2.カレーと担当医

 翌朝。日が昇り、カーテン越しでも窓の外が明るくなった頃合いに、浅い眠りからクロガネは目覚めた。そのまま三〇分はぼんやりと時間を置いてから起床するのだが、枕元に白い人影が立っていることに気付いて、ギクリとする。

「おはようございます」

 昨日と同じ白いワンピース姿の美優が、朝の寒気に匹敵するような冷えた目つきで見下ろしていた。薄闇に浮かぶ緑色の瞳が少し怖い。お陰で完全に目が覚めた。

「……ああ、おはよう」

 毛布を剥がして身体を起こすと、身体の節々に小さな痛みを覚え、軽く揉みほぐす。昨日現れた居候に寝床を提供し、やむなくオフィスのソファーで寝たのだが、慣れないことはするものではない。今夜から予備の布団を床に敷いて寝ようと心に決めて、シャワーを浴びに行く。

『……次のニュースです。

 東京都鋼和市で、新型の〈サイバーマーメイド〉が実用段階に至ったという日本政府の発表に、各国の代表が国連を通じて視察の打診を行っていることが解りました』

 寝汗を流してリビングに戻ると、美優がテレビニュースを見ていた。その間に朝食の用意を始める。もちろん、作るのは自分の分だけだ。人間は栄養で動くが、ガイノイドは電気で動く。金欠で生活がカツカツなクロガネにとって、食費や食材の消費が二倍にならずに済んだことは安堵していた。

 冷蔵庫を除くキッチンのブレーカーを上げる。必要最低限の電源を残した徹底的な節電術はもはや習慣だ。飲用も兼ねた浄水器ごしの水で米を研ぎ、IHコンロにかけた鍋で炊き上げる。タイマー機能は便利だが、十年足らずで買い替えるように設計されている炊飯器は個人的に必要ない。何より設置場所を取る。

『――これまではアメリカ、中国、ロシア、ドイツ、イギリス、フランスの先進六ヵ国が高性能自律管理型AI、通称〈サイバーマーメイド〉を保有してきました。

 今回、〈サイバーマーメイド〉が実用化されれば、日本が七番目の自律管理型AI保有国となり、ネットワークの拡大とそれに伴う技術進歩が更に加速する見込みです』

 米の分量は一食分、無駄に余らせないようにしている。うっかり余らせた場合は冷蔵庫に保管し、早い内に炒飯にでもしてしまえばいい。

『――ただ、自律管理型AIの恩恵により、人間の生活が豊かになる一方で、サイバー犯罪やサイボーグ犯罪が年々増加の一途を辿っており、最近は反サイバーマーメイド組織【パラベラム】を中心とした過激派組織によるサイバーテロやコンピューター関連業者の会社員を狙ったテロなどが相次いで発生していることを受けて、各国の治安当局ではその対策と対応に追われています。

 警視庁では対サイバー犯罪専門の部署の設置を進めている一方で、対サイボーグ犯罪に関しては警察や自衛隊などの携帯火器の一新が検討されていますが、これに対して一部の市民団体からは反対意見も出ており、まともな対抗案が提示できていないのが現状です』

 時々蓋を開けて確認し、米が炊き上がったら火を止め、しばらく蒸しておく。その間にメインのおかずを作ろう。

 ……いつの間にか美優が近くまで来て料理の手並みを見ているが、気にしない。

 本日の朝食は質素かつ定番で、個人的に豪勢に見えるベーコンエッグだ。

 熱したフライパンにサラダ油大さじ一杯を引いて、縦に半分くらい裂いたスライスベーコンを格子状に並べていく。この時、フライパンの中央にスペースを空けて並べるのがポイントだ。

 次に、卵を割ってこの空間に黄身を落とす。大さじ一杯の水を鍋肌から入れて蓋をし、中火で加熱する。

「ふむ」

 先程からニュースでは〈サイバーマーメイド〉の特集が続いている。CMを挟みつつも、話題が途切れることがない。クロガネは時折耳を傾けながら、調理を続ける。

 シューと音が出てきたら弱火にし、三分ほど待ったら半熟の完成だ。仕上げに塩コショウを少々振り掛ける。

『――ちなみに、七番目の〈サイバーマーメイド〉には名前があることを皆さんはご存知でしょうか? 

 つい先日、四万六千通の一般公募の中から、〈日乃本ナナ〉と命名されました』

 炊き上がった白米を軽くかき混ぜてから、昼食用と夕飯用の保存容器にそれぞれ鍋から移してしばらく置いておく。ある程度冷ましたら蓋をして冷蔵庫へ。

 朝食分のご飯を茶碗によそい、空になった鍋は軽く水洗いしてから味噌汁を作る。朝食分一人前の量の水を溜めた鍋を火にかけ、鰹節と昆布で出汁をとる。沸騰直前に鰹節を取り除いて生臭くなるのを回避し、昆布はそのまま具材にする。ちなみに取り除いた鰹節は醤油で味付けし、ご飯にトッピング。お玉に適量すくった味噌を丁寧に溶かし、絹ごし豆腐を小さなサイコロ状にカットして鍋に入れ、ネギも入れる。

 そのまましばらく温めたら、スタンダードな味噌汁も完成。

『――〈ナナ〉が完成したら未来はどんな姿になるのか、現実的には様々な問題もありますが、私個人としては、是非ともより良い快適な未来になっていることを願ってます。

 ――それでは、天気予報のコーナーです』

 使った調理器具は水桶に浸しておいて、お盆の上に朝食を乗せてダイニングテーブルへ運ぶ。後ろから美優もてくてく付いてきた。

「しばらくはずっと晴れか……」

 週間天気予報を見ながら二人は向き合う形で席に着き、「いただきます」とクロガネはお手製の朝食を摂り始め、美優はそんなクロガネをどこか興味深そうに見つめている……というより、観察している。

