第6話
――わたしわたしなにもしてません。ただ……
頭上から響く声に目を覚ました秀太は、自分がどうして毛足の長いカーペットの上で眠っているのかわからなかった。目の前には、白とピンクというファンシーな配色のスリッパがあった。
見上げると、サキがいた。
傍のソファーに深く腰かけている。彼女が持っている琥珀色のグラスの中はおそらくはウィスキーであろう。それを片手にiPadを眺めていた。
「意外と早かったな。1話しか観れなかった」
秀太が目を覚ましたのにきがつくとサキはボタンを押した。舌足らずの女の声がいきなり途絶えた。それは秀太にも聞き覚えのある気がした。
「失神ってほんまにあんねんなってビックリしたわ。引きずるの大変やってんけど」
気絶していた、と聞かされ、ジンジンと痛む頭と固まった首筋に酸素を送ろうと息を吸った。そして微かに匂う腐臭が鼻を刺激した。
そしてすべて思い出した。のたうつ老婆の痛ましい姿を。
秀太は内臓を吐き出すかのごとく咳き込んだ。
「うるさい」
「ごめんなさい」
目を閉じると、またあの扉の奥のことを思い出しそうになる。
「僕にもお酒をください」
「冷蔵庫にあるやつなら飲んでいいで」
彼は立ち上がってキッチンに向かった。テーブルの上の高級そうなボトルを無視して。
無視できないことに、秀太の財布とiPhoneもテーブルの上にあった。
財布の中には学生証と免許証が入っており、サキは当然それを見るために財布をとったのだろうと推測した。
冷蔵庫の中は食材といえそうなものはなかった。とりあえず手前にあった缶のスパークリングワインを開けた。
体質的にワインとの相性は悪く、酔うのが早くて敬遠していたのだが、このときばかりは意識が明瞭であることの方が辛かった。
「バイトの内容やけど、10万払うから明日から明後日までばあちゃんの面倒を見てあげてほしいねんな。これで、猫殺しも秘密にするしお金も入ってお得やろ」
「殺してませんよ。猫には、その、逃げられました」
「知らんよ、そんなこと。ナイフ握った秀太くんの写真ならあるけど
まあ、いいやん。それよりばあちゃんの面倒をちゃんと見てほしいわけ。あんな状態で徘徊されたら困るやんか」
「さっきまで外にいたじゃないですか」
「工夫してるねんって」それに、と彼女は続けたがその後は何か言えないことがあるようだ。それもそうだろう。あの老婆に秘密が何もないという方がどうかしている。
「とにかく、明日から出張やねんな。その間面倒を見てあげてってだけ」
「ご親戚とかに頼んでくださいよ」
「とっくに死んでる」
彼女の視線を追うと、部屋の隅に小さな仏壇があった。
サキに、リビングを好きに使っていいと申し渡されたのでテレビをつけた。安っぽいドラマに辟易として、すぐに消した。
もう一本酒を飲もうと立ち上がる。やはり、ワインは身体に合わないらしく、酔いの心地が悪い。腸が拒否反応を示すような酩酊だ。
酔い潰れることができるなら、それは都合が良かった。さらにワインはないかと冷蔵庫を漁るが、他はチューハイやビールといった度数の低いものばかりであった。葡萄のチューハイがあったので、それに決めた。取り出してみると、キンキンに冷えており、雪の降る日には全く向いていない状態であった。
飲みながらソファーに戻るが、足がふらついてしまう。軸のぶれた歩き方で、自分まであの老婆のようになったのかとあきれた。
そして、ふと思い至った。
どうしてあの老婆を放置してサキは家を出たのか。
わざわざ人の弱味につけこんでまで監視させたい、あの奇妙な老婆である。それを見張りをつけないで出てきたのにはやはり理由があるのだろう。
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