第9話

 匡孝が出て行った後の資料室で市倉は窓の外を見ていた。黄色い銀杏の葉がひらひらと落ちるたびに、部屋の中にも影が落ちていく。作業机の上には匡孝の使ったマグカップがそのままに残されていて、市倉の手元にまで長く影を伸ばしていた。書き纏めていたノートの上にペンを放り出し、椅子に背を深く預けると天井を仰ぎ見た。

 そして長く、誰にも聞かれることのないため息を、市倉はついた。



***



 咄嗟についた嘘でコンタットに来てみたはいいものの、今日はバイトではない日だった。表からとぼとぼと裏口に回ってみる。突然だけど仕事させてもらおうかなあ。家にまっすぐ帰ったところで落ち着かないのは分かっているのだ。どうしたって考えてしまう事柄を、頭から追い出すことなど出来ない。結局、匡孝にはこういう時駆け込む場所がないと、思い知らされる瞬間だった。

「わっ」

 裏口に回ると店長の大沢がそこにしゃがみ込んでいた。匡孝が声を上げると大沢もうわ、と叫んで、地面にぺたんと尻餅をついた。

「あっごめんなさい、びっくりしたっ…」

 大沢に手を貸しながら匡孝は謝った。

「どうも」

 ありがとう、と口の中でもごもごと大沢が言う。立ち上がった大沢は匡孝よりも少しだけ目線が上だ。ばつが悪そうにふいと逸らした顔に、眼鏡が引っかかっていて、匡孝はあれと思う。

「店長眼鏡にしたんですか」

「ああ…うん、そう」

 いつも文字を読んだりするときに目を眇めていたので目が悪いのだろうとは思っていたが、匡孝の知る限り大沢は裸眼で過ごしていた。浜村に聞くとコンタクトが合わないとかで、よほどのことがない限り眼鏡を掛けないと決めているんだとか。

「そうだけど」神経質そうな細い顎を引く。「…なに?」

 匡孝は苦笑しそうになる。

「え、似合ってるなって」

 大沢の横顔が怒ったみたいに変わる。しかし耳は赤かった。

 匡孝は大沢の顔を覗き込んだ。

「似合ってますよ?」

 途端に大沢の顔がかあ、と赤くなって口元がへの字に曲がった。普段は愛想のかけらもない大沢だが、少しずつ匡孝にも慣れ、素の表情を見せてくれるようになったのが嬉しかった。これは照れている顔だな、と匡孝は思う。自然に自分の顔も緩んでいくようで、へへ、と匡孝は笑った。