「……何?」

 さすがに気になって食べ辛い。

「なんでもないです。……美味しいですか?」

「まぁ、そうなるように作ったつもり」

「美味しいって、なんですか?」

 伸ばした箸が止まる。美優には味覚がない。元より食事は不要の存在なのだから『美味しいとは何か?』という問いに対して適切な回答が思い浮かばない。

 まいった。当たり前すぎて、いざ言葉にして教えるとなると、これはなかなか難しい。まして相手はガイノイドである。感情的なものよりも、舌を通して脳を刺激して云々かんぬんな理詰めで答えた方が受け入れやすいと思う。だが、美優は『人間に近づくAI』を備えた特別製だ。理系的なロジックよりも、感情的に接した方が逆に良いかもしれない。

 過去に読んだ書物、文献、漫画。過去に観たテレビ番組、映画、人間ドキュメント。これまでに得てきた知識や情報を掘り起こし、脳をフル回転させて目の前の少女が納得に足る解答を示す。どうか届いてくれと、無駄に念を込めながら。

「……美味しいというのは、一種の幸せだと思う」

「幸せ?」

「人間は生まれてから死ぬまでの間に、多くの幸せを見つけて生きる生き物だ」

 長く生きているわけでも専門家でもないのに哲学的な話になってきたなと、クロガネは不安になってきたが決して表には出さない。不安を悟られてしまった途端に伝わる力がなくなるからだ。

「死ぬまでに美味しいものを食べたい、好きなことをしたい、金持ちになりたい、有名になりたい。そういった幸福感……欲望ともいえるけど、それらを満たすことで死ぬ間際になって自分の人生に価値があったのだと認識するのが、感情ある人間の特権なのだと思う」

 美優は真面目に聞いている。

「大学のとある研究データからも、良い思い出が多い人間は、最期まで優しい人間のままで死ぬらしい。それだけ人生が充実していて満たされたものなんだろうな。それに『食べる』の『食』という字は『人が良くなる』と書く……と、どこかで聞いた気がする。美味しい食事が人を豊かに、幸せにしてくれるのだろう」

「なるほど」頷く美優。

 どうやら納得してくれたようだ。密かに胸を撫で下ろす。

「では私も飲食可能な身体に改良すれば、身をもって幸福感が味わえると。食事だけに」

 誰が美味い……もとい、上手いことを言えと。

「無理するな。飲み食いが出来るようになっても、消化器官がないならリバースする羽目になるぞ。下手したら壊れる」

 取り入れた食物を消化、各栄養素になって吸収する機能が備わっていないのなら、一度口に入れたものを吐き出さなくてはならない。食べ物を粗末にするのは論外である上に、実行した本人が傷つくことになる。

「む。ではどうすれば……」

 ここは手厳しい意見を言うべきか。

「別に食事する必要は君にはないだろう」

 ヒトではないのだから、という言葉だけは思いとどまる。

「……それは、そう、ですが」

 人間になりたいガイノイドは、人間になれない現実にぶつかり、落ち込んでいるように見える。やはり、昨日出したコーヒーに美優自身も思うことがあったようだ。昨日からの付き合い程度で彼女を理解するにはまだ早いと思っていたが、逆に美優が人間らしく急激に成長しているからだろう。

 いずれにせよ、ポーカーフェイスなのに落ち込んでネガティヴな空気を出すなど、普通の機械はできやしない。少しばかり美優に親近感を覚えた。

「だけどたった今、『美味しい』の意味が解ったんだろ? 君自身は経験できなくても、違う形で『美味しい』は『幸せなこと』だと実感できるんじゃないか」

「それはどういう意味ですか?」

「味覚がないなら、視覚で実感すればいい。例えば……君が手料理を作って誰かに振る舞う、とか」

 我ながら良い考えだと自画自賛。

「私が料理を……?」

「うん。幸せの感情というか、空気感というものは伝染うつるものだ。誰かに良くしたら『ありがとう』と感謝されて、何故か自分も幸せに感じることがある。料理なんかは特にそうだな。『美味しい』の一言を貰うために頑張って作ってご馳走して、実際に言われたら嬉しい。誰かの為を想って与えると、ちゃんと返ってくる」

「クロガネさんにもそんな経験が?」

「あるよ。料理以外でも。探偵だから、依頼人から感謝される」

 恩を仇で返されたこともあるが、黙っておこう。

「……与えることが、幸せに……」

 真面目に考え込む美優。彼女には良い意味で伝わっただろうか? そして良いことを言った筈なのに、何故か背中がかゆくなってきた。柄じゃないことはするものではない。

「……決めました」

「何が?」照れ隠しにすすっていた味噌汁のお椀を下ろす。

「今日から私がクロガネさんのご飯を作ります」

 また思い切ったことをするものだ。

「いきなりかい。ちなみに料理の経験は?」

「ありません。ですが、今朝の献立は先程見て憶えたので再現可能です。――たった今、ネットから料理レシピも軽く一千種ほどダウンロードしました」

 一度見て再現可能だとか。数秒足らずで得たレシピ一千種を軽くだとか。

「これだから機械人形オートマタは……」

 ずるい。記憶力なら人間よりも遥かに優秀であるのは理解しているが、外見が人間に酷似しているだけで微妙に釈然としないのは何故だろう。

「ですが、今朝の献立を除いて、肝心の調理用具の使い方や料理の手順はまったく解りません。なので、クロガネさんの協力を要請します」

 そうきたか。だが昨夜のような身体の洗い方を訊かれるよりは遥かに健全である。

「解った。一緒に作ろう」

「ありがとうございます」

 無表情だった美優の顔が、わずかにほころぶ。

 その笑顔だけで、今回の仕事に初めてやりがいを持てた気がした。



 探偵事務所はクロガネの自宅も兼ねている二階建てだ。

 一階で一番広いリビングはオフィスと兼用になっており、扉を挟んでダイニングキッチン、トイレ、浴室となっている。

 二階に続く階段を上ると、廊下を挟んで右側にベランダ、左側に部屋が二つある。手前の部屋が資料室と称した物置部屋。その名の通り、これまでの依頼に関する資料が、依頼主の個人情報などを暗号化した上でファイル別に所狭しと並べられている。

