日常サーカス
黄舞@9/5新作発売
第1話【日常サーカス】
その日、妻と私は冷戦状態に居た。正確に言えば私は必死でホットラインを開設しようと試みているのだが、返ってくるのは沈黙のみだった。
始まりは些細なボタンの掛け間違い、伸ばした手が数センチ相手に届かない、日常でよく見られるそんな出来事だった。しかし一度落ちたボールが途中で止まらないように、二人の関係は加速度的に悪化していった。
『貴方は結局自分のことばかり大切なのよ。紗代子はまだ三歳なのよ? 貴方が守らなくて誰が守るのよ。分かってないでしょ?』
昨日の夜の妻の言葉を思い出す。
三歳になったばかりの娘はやんちゃな時期だ。
体調が悪いから、と専業主婦の妻を休ませるため、私は急遽有給休暇を取得し娘の面倒を見ることになった。私がいない間に誰か他の人が仕事を片付けてくれる訳では無いから、来週の月曜は帰るのが遅くなりそうだ。
居間でおもちゃの乗り物で夢中に遊んでいる娘を細目で見ながら、私はふと喉が渇いて台所まで足を運んだ。居間からは大人の足でわずか十数歩、台所からも居間の様子が見れるため大丈夫だろうと思ったのだ。それが初めの失敗だった。
ーーガッターーン!!
突然の音に身体を震わせながら、何が起きたのか状況を確認する。既に自責の念とこれから起こるであろう出来事に肌は粟立っていた。娘はわずか数秒の間に食卓用の椅子に登り、椅子ごと床へと転げ落ちていたのだ。
鳴り響く騒音。まるで私を避難するかのようなその鳴声は、二階で寝ている妻を呼び覚ますには十分なサイレンだった。
慌ただしい足音と共に妻が駆け下りてくる。寄れてシワシワになったパジャマ姿、誰が見ても寝起きと分かる姿の上には、鬼のような形相が乗っている。
「何があったの?! 紗代ちゃん! 大丈夫!?」
「ちょっと水を飲みに席を立ったら、その間に落ちちゃったんだ」
「なんでちゃんと見てないの!? 紗代子は子供なんだから貴方が見ていないと駄目でしょう!?」
「見ていたさ。俺はちゃんと紗代子を見ていた」
「そういうことを言っているんじゃないのよ! もう貴方は昔からそう! この前だって!ーー」
そこからは詳しく覚えていないが、いつもの様に過ぎた話を永遠とされ、辟易としてしまった私は、つい売り言葉に買い言葉で声を荒らげていった。最終的にはいつもの様に妻は憤懣(ふんまん)やるかたないといったふうに二階へと消えていった。
私はぶつけ所のない憤りを感じながらも、再び笑顔で走り回る娘に目を向けた。幸いおでこに紅斑を作っただけで支障は無いようだ。妻の迅速な対応のかいもあって、先ほど自身の身に起きたことなどすっかり記憶の外へと行ってしまっているようだ。
ーーここで昨日の記憶から現実へと意識を呼び戻す。昨日の事件は確かに私の不注意があったのは認めるが、たとえ見ていたとしても起こりうる事態だったのだ。何もこれが初めて起こった惨劇ではない。実際仕事中に送られてくる娘の様子のメールには、時折痛々しい画像が添付されている。
ふぅっと息を吐き出す。よりによって何故今日なのか。今日は朝から出かける予定が決まっている。一ヶ月程前に予約したサーカスを観に行くのだ。
幸い娘は膝の上に乗せること前提で無料だが、それでも一番大きいお札が二枚消えることを考えると、今の経済状況では再度向かうのは難しいだろう。そんな我が家にとっては一大イベントを迎えた朝に、この冷戦状態はひどく私の心を締め付けた。
そもそも初めにサーカスを観たいと言いだしたのは妻だった。私も少なからず興味があったため、二つ返事で了承した。しかし妻の性格を考えると胃が痛む。不機嫌になった妻は、どんなに楽しみなことがあったとしても非常に無気力になるからだ。
私は電動シェーバーで髭を剃り歯を磨いた後、髪全体を濡らし乱暴にタオルで水気を拭いた。心許なくなった短い髪をクシで撫で付け、一度だけ鏡の中の自分を見る。『少し老けたな……』そう思いながら洗面台から居間へと身体を移し、ソファに沈み込む。
目の前では妻は娘の髪の毛を三つ編みにしている所だった。生まれてから一度も切ったことの無い髪の毛は腰の辺りまで伸び、それを三つ編みにするのが朝の日課だ。
ぼんやりとその様子を眺めていると妻がこちらに視線を向け、何も言わずにまた元の位置に顔を戻した。いつもならここで何かをしろと言われる所だが、未だに続く冷戦状態はその沈黙を守っていた。
「紗代子を車に乗せて」