「…江藤君、きみ今日はバイトじゃないだろう」

 裏口を開けながら大沢は言った。足元に転がっていた汚れた皿を拾い上げて匡孝を先に促す。

「ちょっと、時間出来たから…」

 ふうん、と大沢は言った。

「こっちは構わないけど」

 じゃあ後は浜さんに聞いて、と大沢は言い、ロッカーが並ぶ壁の横のドアを開けて中に入っていった。

 厨房に顔を出すと浜村が目を丸くして匡孝を見た。

「なに、どうした」

 匡孝は肩をすくめて笑った。

「ちょっと時間出来ちゃって、バイト入ってもいいですか」

 いいけど、と浜村は言ってまあ座れ、と厨房の隅から折り畳み椅子を出して匡孝を座らせる。

「休憩してからな。俺も飯にするし」

 浜村はそう言って匡孝のために乾燥した林檎の皮をを入れた熱めの紅茶を淹れてくれた。即席のアップルティーだ。

「いい匂い」

「だろ?」

 そう言うと浜村は匡孝の向かいに腰を下ろし、遅すぎる昼食にありついていた。



 夜、コンタットの看板を仕舞うと、今日も終わっていく。

 あと数時間で明日になる。

 明日は――

「そういえば店長が裏口でしゃがんでたけど」

 後片付けを手伝いながら、匡孝は思い出して浜村に言った。

 ああ、と浜村は口角を上げる。

「眼鏡だったろ」

 うん、と匡孝は頷く。

 似合ってると言ったら赤くなった大沢の顔を思い出す。

「急にどうしたのかな」

 というより、裏口でなにをしていたのか。

「そのうち分かるよ」

「えー、今教えてくださいよー」

 にやにや笑う浜村に言うと、すう、と扉の開く音がして匡孝はぎょっとする。お疲れさま、と顔を覗かせた大沢と振り向きざまに目が合った。

「江藤君お疲れさま」

 いつもの無表情に戻った大沢がなんだかじとっと匡孝を見ていて、落ち着かなくなる。聞かれたかな、と匡孝は焦った。

「今日は急にすみませんでした」

 大沢はいいよ、と首を揉みながら言う。「きみがいてくれると浜さんが助かるから、それはいいけど…学生だからほどほどに」

 だから明日は休んで、と言われた。本来なら明日が出勤日だったのだ。

 匡孝ははい、と笑って答えた。もう上がっていいよ、と促されて匡孝は帰り支度をする。

「じゃあお疲れさまでしたー」

 お疲れーと言った浜村が、あ、と声を上げて匡孝を待たせた。

「江藤これ」持ってけ、と言われて冷蔵庫の中から取り出された小さな手提げ箱を手渡される。テイクアウト用のケーキ箱だ。店の外観に合わせた灰色で、店のロゴが小さくプリントされている。受け取るとちょうどいい重みが手のひらに乗った。

「おまえの好きなやつ」

 え、と顔を上げると浜村はおかしそうに笑った。

「余ったから持ってけ」

 浜村の肩越しに大沢がこちらをちらりと見た気がした。匡孝が目を丸くすると浜村はぽん、と匡孝の肩を叩いて気をつけてな、といつものように見送ってくれた。



 箱の中には匡孝の好きなコンタットの林檎とクリームチーズのケーキがふたつ入っていた。道すがらにそっと開いてみた中身に、匡孝は深く呼吸をする。

 マフラーに顎を埋めると体温で温まった湿り気が心地良かった。好きなものふたつ。浜村や大沢に言った覚えはなかったが、気付いていたのだろうか。それとも身に覚えのないだけで、いつか何かの拍子に言ってしまっていただろうか。

 明日が誕生日だと。

「――…」

 白くなった息が闇の中に溶けて消える。

 明日で匡孝は17になる。

 何かが変わるだろうか。

 まさか。

 そんなに簡単じゃないか、と匡孝は苦笑する。

 歩き出した先にいつもの十字路が見えた。あれを右に曲がれば市倉のアパートの方向だ。あれから市倉はどうしただろう。電話を、掛けなおしたのかな…

 コツコツと響く足音に匡孝は気付いた。右手から小柄な影が現れてこちらに曲がってくる。暗い街灯の下、俯きがちになった顔。女性だ。その人は足早に匡孝の横をすり抜けた。

 ――長い髪。

 匡孝はぎくりとする。

 すれ違いざまにりいの匂いがした。

 背後に遠ざかる足音に匡孝は振り向いた。一瞬のことで確信が持てない。だが…

 その背中に声を掛けようとして踏みとどまる。言う言葉がないことを思い知る。肩を掴んで振り向かせたいが出来るはずもない。こんな夜遅くに女の子に触れることなんて、自分は男で…もしも人違いだったら――考えただけで足が竦む。

 でも。

 匡孝は考える。

(違う)

 人違いなんかじゃない。

 あれはりいだ。花田りいだった。

 どくん、と心臓が跳ねる。

(先生の…)

 その方角から来た。

 市倉のアパートから、出てきたんだろうか。

「……っ」

 それって、つまり――

 つまりそういうことだ。

 遠ざかっていく後姿がじわっと暗闇に滲んで見える。

 なに。

 なに泣いてんの俺…

「う…っ」

 みっともない。

 踵を返して匡孝は大股で歩き出した。ごし、と手の甲で目元を拭う。家に帰ろう。家に帰ってケーキ食べよう。ちょっと、一日早いけど、全然。

 全然こんなのなんでもない。

 押し込めた気持ちが溢れ出す前に匡孝は歩き出した。箱の中でケーキがかたかたと音を立てる。

 道路に落ちるコンビニの明かりの中を匡孝は足早に過ぎる。目線を上げないようにしたのがまずかったのか、出てきた人とぶつかりそうになった。

「おっと…」

 すみません、と俯いたまま言ってすり抜けようとしたとき、その人は匡孝の前に立ちふさがった。

 俯いた視線の先にビーチサンダルのつま先が見えた。

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