 そして奥の部屋がクロガネの自室――現在は美優が使用している部屋である。

 二階の部屋は二つしかないため、どちらも広くスペースが取られている。だが、事務所が周囲の建物に囲まれる形で区の片隅に位置し、美優の部屋が一番奥に配置されていることもあって、その部屋の窓から見える景色は隣のビルの壁。風情の欠片もなく、窓と壁の間はわずか三〇センチほどしかないため、むしろ圧迫感しかない。果たして換気以外に窓の意味があるのか。

「だが盗撮や狙撃もされないと考えれば、それほど悪くもない」

 朝食を終え、食器を洗った後、クロガネは美優の部屋を掃除する。

「金がないから基本的に自室の生活感は二の次、実用重視のライフスタイルだな」

 確かに殺風景な部屋だと美優も思う。衣類はクローゼットの中。今はベランダに干されている布団を除けば、私物らしい私物が置いていない。そのため、掃除も十分と掛からず終了。

物がないから楽だな、と美優は思った。そして手持ちぶさだった。掃除の手順を覚えることも兼ねて手伝うつもりだったのに。

「次はオフィスだ」

 クロガネがさっさと部屋を出るので付いていく。

「今度は手伝ってもらうぞ」

「臨むところです」



 リビングと兼用しているオフィスもまた小綺麗だった。毎日、開店前と閉店後に簡単な掃除をしているため、目立った汚れもない。

「一応は接客業だからな。日頃から少しずつ綺麗にしているんだ」

 クロガネの指示を受けながら掃除が終わったところで、美優はテレビラックの中に収められた今や生産も流通もしていない旧世代のゲーム機に興味が引かれる。

 それに気付いたクロガネは「それか?」と説明する。

「子連れの依頼人もいるから、大人が話をしている間、子供が退屈しないように用意したものだ。そこの本棚には漫画や絵本もある」

 指差した先にある大きめの本棚。大半は漫画の単行本が占めているが、小説や絵本も収納されていた。

 美優が本の背表紙に書かれたタイトルをネットで検索すると、どれもひと昔前に出版されたもので、単純明快な王道を貫いている内容だと知る。ゲームソフトも過激な描写は可能な限り避けているものばかり。子供に悪影響を与えない配慮が行き届いたラインナップに優しい人だな、と美優が感心していると、

「ゲームも漫画も中古でタダ同然にセットで投げ売りされていたのを見つけてな。良い買い物だった」

 この男、最も配慮していたのは値段だった。

「台無しです」

「えっ、何が?」

「私の中でクロガネさんの株価が暴落しました」

「上場に出てたのか俺」

「上場に出るほどクロガネさんの価値は高くありません。むしろゴミです」

「ひでぇなおい」

 クロガネのツッコミを無視して、美優は漫画に手を伸ばす。一瞬、クロガネに許可を取った方が良いかと考えたが、この棚にある本は来客用に用意したものだと判断し、遠慮なく手に取って中身を読み始める。じっくりと読むのは最初だけで、あっという間にパラパラと最後のページをめくり終えて単行本を閉じる。

「速いな」

「はい。速読は基本的な機能ですから、この程度のページ数なら十秒も掛かりません」

 無表情なのにドヤ顔。矛盾した表現だが、美優にはしっくりくる。

「漫画の読み方は知っていたんだな」

 先程の暴言の仕返しか、クロガネがやや意地の悪い笑みを浮かべて嫌味を言ってやると、即座に「失礼な」と反論する美優。

「それくらい解りますとも。漫画なる書物は文章と絵が一体化していて右から左、上から下のコマに沿って読み進めていくものでしょう? すぐに読み方は理解できましたよ」

 漫画を読むこと自体、今のが初めてだったようだ。

「つまり、どんな読者でも解りやすく伝えるかに特化した漫画の構成力が素晴らしいと」

「違います。私のAIが超優秀だからです」

 美優の反応が意地を張っている子供のようで微笑ましい。

「そうかー君は賢いなー」

「……何故、私の頭を撫でるのですか?」

 どこか憮然とした表情で睨む美優に対し、クロガネは飄々ひょうひょうと彼女の頭を撫で続ける。

「褒めてるんだよ」

「馬鹿にしているの間違いでは?」

「まさか。ていうか、君の髪は触り心地が良いな」

「む」

 沈黙する美優。チョロい。だんだん扱い方が解ってきた。ちなみに彼女の髪の触り心地が良いのは事実である。もう少しだけ、さらさらとした感触を楽しんでいると、

「ぬ」

 急に熱を帯びてきたのを感じ、手を離す。

「この髪の毛……放熱機能があるのか」

「そうです。高速演算処理や運動などの負荷で熱が生じた際、毛髪に偽装した放熱線から排熱します」

 エネルギー消費量が多い精密機械ほど、排熱と冷却は避けられない課題である。ガイノイドの種類にもよるだろうが、美優は髪の毛が放熱線となっている仕様らしい。

「今はそこまで頭を使っていないし、運動もしていないだろうに」

「……言われてみればそうですね。どこか不具合でも起きたのでしょうか? 昨夜の内に済ませた簡易的なシステムチェックでは、どこも異常はなかったのに」

 指摘されて考え込む美優に、ふと、クロガネは何か思いつく。

「……頭を撫でられて恥ずかしかったとか?」

「恥ずかしいとは?」

 うーん、とクロガネは天井を仰いで唸る。これはまた言葉で説明するのが難しい感情だ。

「……待てよ」ふと思い出す。

 昨日の風呂の件で『恥じらい』に多少は触れたはず。今読んだ漫画の内容も、ギャグ要素は強いがラブコメものだったはずだ。登場キャラの『恥じらい』の仕草や『恥ずかしい』感情の描写があるはずだし、そこから美優自身がすでに検索をしていてもおかしくはない。