しばらくして、娘の準備が一通り終わった後、妻は今日初めてとなる私への言葉を発した。私は粛々と娘を玄関まで連れていき、靴を履かせる。すると妻がずかずかとやって来て、娘に薄手のパーカーを着させた。
既に秋口に入り、長袖一枚では少し肌寒い気温だ。暑ければ脱げばいいし、パーカーを着させることに異論は無かった。しかし妻が私に向けた目線には、『この位のことも出来ないのか』という言葉を乗せているようで、私は居心地の悪さを感じた。
二時間ほどの運転の後、サーカスが公演される会場までたどり着いた。既に入口には長蛇の列が出来ており、当日券売り場にもそれなりの人集りが出来ていた。
「あの人たちは自由席に座るんだろうね? 少し高かったけど、指定席にしてよかったよ。ねぇ?」
私は極力明るい声を意識しながら妻に話しかける。しかし帰ってきたのはまたも沈黙だ。めげずに同じ言葉を繰り返す。
「俺たちは指定席を買ってよかったよね。ねぇ?」
「……そうね……」
やった。どうやら暗号の解読の糸口を見つけられたようだ。その後も私は様々な話題を思いつく限り妻に投げかけた。徐々に沈黙の割合よりも返答が多くなっていく。
「そういえば今日見るサーカスで一番の見どころは空中ブランコらしいよ。なんでも命綱なしで三階建ての屋上の高さで飛ぶらしい」
「そうね。楽しみね」
開場時間を過ぎた辺りで私たちは会場近くのレストランから出た。既に入場は進んでおり、先程の長蛇の列も今や切り捨てられたトカゲの尻尾の長さほどしか無かった。
「えーと、Bの十三、Bの十三……あった、ここだ」
私は二つ並びの座席の右側へと座る。必然的に妻は私の左隣、娘は私の膝の上だ。会場は空席など見当たらないほど人で埋め尽くされていた。どれだけ人気のサーカスか一目瞭然で、どんな素晴らしいショーを魅せてくれるのか気持ちは沸き立っていた。
中央に設置されたステージにスポットライトが照らされ、白の下地に目と口が赤で強調された奇妙な衣装を着た男が佇んでいるのが見えた。
「お集まりの皆様。今宵はこのステージで世にも珍しいショーが開催されます。皆様方はその生きた証人となることでしょう。浮世のことを忘れ、しばしの間、幻想の世界をどうぞお楽しみください」
クラウンが口上を述べたと思った途端、ステージは床から立ち上がる炎で包まれた。驚きのあまり声を上げ、身体をビクつかせる。娘は嬉しそうに手を叩いていた。
炎が消えた時には先程のクラウンも姿を消していた。歩く姿など意識になかったが、他の方法で移動したのだろうか? どちらにしろ、始めの掴みは順調だった。
光や音、または炎や煙など、様々な視覚効果を駆使しながら次々と演目が目の前で繰り広げられて行った。そのどれもがヒヤリとしたり驚いたり、または単純に技巧の高さに感心したりと私は充分に楽しんでいた。
横を見るとステージの光のせいかもしれないが、妻も目を輝かせながら食い入るようにショーを見ていた。娘も非常にご満悦らしく、ひたすらに笑い声を上げ、小さな手をぱちぱちと鳴らしていた。
「それでは皆様お待ちかねの、当サーカス随一の演者、ホワイト姉妹による命綱無しの空中ブランコをお見せ致します。一歩間違えれば奈落の底へ真っ逆さま。スリル満点のショーをお楽しみください」
先程のクラウンがステージの端に立ち、再び口上を述べる。二つのスポットライトが増え、ステージの中央に白いレオタード姿の妙齢の女性が二人、まるでモデルのような足取りで片腕を真っ直ぐと上げながら歩いてきた。
「今までも凄かったけど、ようやくメインイベントだね? どんな感じかな? 空中ブランコなんて間近で見るのは初めてだからドキドキするよ。まさか落ちたりしないよね?」
妻に話しかけるが、返事はない。珍しいことではないので、気にせず意識をステージへと戻す。大丈夫、既に冷戦は解除されたはずだ。
木の棒の端に長いロープが付いただけのブランコに手足をかけた女性は、引き上げられていくブランコとともに空中へと昇っていく。昇り切った時には自分の席からは首を少し傾けないと見えない位置まで上がっていた。
上の方に用意されていた金属製の台のような物に一度立つと、二人は勢いよく空中へと舞い降りて行った。白い二つの線が空中で優雅に演舞を始めた。
息のつく間も無いというのはこの事かと思うほど、目まぐるしく二人は飛び交っている。会場にいる誰もがその動きを一つも見逃すまいと釘付けになっていたように思う。
『あ!!』
会場中で大きな叫び声が響く。悲鳴を上げた女性の声が妙に強く耳に響いた。『ああ……これは私の妻の声か……』自分の思考と切り離された目線は羽をもがれた蝶のように落ちていく一人の女性を追っていた。
