第6話

 あの春、あれはまだ、2年に進級前の春休みだった。

 匡孝はある決意のもとにアルバイト先を探していた。休み中には見つけようと最寄駅周辺から当たってみたが、結果はあまり芳しくなく、気持ちは焦っていた。もういっそ近くのコンビニにしようかと考えつつ――あまりの近さから無意識に除外していた場所だ――夕方、帰り道を急ぐ。途中のスーパーで夕飯の買い物を済ませ、いつもは使わない裏道を通り抜けようとしたとき、それを見つけた。

 カフェ食堂コンタット。何でもない住宅街にぽつんと立つ灰色の壁の、白く塗られた板にくすんだ赤色の文字の看板が立てかけられている。車2台分ほどの草の生えた前庭の奥に入口があり、白い扉が薄く開いていた。中から漏れる淡い明かりに、入ってみたい衝動にかられる。

 こんなところに、カフェとかあったんだ。

 匡孝は前庭に面した壁にある窓に近づいて、そっと中を覗いてみた。暖かな明かりが天井から吊るされたいくつものむき出しの電球から溢れている。飴色のテーブル、ひじ掛けのついた椅子、小さなカウンター、深く濃い茶色のヘリンボーンの床。匡孝は椅子の数を数えてみた。24、24席の小さな店。カウンターの上にはグレーのエプロンが無造作に丸めて置かれていた。そばには開かれたままの雑誌と、湯気の上がるカップ。誰かが今までそこにいたのだと匡孝は思った。どんな料理を出すのだろう。どんな人たちがここを訪れ、食事をしていくのだろう。匡孝は知りたいと思った。この中に入れたら、いいのに。

 匡孝はそっと窓を離れた。壁に立てかけてある看板を確認する。店の名前、営業時間、定休日、そして一番下に電話番号を見つけると、それを携帯で写真に撮った。明日、もう一度。

 匡孝は立ち上がり、買い物袋を持って家へと急いで帰った。

 翌日、匡孝は弟妹の昼ご飯を用意してから家を出た。本当は連れて行ってやりたいけれど、今日はひとりがよかった。自転車で昨日の道をたどり、コンタットの前庭の隅っこに自転車を止めた。白い扉は今日は全開にされていて、その奥にはもうひとつ全面ガラスの引き戸が付いていた。なるほど、これなら扉を開け放していても大丈夫なわけだ。匡孝はそっと引き戸に手をかけた。ちりん、と鈴が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から白いコック服を着た大きな男が顔を覗かせた。匡孝を見て、ひとりですか、と問いかける。

「あ、はい」

 上ずりそうになる声をなんとか宥めて返事をすると、その人は二人掛けのテーブルへと案内してくれた。客はまだ2組しかおらず、そのどれにも接していない場所で、カウンターの斜め向かい、座ると厨房が少しだけ見えた。うわ、いいとこだった。

「ランチはこっち、こちらは単品でも出来ますよ。決まったら呼んでください、奥にいるんで」

「はい」

 ランチメニューに目を通して初めて匡孝はここがスパゲティをメインに出している店だと知った。そっか、それでこの匂い。店内はふわっとトマトソースのいい匂いがしていた。ぐう、とお腹が鳴る。匡孝はランチメニューの中から好きなものを選び、カウンターの奥に向かって声を掛けた。

 奥から出てきた男は匡孝のオーダーを聞くとまた厨房へと戻ろうとしたが、ちりんと鳴った音に立ち止まり、入ってきた男女に声を掛けた。

「いらっしゃいませ」そう言って匡孝のひとつ隣のテーブルにその男女を案内し、匡孝に言ったことと同じことを繰り返してまた奥に引っ込んだ。忙しいな、と匡孝は思う。きっとあの人はシェフなんだろうに、ホールまでやっている。人手が足りないのか、それとも元々ひとりでやっているのか…

