第12話 始まりは偽物の香り(五)
アントニーとの勝負が終ると、柴田とアントニーが隣の部屋に移動した。約十五分で、アントニーが等々力の変装をして出てきた。
変装という観点から見れば、アントニーは等々力そっくりになっていた。変装に掛けた時間も短いので、アントニーは役者というより映画に出てくる怪盗並みに手際のよさだった。おそらく、普段アントニーを見慣れた警備の人間でも、アントニーとはわからないだろう。
(明らかに変装慣れしているな。アントニーは今までにも狙われる経験が今まであったのかもしれない。狙われる度に変装していたので上達したんだな。顔もいいんだから、いっそ役者にでもなれば良いのに)
左近が「あとは、お願いします」と丁寧に柴田に頼んだ。
等々力と入れ替わったアントニーが、左近と一緒に、花を下ろした台車を押して部屋から出て行った。
柴田が床にビニールを敷いた。椅子を置いて「髪をカットします」と告げたので、黙ってアントニーの髪型に変更してもらう。後は、ほんの軽くメイクしてもらう。
等々力は鏡を見た。やはり髪型を変えたくらいでは、アントニーと同じにならない。むしろ、理髪店で有名人と同じ髪型にして失敗した「やっちゃった」感すらある。
鏡の端に柴田の顔が映っていた。
柴田から「なんでこんな男とアントニー様をさっき誤認したのだろう」といわんばかり表情があった。柴田が等々力の身長に合わせた、アントニーが普段に着ている服と同じ服を差し出した。
服はクリーム色のスラックスと薄いグレーの品の良いジャケットだった。
(センスは悪くないけど、この選択は、いただけないな。元が似ていないのだから、いっそ、アントニーが普段をしないが、時々する格好をして、雰囲気を変えたほうが成り済まし易い)
柴田が選んだ服を着る前に、等々力は纏う空気をアントニーに切り替えた。
「今日は、そんな気分じゃない」
柴田が少し困ったような声を出した。
「これは普段、アントニー様が着ているものですが」
等々力は黙って隣室に移動した。自分の家にあるクローゼットでも開けるように、アントニーのクローゼットを開けた。
クローゼットの端に、隠れるようにデニムの使い込まれたズボン、紺の半袖のポロシャツ、デニムの上着を見つけた。
「今日はこれで行こう」
等々力は柴田が見ている前で、普通にズボンとシャツを脱いで着替えた。
ズボンはウエストがきついが、入った。ただ、ズボンと上着とも、丈が合わなかった。
等々力は自然に命令した。
「柴田、袖の長さと、ズボンの丈を合わせてよ」
柴田が申し訳なさそうに申し出た。
「申し訳ありませんが、それは、坊ちゃまのお気に入りです。勝手に鋏を入れるのは、どうかと」
アントニーのお気に入りの衣装なら、勝手に切ればアントニーが怒るのは理解できる。とはいえ、アントニーに成り済ましたのだから、今は等々力をアントニーとして扱ってもらわなければ困る。
それに、今回の仕事は命懸けの仕事。妥協は禁物。
等々力はすぐにアントニーとして、頑として同じ命令をした。
「柴田、袖の長さと、ズボンの丈を合わせてよ」
それでも、柴田が躊躇っていたので、少し不機嫌に命じた。
「僕は二度、言ったよ。聞こえなかったかい?」
柴田が諦めたように「畏まりました、坊ちゃま」と従った。
すぐに、ズボンの丈と袖の裾が直された。
着替えが終ると、紅茶を飲みながら、柴田に予定を聞いた。
「坊ちゃまの今日の予定です。この後、二十分後にお屋敷を車で出発して、空港まで行きます。空港に着くと、六人の護衛を二人に減らし一緒に、札幌行きの飛行機に乗ります。札幌では、食事をしてショッピング。二十二時に、ご帰宅予定です」
「襲撃はどの地点であるの」
柴田は丁寧な口調で説明した。
「おそらく、お屋敷から空港までに行く間かと思われます」
「思われますって、言わなくていい」
柴田が少し不思議そうな表情をしたので、優雅に断言した。
「柴田が確実だと考えるのなら、になります、でいい。でも、なんだか楽しくなってきちゃったね」
楽しくなんか、ないはず。されど、アントニーの空気を纏うとなぜか、心が上向いた。アントニーは坊ちゃん育ちだが、危険なスリルを求める気質があるためだろう。
柴田が心の扉を開けたような口調で感想を述べた。
「全く、奇妙です。ついさっきまで、全くの別人がそこにいたのに、今は坊ちゃまが、目の前にいるように感じる。襲撃されるのは偽物とわかっているのに、一緒に従いていって襲撃を阻止したくなります」
等々力は、やんわりと言い含めた。
「何を言っているんだい、柴田。僕は一人しかいないよ。それと、襲撃されるとわかっているなら、なおさら、柴田は来なくいい。柴田を危険な目に遭わせたくはない。スリルは一人で味わうのが、僕の流儀さ」
柴田が一礼した。
時間になり、等々力はブラウンのサングラスを掛けて部屋から出た。
部屋の外には、警備の人間が戻ってきていた。
警備の人間のうち、一番に年季の入った人物が、等々力の顔を見た。
髪に白い物を多く混じった、年季の入った警備員の頬に、僅かに力が入った。
等々力は年季の入った警備員の変化を見逃さなかった。
(あ、こいつ、勘がいいな。他の警備員と違って、できる人間だ)
アントニーに関しては少し前に調書を読んで、先ほど会話して空気を読んだばかり。
情報量が圧倒的に少ない。エア・マスターといっても、注意力が一般人を超えている人間には、わずかに違和感を与える。けれども、等々力は慌てなかった。
柴田が何を言ってフォローする前に、等々力は動いた。
年配の警備員に不機嫌かつ傲慢に問いかけた。
「なんだ、この格好が、おかしいのか」
等々力は他の警備員に「お前たちも同じ意見か」と言いたげに一瞥した。
他の警備員はすぐに顔を逸らした。明らかにアントニーの不興を買うのを怖れた顔だった。
等々力に言葉を掛けられた年季の入った警備員も、等々力の声を聞くと「いえ、お似合いです。アントニー様」と、すぐに畏まった態度になって、疑うのを止めたようだった。
「朝から気分が悪い」と、聞こえるように声に出してから、柴田の後ろを従いていく。
車に乗るまで、屋敷の多くの人間とすれ違った。ウリエル氏は身の回りを一流の人間で固めているのか、高い注意力を持った使用人が多かった。
等々力を見て時折「おや」という顔をする人間が何人かいた。それでも、等々力が顔を向けるだけで畏まって、それ以上しつこく疑う者はいなかった。
車に乗ると、事情を知っているはずの護衛の人間ですら、小声で柴田に「影武者はどうしました?」と聞いてくるほど完璧に等々力はアントニーに成り済ましていた。
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