無意識のうちにこの後起こるであろう惨劇を、せめて娘には見せるまいと、右手で娘の目を覆う。突然の出来事に娘は力の限り抵抗するが、私は力を込めそれを阻止した。
ーーぽふん。
女性はいつの間にか設置されていたセーフティネットの上に落ち、数度その上で跳ねた後、深くお辞儀をしてステージを去っていった。安堵の溜息がそこら中から聞こえる。私も忘れていた呼吸を平常運転に戻すため、意識的に何度か息を深く出し入れした。
未だに手の中で暴れる娘のことを思い出し、ぱっと手を開く。右手の感覚を確認した際、忘れていた左手へと目を向けると、妻が私の手を強く握りしめていた。
その手はひどく震えていて、やけに冷たく感じたが、その表面はしっとりと濡れていた。目には涙を浮かべ、感情を抑えきれずにいるようだった。
「ネットがいつの間にか用意されていたんだね。ビックリしたけど、良かったね」
私の呼びかけに答えず、しかし手を握りしめたまま、もう片方の手で自分の目を覆う。私はそれ以上の言葉をかけられずに、ただじっと待っているだけだった。その間、娘は周りの雰囲気が伝わったのか、一言も発さず、ただ私の膝の上で静かにしていた。
「皆様驚かれたでしょうか? 完璧な演技にはそれ相応の美しさがありますが、今宵わたくし共が提供させて頂いたのは、強い感情でございます! それでは引き続きショーをお楽しみ頂くようよろしくお願い申し上げます」
気付くとクラウンがネットが片付けられたステージの中央に立ち、口上を述べていた。私は顔を前に向け、クラウンの言った意味を考えていた。
あの落下は元々予定されていたものなのか? 考えてみたら、特にブランコの動きがおかしくなっている様子もなかった。落ちるには唐突すぎた。
しかし、そんな演出をわざわざするだろうか? 一歩間違えれば、いやおそらくこれから少なくない量のクレームが予想される。そうまでして落下を演ずる意味があるだろうか。
もやもやした気分のまま残りの演目を眺め、終了後、大体の人が会場から出た後で私たちも移動を始める。まだ日は高い位置にいるが、今日はひどく疲れたのでこれで帰りたい気分だ。
「どうする? もう帰ろうか?」
「そうね」
妻も疲れたのか私の意見に賛同した。いつの間にか寝てしまった娘をチャイルドシートに乗せ、車のエンジンをかける。車が動き出すと、妻は今日観たサーカスの演目に対する感想を尽きることなく話し始めた。
運転に意識が集中している私は、帰りの間ひたすらに喋り続ける妻の言葉を流しながら聞き、適当に相槌を打っていた。妻の話は次第に熱を帯び、とうとう話題は空中ブランコへと至った。
感受性の強い妻はその事を思い出しまた感情が溢れたのか、また泣きだしてしまった。なんでも、落ちていく女性と娘の姿を重ねてしまったらしい。
私は「大丈夫。大丈夫だから」とだけしか言えずに、その後はただ黙々と車を家まで走らせた。家に着くとまだ寝ている娘を起こし、家の中まで連れていく。このまま寝させていては夜中に寝付けなくなってしまう。
少ない荷物を居間に置くと、妻はまだ喋り足りなかったのか、空中ブランコの後の演目の感想を話し始めた。私は「うん。うん」と聞きながら、安堵の表情を浮かべた。
「どうやら、機嫌はすっかり良くなったみたいだね? いやぁ、サーカス楽しかったね。行ってよかったよ」
言い終わった後、妻の顔を見て愕然とする。先程まで表情豊かに語っていた妻は真顔に戻っていた。
「は? 何言ってるの? 私許してないから。許して欲しかったら私の好きなチョコでも買ってきてよね」
私は回答を分かっていながらも、聞かざるを得ない質問を投げかける。念の為、まさか、があるのを期待せずにはいられない。
「チョコって、コンビニかスーパーで売ってるやつでいいのかな? それだったら今から買ってくるよ」
「は? 私が好きなのって言ったでしょ? 分かってるでしょ。駅前のデパートで売ってるやつ」
そう言うと妻は娘と遊ぶために紙とハサミ、ノリなどを取り出し、娘の方へと行ってしまった。取り残された私は慌てて自分の財布の中身を確認する。
ぎりぎり間に合う金額があるようだ。私は外に止めてある自転車に跨り駅へと向かった。
今回の件で私は一つ勉強した。命綱やセーフティネットが無いのなら、決して初めに落としてはいけないのだ。物は下に落ちていく。それは自然の摂理なのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます