第11話
匡孝は市倉と並んで帰宅の道を歩いていた。
遅くなったので送っていくと言い出した市倉に辞退を申し出たが相手にされず、ならば家が見えるところまでと何度も念押した結果だった。ほとほとと革靴の足音とビーチサンダルを引きずる音が重なって、夜の中に響く。住宅街の暗がりに白くなった息が漂う。
とりとめのない会話をしてしばらく歩くと、やがて自宅近くに差し掛かった。頃合いかと、道の先にマンションが見えた所で匡孝は足を止め、先を行こうとする市倉のスウェットの袖をくい、と引いた。
「先生、もうここでいいよ。ウチ…すぐだし」
掴んだスウェットの生地が思うよりもずっと冷たくて、匡孝は市倉を見上げる。「もう帰りなよ、風邪引くよ?」
「こんなんで引かないだろ」
市倉は匡孝を見下ろした。
「ウチ、すぐか?」
「うんほら、あそこ。あのマンションだから…」
匡孝は家々の屋根の向こうに見える5階建の建物を指した。あの3階に匡孝の自宅がある。
もういいと匡孝が言うと、市倉は指差されたマンションを確認してから頷いた。
「じゃあ、ここで見てるから」
匡孝は可笑しくなった。
「女の子じゃないよ」
市倉は目を細めて匡孝の髪をくしゃ、と掻き回す。
「いいから、早く行け」
「…うん」
心臓が、ぎゅっと痛んだ。
指がその手に伸びそうになる。
匡孝は奥歯を噛み締めた。
この人が好きだ。
好きだと思う。
この人が、その優しさが。
「おやすみ」
振り返る匡孝に市倉は言った。おやすみなさい、と匡孝は返す。
「また明日ね…先生」
暗がりに立つ市倉の口元からふわっと白い息が上がった。
自宅マンションのエントランスに入るまで、匡孝はその背中に市倉の視線を感じ続けていた。
*
マンションの中は冷え切っていて寒々しかった。
「ただいま…」
返事を返すものはない。廊下の明かりが暗いリビングに細長く光を落としている。匡孝はリビングの入口に立ち、部屋の中をゆっくりと見回した。今朝と何も変わらない景色。今日も匡孝の待つその人が帰ってきた形跡はなさそうだった。匡孝はため息を落とすと鞄をソファの上に放った。電話の留守録通知が点滅をしている。再生ボタンを押すと祖母の声が入っていた。
「──匡孝、お祖母ちゃんだけど、元気にしてる?明日お誕生日だからこっちに来れない?
聞きながら匡孝はポケットから携帯を取り出して、妹に明日はバイトだから行けない、とメッセージを送った。行けなくてごめん、と嘘をつくと胸がちくりと痛んだ。けれど匡孝は行かない事を変える気はなかった。
もう夜も遅く、妹がこれを見るのは明日になってからだろう。怒り狂った妹が朝から電話を掛けてくるんだろうな、と匡孝はひとり苦笑した。
*
匡孝を送った後、帰路についた市倉はじっとアパートの階段下で自分の部屋の入り口を見ていた。やがてゆっくりと階段を上る。
年季の入ったアパートの階段は金属で出来ていて、音を立てずに上り下りするのにはちょっとしたコツが必要だった。おまけに錆びついているので重心を常に中央に乗せていなければならない。古くて狭いアパートだが、職場には近く家賃も安いので気に入っていた。そのうえコンビニも歩いて5分とかからない所にあるので、とても便利だ。ここを離れる気はなかった。今のところは、だが…
匡孝の事を思う。
泣き顔は突然で驚いた。どうやって宥めようかと思ったが、どうにか落ち着かせることが出来てよかったと市倉は安堵していた。泣いた理由は結局聞きそびれたままだ。…彼は何もかもをひとりで背負いこもうとしているように見えて、市倉は目が離せなかった。そのうちに匡孝の方から話してくれるといい、願うのはそれだけだ。
自分を好きだと言ってくれる匡孝を扱いあぐねたのは最初のうちだけだった。今はその姿を見つけるたびに、あの思うよりもずっと柔らかな髪を触りたいと思うまでになった。
彼のいる空間が心地良い。
失いたくはないと、思うほどに。
市倉は苦笑する。
どうかしてる。
だが匡孝のバイトの帰宅時間に合わせるように無意識にコンビニに行くようになったことには、市倉はまだ気付けないでいる。
理由は、しかし、それだけではないからだった。
「……」
上りきった2階の端が市倉の部屋だ。近づいて、目を凝らす。今日は何もないようだった。小さく息をつき市倉は鍵を取り出す。
度々自宅を空けるようになった理由はこれだ。
小さな違和感は日に日に増えて多くなる。
早く解決したいのは山々だったが、そうもいかないのが現状だった。原因は──分かっているつもりだ。
「俺のせいか…」
やれやれ、と市倉はそっとノブをひねって家の中に入った。
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