「実は知ってて訊いてないか?」

「なんですか? 今、続きを読んでいるので話し掛けないでください」

 いつの間にか二冊目を読んでいる美優。

「図星かよ」

「その根拠は?」

 呆れつつも、根拠となる事実を突きつける。

「一つ、真面目に話を聞く君が質問しておいて漫画を読むとかありえない。二つ、速読できるのに二冊目はゆっくり読んでいる不自然。三つ、俺と目を合わせない」

 そう指摘すると、閉じた本を持ったまま両手を身体の前で重ねて深々と頭を下げる美優。

「……すみません、恥ずかしかったんです」

「正直でよろしい」

 クロガネが再び美優の頭に手を伸ばすと、美優が身を反らせてその手を避ける。

 三度頭を撫でようとすると、やはり避ける。

「…………」

「…………」

 その後、両者無言のまま同じやり取りが繰り返され、最終的に美優が小走りでクロガネの手が届かない位置に離れたところで無駄な攻防が終了した。

「頭の一つくらい撫でさせろよ」

「お断りします。何故か恥ずかしいし、そのせいで熱を持ちますし。それに……」

「それに?」

「私の頭部は、一つしかありませんっ」

「そこかよ」

 やはり、どこかズレたガイノイドだ。



 昼食後。美優と食器を洗った後、クロガネは全長十五センチほどのスティック状の機械を取り出し、スイッチを入れる。すると機械の側面にあるスリットから光が飛び出す。テレビやPCのように液晶画面に映像が映し出されるのではなく、宙空に直接映像が投影されているのだ。

「それ、最新のPIDですか?」

 美優が訊ね、クロガネは「ああ」と頷く。

 パーソナル・インフォメーション・デバイス――通称PIDとは、鋼和市が独自に開発した最先端の個人用情報端末である。

 市外には一切流通していない鋼和市限定の端末であるため、その性能は従来の携帯端末より遥かに多機能かつ高性能。それでもまだ試作段階のため、鋼和市民のほぼ全員がテスターとして試験運用を行い、集めたデータを基にアップデートを繰り返して完成度を高めている。一番の課題である製造コストさえクリアできれば、すぐに量産体制を整え、早くて来年には完全版を世界市場に出す予定だ。

 PID一つで、電話やメールといった従来の相互通信をはじめ身分証明、金銭管理など日常生活のほぼ全てが賄え、生体認証機能も備わっている。登録した人間以外には使用できず、PIDの発行・各種データ管理は、鋼和市を統括する中央区が執り行っており、紛失や故障に対する補償も万全だ。市民にとって、PIDは完全に生活必需品なのである。

 ちなみにクロガネはPIDに懐疑的だ。市外に一歩でも出れば使い物にならない上に、日常生活を送る分にはプライバシーが保護されているとはいえ、四六時中監視を余儀なくされる首輪のようなものと捉えているからである。しかしながら、身分証も兼ねている以上は持ち歩かざるを得ず、便利であることには違いないと割り切ってはいた。

「よし」

 PIDを操作し、自身の口座に今回の依頼の前金が振り込まれているのを確認したクロガネは美優に向き直る。

「買い物に行くぞ」



 事務所を出た二人はモノレールに乗り、北のレトロ区から東のビジネス区に向かう。山手線のように、ぐるりと鋼和市を一周できるモノレールと、東西と南北をそれぞれ結ぶ二本の直通路線はこの街の大動脈といっていい。

 ちなみにクロガネは運転免許はあれど、自前の交通手段は持っていない。ガソリンもしくは電気といった燃料費や維持費が掛かるくらいなら最初から所有せず、その分を借金の返済や生活費に回しているのだ。

「別に私の服を買って頂かなくても」

 買い物の目的は、美優の衣服の調達だ。だが彼女はガイノイドであるため新陳代謝がなく、人間のように汗や皮脂で服が汚れることはない。美優にとって今着ているワンピースがあれば充分であり、新たに衣類を増やすなど金の無駄遣いとしか思えないのだ。

「私は一張羅で問題ないですし、わざわざここで経費を浪費しなくても良いのでは? 浮いたお金はクロガネさんの懐に入れて構いません」

「やめろ。誘惑に負けないよう、そう考えないようにしているんだから」

 まだ短い付き合いだが、クロガネが金にうるさいことは美優も知っている。だからこそ理解できなかった。すでに依頼の前金を必要経費として支払っている。クロガネに支払われた金である以上、その使い道はクロガネが決めていいとはいえ、まさか「君の服を買いに行くぞ」と言われるとは予想だにしなかった。

「どうしてそこまで私の服にこだわるのです?」

「同じ服ばかり着て、周囲の人間に外見の特徴を憶えられてしまうのを避けるためだ。ただでさえ君の容姿は目を引くからな、一応は変装の意味合いもある。それと、お洒落というものを実際に体験した方が良いと思ったから」

 前者は納得したが、後者は解せない。「はぁ」と生返事をして、軽く周囲を見回す。

 平日の昼下がりという時間帯もあって、車内はそれほど込み合っていない。ところどころ空席もある。乗客は思い思いに本を読んだり、隣に座っている友人同士で周りの迷惑にならない程度に談笑したり、PIDを操作してネットニュースを読んだり、ゲームをしている。

 窓の外を眺める。北のスラム区は『特徴がないのが特徴』という表現がしっくりくる街並みだ。都会のように慌ただしく発展しているわけでもなく、田舎のように自然が生い茂るのんびりとした雰囲気でもない。近くで見れば本土以上に技術が進んだものが見られるが、遠目から見ればそれも曖昧になる。鋼和市の基準で見れば、スラム区は地方都市に似た外観と暮らしぶりなのだ。

 やがて、スラム区の駅を五回ほど通過したところで外の雰囲気がガラリと変わる。


 東のビジネス区。

 鋼和市最大の経済区であり、慌ただしくも賑やかな都会の景色と喧騒がある区画だ。

 目に映る建物はどれもこれもが企業の高層ビルであり、一面びっしりとガラスに覆われた外壁は、日光を反射させて輝いていた。

 既存の大手企業の下請けから支社まで多少の規模の差はあれど多様に展開。五時間に一回、新たな会社が起業しては数日で倒産を繰り返すといった現象もあり、街そのものが生きているかのように目まぐるしく、力強く発展している。