 昨日見たカウンターのグレーのエプロンは、コック服には必要なさそうだけど。匡孝は運ばれてきた水をこくりと飲み、何気に店内を見回した。

「すみません」

 大きな声が上がる。よく通る声のそれは、ひとつ隣のテーブルからだった。座っている男が軽く手を上げて、顔を見せたシェフに合図している。匡孝はその仕草に、見惚れた。

 座っていても大柄だと分かる男の声、ゆるく波打つ長めの髪、真っ黒いそれが目元を覆っていて、男は髪をかき上げる。

「これと、これ」指をさし、オーダーする。連れの女の子の分までシェフに言ってから、男は首元のネクタイを少し緩めた。

「禁煙ですか」

「外でよければ灰皿出しますよ」

「あー…じゃあ」後でもらいます、と男は言って肩をすくめた。窮屈そうに身じろいだ瞬間目が合いそうになって、慌てて匡孝は目を逸らした。

 目を引く男だ。自然と視線がそちらに向かいそうになる。

 シェフが立ち去ると連れの女の子が喋り始めた。男は時々相づち程度に言葉を返すばかりで、特に興味のなさそうな素振りも見せず、女の子に好きに喋らせている。ふたりは歳が離れて見えた。女の子は20歳ぐらい、男はそれよりも10は上に見える。

 長く柔らかそうな髪を女の子がかき上げるたびに少し甘い香水の香りがした。食事をする場所にはいささか不似合いなそれに、聞くともなしに2人の会話に耳を傾けている匡孝は、なんだか落ち着かなくなる。携帯をいじるふりをしてやり過ごした。そうしているうちにシェフが匡孝のランチを運んでくる。鼻をくすぐるスパイスの匂いに食欲がわき立ち、匡孝は食事に集中するように携帯をテーブルの上に伏せた。

 食事は文句なしに美味しかった。相変わらず忙しなくシェフが厨房を行ったり来たりしていて、ランチ時だというのにほかのスタッフの姿は見当たらなかった。食後のコーヒーを飲みながら匡孝は、よし、と心に決めた。

 バイト、ここにしよう。

 帰ったら電話しよう、少し時間を開けて、昨日と同じくらいの時に。

「それでね、私、友達に言ったの」

 匡孝はちらりとひとつ隣を伺った。女の子はずっと、ずっと喋っている。食事が来てからも、ずっとそうなので、女の子の前には冷めてしまったスパゲティが半分以上残っていた。あれはもう固まってしまっていて、食べられないだろうな、と匡孝は思った。もったいない。あんなに美味しかったのに。

 連れの男は出来るだけゆっくり食べていたようだが、さすがに合わせることは出来なかったのか、すでに食べ終えてしまっている。手持無沙汰に水をこくりと、ゆっくりと飲んでいた。

「そしたらねえ…」

 女の子は男の気を引くのに必死に見えた。付き合ってるんだろうな、と匡孝は思う。好きでしょうがないという気持ちが、女の子から見えないオーラとなって溢れ出しているようだ。

 いいなあ…

 水を飲む男と再び目が合いそうになって匡孝は慌てて立ち上がった。もう出よう。なんかいたたまれない。

 がたっ、と鳴った椅子の音に気付いたのか、奥からシェフが顔を覗かせた。カウンターの端のレジに向かおうとして、ちょっと待って、と匡孝に言う。

「こちらお下げしましょうか、食後のコーヒーでも?」

 シェフは女の子と男のテーブルに行き、男に言った。男は頷いてから、灰皿いいですか、とシェフに尋ねた。

「ちょっと煙草吸ってくる」男はそう言って灰皿を受け取り、ちりん、と鈴を鳴らして外へ出て行った。女の子はつまらなそうにフォークを取りスパゲティを突いたが、食べられそうにないと気づいてこれ下げて下さい、とシェフに言い、携帯をいじり始めた。

「お待たせしました」

 なんでもないようにレジの前で待つ匡孝の前にやって来て、シェフは言った。「春休み?」

「はい」

「いいよなあ、ありがとう」

 会計を済ませて外に出ると、自転車のそばで男が壁にもたれて煙草を吸っていた。ふーっと吐いた煙が風に乗り、匡孝のそばをすり抜ける。男がこちらを向いた。

「悪い」

 いえ、と匡孝は言った。

 煙の事だ。

 男のそばまで行き、自転車の鍵を取り出す。

「春休み?」

 え、と匡孝は顔を上げた。

 背の高い男は穏やかに笑いながら匡孝を見ていた。

「高校生?」

「はい…」

 そうです、と答えながら匡孝の鼓動は早くなっていった。

 どきどきと脈打つ心臓が聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに、匡孝はその男に視線を奪われていた。

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