
「その時が来たらな」
その時が来たら。
それにはまだ、やらねばならない事がある。上手くいけばいい、と市倉は思った。だが今はその事は考えたくない。確かに、物事は複雑なように見えて単純だ。自分の抱える問題は、ささいなきっかけさえあればきっとどうにでもなる。だから今は、この空間で過ごすこのゆるやかな時間を、このまま。
このまま。
息を詰めた匡孝に穏やかな笑みを向けて、市倉は思い出したようにその距離を離した。
椅子に座る。少し冷めたコーヒーのカップを持つと、指先に柔らかな髪の感触を思い出した。すこしばかり意地悪が過ぎたかとわずかに反省をする。
それで、と市倉は口調を変えた。
「今日、何があったって?」
えっ、と不意打ちを食らった匡孝がびくりと予想以上に肩を震わせたので、市倉はその様子に思わず──声を上げて笑ってしまった。
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