 一流のホテルやレストラン、大型百貨店があちこちに展開し、大規模なスポーツスタジアムやコンサート会場などの娯楽施設も充実している。鋼和市で最も経済が回る区画だけあって、市外からやってくる営業目的のビジネスマンや観光客も多い。


 目的の駅で降りて徒歩数分で、八階建ての大型ショッピングモールに到着する。

 広い建物の中央が強化ガラスに覆われた屋上まで吹き抜けになっており、そこから日光が入ることで屋内でも充分に明るく開放感がある。各階には専門店が並び、多くの買い物客で賑わっていた。

 二人はエスカレーターで三階のブティックに向かう。

「さて」

 婦人服のコーナーで、クロガネは中年の女性従業員に声を掛ける。

「すみません。こちらの女の子に似合う服を見繕って貰いたいんですが」

「かしこまりました。どのような感じに致しましょうか?」

 端末を片手に、従業員は気さくにオーダーを訊ねてくる。

「お出かけ用のお洒落なものと、室内用にラフなものを一着ずつ。予算は全体で五万円前後でお願いできますか?」

「かしこまりました。では、こちらにどうぞ」

 ざっくりとしたクロガネのオーダーに、営業スマイルで受け答えた従業員は姿見の前に美優を促す。

「クロガネさんが選んでくれるのでは?」

「さすがに女物のセンスは解らんよ。ほら、行ってこい」

 クロガネに背中を押されて美優は従業員の元へ足を運ぶ。

 姿見の前に立つと、従業員は手にしていた端末を操作する。すると、姿見に映る美優の白いワンピースが一瞬にしてカジュアルな春物の服に変化した。

 もちろん、身に着けているワンピースに変化は一切ない。この姿見も鋼和市で開発されたもので、AR技術の応用で店内にある衣服のデータをCGで姿見の前に立つ人間に投影する代物だ。

 『お出かけ』『カジュアル』『春物』『洋服』など、端末に打ち込んだキーワードに沿って、姿見の前に立つ人間の体型に合った店内にある衣服データを、瞬時に選択して投影してくれるのだ。税込み価格も表示されるため、いちいち商品を手に取って選んだり、タグの値段を見て一喜一憂したり、試着室で着替える手間や待ち時間などを解消した便利な鏡である。

 女性従業員は端末を操作し、姿見に映る美優の服の上下を変えていく。

「こちらの上着なら、スカートはこの色が良いですね。今はこの組み合わせがトレンドなんですよ」

「あ、はい。そうなんですか?」

 ファッションに関しての知識がないため、美優はとりあえず適当に相槌を打つ。

「お客様はとても美人さんなので、どんな組み合わせでもお似合いですね。どんなお洋服がベストなのか、私の方が困ってしまいます」

 言葉とは裏腹に全然困っている風には見えないため、美優の方が困惑する。

「ありがとうございます。その、頑張ってください」

「はいっ」活き活きと服選びしている店員さん。

「あの」

「はい?」

 手を止めて、美優の言葉に耳を傾ける。

「楽しいですか?」

「ええ、とても楽しいですよ」

「それは何故?」

「ここまで綺麗なお客様に会えたのは初めてでして、その方のお召し物を選ぶのは楽しくて」

「私が? 綺麗?」

「はい。まるでお人形さんのようです」

「……それはあながち間違ってないです」

「はい?」

「いえ、何でもありません。続けてください」

「かしこまりした。では、こちらをですね……」

 文字通り着せ替え人形と化している美優を少し離れた所で見守るクロガネ。

 不用意に迂闊なことを言わないか警戒していたが、大丈夫そうだ。

「それでは、着替えてきます」

 女性従業員がチョイスした衣類を手に、試着室に入ってカーテンを閉める美優。ハイテクな姿見があっても、実際に着てみないと着心地が解らないこともあるという理由もあって試着室が廃れることはなかった。

 美優が着替えている間に、クロガネは従業員に礼を言う。

「ありがとうございます。女物の服はよく解らなくて、助かりました」

「いいえ、とんでもございません。とても綺麗な方ですね。こちらもお選びするのが楽しかったです。……彼女さんですか?」

 営業モードから気さくに訪ねてくる従業員。どうやら間近で接しても、美優の正体がガイノイドであるとは気付かなかったようだ。

「いえ、知人の子です。市外から遊びに来ていて、街の案内を頼まれました」

 という設定で、事前に美優と口裏を合わせておいた。

「そうでしたか。あら、ごめんなさい。踏み込んだ話をしてしまって」

「いえ……」

 ふと、視界に巡回している二人組の警察官が映る。パトロール強化月間として、こうした人気の多い大型店にも足を運んでいるのだろう。最近、街の至る所でパトカーや警察官を目にすることが多い。

 話が一段落したのを見計らったかのように、試着室のカーテンが開かれる。

「へぇ……」

 クロガネは思わず感嘆した。

 美優が身に着けたのは、膝上丈のニットワンピースに黒いタイツという組み合わせ。俗にいう大人かわいいコーディネートだ。先程まで着ていた白いワンピースも凛とした雰囲気と清楚感がマッチしていたが、これはまた違った魅力があってとても似合っている。

「どうですか?」と訊ねる美優に、「よく似合ってる」と頷くクロガネ。

「そうですか?」と確認する美優に、「はい、とても大人っぽくて可愛らしいですよ」とにこやかに褒める女性従業員。

 美優はクロガネに向き直る。いつもの無表情に、わずかばかりの呆れと不機嫌さが入り混じったような複雑な顔をしている。

「クロガネさんも店員さんのようなコメントくださいよ」

「素直に褒めたつもりなんだがな」

 似合っていると言っただろうに。

「もっと褒めちぎっても良いですよ?」

「歯の浮く装飾過剰なゴテゴテ表現は苦手でね。シンプル・イズ・ベストが俺の信条だ」

「甲斐性なしの素っ気ない言い訳ですね」

 容赦なしのストレートな言い方だ。

「保護者に対して口が悪いね」

「薔薇には棘が付きものです」

「自分を薔薇とな。店員さんに美人だ綺麗だ言われて浮かれたか」

「クロガネさんは私の容姿について、どう見ているんですか?」

「控えめに言って超絶美少女ですが、何か?」

 ありのまま客観的な事実を告げた途端、一秒だけ美優の全身が硬直する。

「……ありがとうございます」

「だから浮かれるなよ」

「だから浮かれてませんっ」

 二人の掛け合いに、従業員も「仲が良いですね」と笑みをこぼした。



 サイズも予算もぴったりに収まり、従業員にお礼を言って服を購入した二人は、ショッピングモール一階の食品売り場に足を運ぶ。夕食の食材選びだ。

「さて、初めて作るのは何が良いものか」

「この私の料理デビューには、やはり相応に相応しいものが良いと考えます」

 ふんす、と気合い充分の美優。

「意気込みは買うけど、素人が口にすると失敗フラグに聞こえるのは何故だろうな」

「レシピはすでに二千種ダウンロードしました。何でも来いです」

 いつの間にか倍に増えていた。

「だけど、料理自体は実際にやって覚えるしかないからな」

 クロガネは人参、玉ねぎ、ジャガイモ、ピーマンを一袋ずつ、豚バラ肉を二パック手に取って買い物かごの中に入れる。

「この具材内容は……カレーですか?」

「シチューの可能性もあるぞ」

 レトルト・調味料コーナーにて、二人はどの固形ルーにするか吟味する。

「煮込みものは初心者でも作りやすいからな」

「色々種類ありますね。それでカレーですか? シチューですか?」

「無難にカレーにしよう。そこのセール品のルーを二個な。今日は練習で作ってみるぞ」

「辛さ? は、どうします?」

 味覚がないため『辛い』の意味が理解できなくとも、カレーには必要な要素だと判断して訊ねてくる美優。

「甘口と中辛で」

 指示された通りにカレールーを二つ手に取って買い物かごに入れる。

「二種類のチョイスには何か意味が?」

「いや。俺は基本中辛だ」

「では何故甘口も?」

「明日、知り合いに差し入れするんだけど、そいつは甘口派なんだよ。今日は中辛のルーで練習な」

 無人レジに向かう。食材を持参していた買い物袋に移してそのまま出口に向かう。

 出口の天井と両脇にあるセンサーが、瞬時に袋の中身を走査し、買い物客のPIDを通じて自動的に銀行口座から代金が支払われる仕組みだ。ゆえに会計待ちの行列は鋼和市のどの店舗にも見られず、会計係といった役職は存在しない。

 ただ、未だにキャッシュレスに馴染めず現金で払うことにこだわる買い物客もわずかながらに存在する。そのため、セルフレジを二台ほど設置してあるが、そちらはわずかに順番待ちの列が出来ていた。

 ショッピングモールを出ると、夕方になっていた。薄闇の中、西に沈む夕日が赤く輝く。もう春とはいえ、この時間帯は少し肌寒い。

「寒くないか?」

 つい自然に、クロガネは美優にそう訊ねてしまう。

「私は平気ですよ」

「……そうだったな」

 彼女がガイノイドであるのを忘れていた。

「でも、ありがとうございます」

 まっすぐな目で礼を言う美優。どことなく嬉しそうに見えるのは気のせいだろう。

 なんとなく気恥ずかしくなって目を逸らす。

「……帰るぞ」

 誤魔化すようにPIDでモノレールの時刻票を確認しながら、クロガネは駅に足を向けた。



 探偵事務所前でクロガネは玄関ドアの電子錠を解除しようとすると、

「……あいつ、来てたのか」

 すでに鍵が開いていた。

「……泥棒、ですか?」

 そう訊ねる美優の声には、若干警戒が含まれている。

「いや。俺が許可して、正規登録した人間なら誰でも上がれる。といっても、俺以外に登録しているのは一人しかいないが」

 そう言ってクロガネはドアを開け、事務所内に入っていき、美優も続いた。

「おかえり、鉄哉。お邪魔してた……よ?」

 オフィスの来客用ソファーに座り、勝手にテレビゲームをしてくつろいでいたのは、クロガネと同年代か少し年上と思しき若い女性だった。淡いブラウンで染め上げられた髪は肩の辺りで綺麗に切り揃え、白いブラウスに黒の上下を着こなす姿はデキるOLを彷彿とさせる。

 気さくにクロガネを迎える挨拶が尻すぼみになったのは、ぴったりと彼の傍に寄り添う美優の存在に気付いたからだろう。ぽかんと彼女を見て呆然とするも、数秒後にはクロガネに疑惑の視線を向ける。

「……鉄哉、貴方にそんな趣味が」

「ねーよ」

 即座に否定するクロガネ。

「間違えた。……鉄哉、貴方にそんな性癖が」

「ねーよ」

 ロリコン趣味も性癖も全力で否定する。

「あっても構いませんよ」

「よくねーよ。ややこしくなるから少し静かにしてて」

 またも空気が読めない美優をいさめるも、

「すっかり懐いているじゃない! ていうか、この子はどこから湧いてきたの!? もしくは攫ってきたの!? まさか隠し子!?」

 勝手に女性がヒートアップしてややこしくなった。

「落ち着け。今説明するから」


(探偵、事情説明中)


「……つまり、この安藤美優さんは貴方の知人の娘で、高校の課外授業の一環で探偵事務所にホームステイしていると」

 冷静にクロガネから受けた説明を要約する女性。

「解ってくれたか」

「いや解らん」

「どこがだよ」

 ちゃんと話を聞いてくれなかったのかと少しへこむ。

「一人暮らしの野郎の所に年頃の女子高生を預けるのを許可する親や学校の倫理観とか、よりにもよって、この街でもトラブルメーカーと悪名高い鉄哉の所に泊まるとか無防備にも程があるでしょう」

 正論である上に痛いところを突いてくる。

「だったら直接この子の親御さんに問い合わせてくれ。俺からはもう説明することがない」

 クロガネから仕事用のガラケーを受け取った女性は、即座に登録されている美優の親(を演じる協力者)の電話番号を入力して連絡を取る。

「……もしもし、こちら安藤美優さんの保護者様のお電話でお間違いないでしょうか? ――私は黒沢鉄哉の担当医の海堂真奈かいどうまなと申します。黒沢から電話をお借りしてご連絡させていただきました。今回、そちらのお嬢さんがクロガネ探偵事務所に依頼した内容について、私の方からいくつか質問したいことが――」

 企業の電話相談係でも通じるような淡々とした業務口調だ。切り替えが早い上に上手い。

「疑い深い奴だ」

 実際のところ、美優の素性を伏せるために嘘をついているのだから仕方がない。

「……ごめんなさい、私のせいで」

 それを察してか、美優が謝ってくる。

「気にするな。クライアントの頼まれ事を守るのも仕事の内だ」

「ありがとうございます。……ところで、彼女は一体? 今、クロガネさんの担当医って――」

「あー! もー!」

 美優の台詞を遮って女性――海堂真奈が奇声を上げる。電話は終わったようだ。

「不用心よ! 知人とはいえ嫁入り前の娘を男としても探偵としても二流の所に預けるとか! 随分と人を疑わない優しい人ね! 事前調査くらいしなさいよ、まったく!」

 苦虫を潰したかのような渋面で、真奈はガラケーを放り返す。

「いちいち一言多い。そして怒ってるのか心配してるのかどっちなんだ、お前は?」

 通話履歴を確認したクロガネは、ガラケーを折り畳んでポケットにしまった。

「決まってるでしょ。両方よ」

 美優が「あ、この人も良い人っぽい」と呟く。

「気が済んだところで、自己紹介してくれないか?」

 済んでないと拗ねる真奈だが、まだ名乗っていないことを思い出し、美優に向き合う。

「色々お恥ずかしいところを見せて申し訳ありません。改めまして、私は海堂真奈。鋼和市西区の大学病院に勤務しています」

「安藤美優です」

 よろしく、と互いに握手を交わす。数秒前とは打って変わり凛然とした、大人の雰囲気を纏う真奈。その変わり身の早さとギャップに美優は戸惑う。

「お医者さん、ですか?」

「ええ。でもどちらかと言うと、研究者に近いかな。専門は機械義肢なの。ところで、貴女の眼って義眼かしら? 綺麗な緑色ね」

「あっはい、ありがとうございます……」

 研究者気質なのか、顔を近付けてまじまじと覗き込まれ、美優は思わず目を逸らす。

 美優がガイノイドであることには気付いていないようだが、クロガネは助け舟を出した。

「それで? 海堂は何しに来たんだ? 飯を作りに行くのは明日だろ?」

 美優が「明日この人のご飯を作りに行くんですか?」と言わんばかりな視線をクロガネに向ける。

「うん、お腹すいたからご飯ご馳走して」

 美優の「たかりに来たんですか?」のツッコミは無視して、話を進めるクロガネと真奈。

「減額してくれるなら、ご馳走してやんよ」

「今晩のメニューは?」

「カレー」

「甘口?」

「甘口もある」

「ビールも付けてくれる?」

「ノンアルコールでよければ」

「OK。じゃあ、千円引きでどう?」

「いいだろう。交渉成立だな」

 テンポの良い会話の中、美優は二つの結論を得る。

 買い物の時にクロガネが話していた知り合いとは真奈であること。

 そして、二人の関係は良好であることに。

「……あの、お二人はどういう関係ですか?」

 美優のその質問に、

「貧乏探偵と行き遅れの借金主」

 クロガネは淡々と即答し、

「よし、減額の話はなしね」

 真奈は凄みのある笑顔でクロガネに迫り、

「交渉決裂だな。タダ飯はやらん、帰れ」

 軽く流してクロガネは玄関のドアを指差した。

 とりあえず、クロガネが真奈に対して借金をしていることは間違いない。

「クロガネさん、この人から借金しているんですか?」

「……ああ、遺憾ながら」

「ちなみに、どれくらい?」

「――三十五億」と、一度背中を見せて振り返りながら真奈が答える。

「嘘を教えるな。そしてネタが古い」

「ブルゾン真奈と呼んで」

「呼ばねーよ」

 溜息をついて、クロガネは苦々しく借金額を口にする。

「……おおよそ、一億五千万円だ」

 さすがの美優も、わずかだが目を見開く。

「どうしてそんな大金を?」

「……昔、仕事でドジって死にかける程の大怪我をしてな。その時にこいつがあの手この手その手で色々手を尽くしてくれた結果、何とか死なずに済んで、その時の治療費をツケにしてくれたんだ」

「担当医って、そういう……」

 美優は納得したと頷く。

「把握しました。海堂さんはクロガネさんの命の恩人。返し切れない恩と借金があると」

「お、上手いこと言うね、美優ちゃん。それと、私のことは真奈さんで良いよ」

 突然できた味方に真奈が調子づく。

「同時に、クロガネさんがお金に対して過剰なこだわりがある理由も把握しました」

「そうなのよ。だからって、拾った命をむざむざ危険に晒すような危ない仕事ばっかり受けるから困ったものよね」

「恩返しどころか恩知らずで命知らずですね。まともな稼ぎ方くらい、探せば他にあるでしょうに」

「そうね! そうよね! もっと言ってやって。担当医の忠告無視していっつも無茶するんだから、この馬鹿は!」

 美優の援護射撃に真奈の不満もヒートアップしていく。

「馬鹿は死ななきゃ治らないとは言いますが、やはり死にかけた程度では完治の見込みはないみたいですね」

「重症よね!」

「いっそのこと、殺して埋めてやりましょうか」

「やだ何この子怖い!? 鉄哉、この子怖いよ!?」

 唐突に物騒な発言をした美優から距離を取る真奈。

「お前が『もっと言ってやって』とか言うから」

 クロガネが呆れた視線を真奈に送る。

「私のせいかよ!?」

「真奈さんのせいで話の流れがブラックジョークにまで発展してしまいました」

「冗談でも表情変えずに言うから余計怖いよ!?」

 震える真奈に対し、クロガネは平然としている。美優との初対面が初対面だけに、物騒な台詞など今更気に掛けるほどでもない。

「とりあえず、これからクロガネさんと夕食を作るのに忙しくなるので、借金取りはどうぞお引き取りください。出口はあちらです」

 美優は玄関のドアを指差した。

「いきなり厄介払いされた!? さっきまであんなに意気投合して仲良くなったのに、ヒドイ!」

「人をこき下ろすことに意気投合して仲良くなるのもヒドイ話なんだがな」

 クロガネからしてみれば二人とも厄介者である。

 一人は事あるごとに小言を言い、もう一人(一体)は空気が読めない。前者は命の恩人であるために反論が難しく、後者は成長途中であるために根気よく教えていく他ない。

「大丈夫です。私だけは何があってもクロガネさんの味方ですから」

「私が悪者みたいな言い方しないでよ!」

 凛然と味方宣言する(自称)女子高生に、子供っぽく噛みつく女医。どちらが年上で年下なのか判断に困る構図だ。会話の中身はどちらも子供だが。

「それで、夕飯は?」

「いただきます!」

「千円引き」

「……了解、もうそれでいいわ」

 真奈は「降参」と言わんばかりに両手を軽く上げた。



 クロガネは手際よく野菜の皮を包丁で剥きつつ、時折、隣で同様の作業をしている美優に目をやる。少しぎこちないが、教えた通り刃の向きには注意している。初めてにしては筋が良い。ピーラーがあれば皮むきも楽なのだが、つい先日、刃がこぼれてしまい、処分したことを忘れていた。今日の買い物の時に買い直せば良かったと後悔する。

 二人がキッチンで調理をしている間、真奈は一人リビングでテレビゲームの続きをしている。一応は客人であるため手伝わせるわけにはいかない上に、真奈は料理に関してはスキルゼロどころかマイナスなのでむしろ手伝ってもらいたくない。美優の作る料理にまで余計な影響が及びかねん。

「……さて、どうしたものかな」

「何がです?」

 思わず口に出してしまった呟きを聞き拾った美優が訊ねる。一度リビングに視線を移し、真奈がゲームに集中しているのを確認してから美優に話し掛ける。

「今更だけど、海堂と同じ食卓には着けないことに気付いてな。俺はともかく、君は人前で飲み食いできないだろ」

 もう二人で外食してきたから、と言い訳しても真奈に怪しまれてしまうだろう。彼女は勘が鋭い上に、時々ぐいぐい迫る。

「やはり、ご馳走すると安請け合いする前に追い出した方が良かったのでは? このカレーも、本来なら明日作る予定だったのでしょう?」

 素っ気なく言って、美優は野菜の皮むきを続ける。

「海堂のことが気に入らないのか?」

「いいえ。クロガネさんの恩人ですし、性格も明るく嫌みのない善人だと総合的に判断しています。ただ……」

「ただ?」

「……勝手に上がり込んでご飯をたかるのは、流石に図々しいのでは、と」

 なるほど。『親しき仲にも礼儀あり』と美優は真奈に対して言いたいらしい。だがそれは逆に『親しい仲が羨ましい』ともとれる。もっと真奈のことを知り、親しくなりたいのだろうとクロガネは結論付けた。

「そこでいがみ合うような関係だったら、お互いに自宅の合鍵を交換したりしない」

 美優の手が止まる。

「彼女の家の合鍵を持っているんですか?」

「ああ」

「…………」

「どうした?」

「いいえ、何でもありません」

 いつものポーカーフェイスだが、どことなく暗い雰囲気で皮むきを再開する美優。その様子に少し不安を覚える。

「大丈夫か?」

「大丈夫です。とりあえず、私のことは構わずにお二人で食事をしてください」

「それだと君が」

「大丈夫」

 クロガネの台詞を遮り、斜め四十五度のポーカーフェイスで、皮むき中のジャガイモを握ったままサムズアップを見せる美優。そこはかとなくシュールな絵面だ。

「私に良い考えがある」

 美優は何かを期待するかのような眼差しを向けてきた……ような気がした。

 とりあえず、何か良い考えがあるらしいが確認のため訊き返す。

「……そんな台詞で大丈夫か?」

「大丈夫だ、問題ない」

「…………」

「…………」

 やがて、クロガネが口を開く。

「さっきから失敗フラグが乱立してるんだが」

 しかもネタが古い。美優といい真奈といい、彼女たちは一体どこからそのネタ知識を仕入れているのだろう、とクロガネは(自分のことは棚に上げて)疑問に思った。

「成功しますよ」

「何を根拠に?」

「最近のライトノベルを六十三冊ほどダウンロードして読破しました。比較検証したところ、失敗フラグ乱立の重みでフラグそのものをへし折れば、それは成功フラグになる傾向があります」

 参考文献がラノベの時点で一気に不安になる。

「へし折れたらそれはフラグじゃなくて、ただのゴミだろ」

「いいえ、デウス・エクス・マキナです」

 機械仕掛けの神とは無駄にカッコ良くなった。

「それ、ご都合主義の代名詞だからな」

「そもそも成功フラグ自体が、ご都合主義の一種ですよ」

 身も蓋もない。

「ここまで一連の会話が失敗フラグですので、たぶん逆に大丈夫ですよ。私にお任せあれ」

「……ああ、うん、もう好きにやれ」

 ここまでの会話の内容に果たして意味があるのか不明だが、本人がやる気なら止めるのも野暮というものだろう。万一の時はフォローすれば良いだけの話だ。

 難しく考えるのをやめ、クロガネはカレー作りに勤しむのであった。

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