第45話 終焉への踊り場・二
「あんたが
「……!」
「真彩に受け入れてもらえたからいいじゃんとか思ってないでしょうね? 思ってたら今すぐ言って。私もあんたを殴るから」
これは冗談じゃなく、本気だ。優柔不断で真彩を泣かせたことについて、私は本気で怒ってるのだもの。
ブチギレた私に桃矢が逆らうわけもなく、ぶすくれた顔で視線を逸らした。
「……思ってねえよ、んなこと。あいつには悪いことしたって思ってる」
「……それ、本気だよね」
「当たり前だろ」
即答し、桃矢は強い目で私を見た。疑うのかと、苛立ちや怒りすら空気と声ににじむ。
…………うん、これは本当だ。
桃矢が真彩に申し訳なく思ってるのがわかった途端、桃矢に向けてた私の怒りの感情はゆっくりと消えていった。完全に許すのはまだ無理だけど、桃矢の胸倉を掴んでいた私の手から力が抜けて、自然と落ちる。
「……ならいい。あとは倉本君に謝りなよ。殴ったんだし」
「ああ、それは別にいいよ。僕も殴ったこと、謝るつもりないし」
はい?
私が思わず振り向くと、よろけながら立ち上がった倉本君はにっこりと笑った。
「言っただろう? 僕、前から彼には腹が立ってたんだ」
いやそんな、いい笑顔で言われても。ピアニストが何を言ってるんですか。ピアノ科の先生に知られたらお説教ものだよ、それ。
でもまあ、桃矢も倉本君もこれ以上殴りあいする気はなさそう。それだけでも安心だよ。私は安心して、長い息をついた。
そして何気なく振り仰いで……動けなくなった。
これっぽちも悪びれない倉本君に呆れ顔だった桃矢は、私と目が合った途端に表情を変えた。ゆがんだ顔は、度が過ぎる悪戯を知って目を吊り上げた親の前に引き出された子供みたい。これからどうなるのかわからなくて不安がってるような、薄々気づいてるからこそ怯えてるような。
桃矢、私のこと、怒ってない…………? むしろ、怖がってる…………?
どうして……?
桃矢の表情の理由がわからず、私は知ろうとさらに意識を桃矢の顔へと向けた。見慣れた、久しぶりに間近から見る大型犬もどきの瞳の奥を探る。
けれど、くすりと笑う吐息が私の後ろで聞こえて集中はそこで途切れた。思わず振り向くと、倉本君は笑みを浮かべてる。
どうしてか瞳に浮かんでいる、どこか悲しそうな、仕方ないなあって諦めたような色に、私はひどく胸が痛んだ。
「……あとは、二人でちゃんと話しあいなよ。二人とも、言葉が足りなさすぎて馬鹿馬鹿しい勘違いをしてるみたいだから。一番の原因は、
「……倉本、もう一発殴らせろ」
「桃矢駄目だよ! 倉本君も、煽っちゃ駄目だって!」
なんでここで煽るのかなもう! 倉本君だから仕方ないけど!
桃矢の拳を握る腕に飛びつき、私は倉本君を注意する。そりゃ私も桃矢は馬鹿だって思うけど、でもここでそれ言うのはやめよう。お願いだから。
片方の拳を握りしめ噛みつくような顔で睨みつける桃矢をまるで気にしたふうもなく、倉本君は私のほうへ数歩近づいてきた。あれ? まだ何かあるの?
私が思わず身構えるのも知らないふりで、倉本君は私の頭を撫でた。
「頑張りなよ、
「……!」
倉本君……!
そして倉本君は、目を見開く私に背を向ける。自分の役割を終えたお芝居の登場人物みたいに、長い廊下へと歩いていく。
私は、雷に打たれたみたいな気持ちになった。
――――――――倉本君がいなくなっちゃう。
は? なんで? 倉友君は留学しない。明日も会えるのに。なんで?
そう思うのに、焦る気持ちはますます強くなる。このまま倉本君も私の前からいなくなっちゃう気がする。
いなくなる。倉本君が廊下へ行っちゃう。
――――――――駄目!
心の中で誰かが叫んだ。その声に突き動かされるまま、私は鞄を床に落として倉本君の手をとり、引き止めた。
踊り場から見えなくなる直前で私に手を掴まれた倉本君は、とても驚いた顔をしてた。驚くのを通り越して、混乱してるように見える。何故、どうして。そんな言葉が書いてあるような顔だ。
……ああ、やっと私、倉本君を驚かせることができた。それが嬉しくて、私の頬は緩んだ。
「倉本君、ありがとう。……たくさん良くしてくれて」
そして、どうしてと小さく呟く倉本君に、ありったけの気持ちを込めて、心から笑った。
桃矢が好き。その気持ちは今も変わらない。でも、このあいだのデートで自覚した。放課後の玄関から二人で一緒の時間を過ごすうち、いつの間にか倉本君は単なる男友達の枠を超えて、私にとって大きな存在になってたんだってこと。きっと桃矢の次に好きだ。もし私に前へ踏み出す勇気と弱さがあったなら、彼が許してくれたなら。私は彼に甘えて、そばにいようとしたかもしれない。
――――――――――――けどこれは、恋じゃない。
この感情をどう呼べばいいのかわからない。そんなことはどうでもいい。私は倉本君が大切だってことはわかってるのだから。
届いてほしい。どう言ったらいいのかわからない、でもありがとうとしか言えない気持ち。『好き』の代わりの言葉を。夏休み前の廊下のように、どうか――――――――
…………あ。
倉本君が、笑った。
でもそれはさっきまでのとも、いつもの何かたくらんでそうなのとも違う。嬉しいのとか気恥ずかしいのとか混ざった……照れた、年相応どころかもっと子供みたいな。ともかく見たことのない、素敵な顔だった。
「…………どういたしまして、水野さん」
言って、倉本君は私の両手を握る。途端、私の背後で不穏な空気が膨れ上がった。私の肩がぐい、と引っ張られる。
って、なんで私、桃矢に引き寄せられてるの!
「てめえ、何どさくさに紛れて
「ケチだなあ斎内は。心が狭い男は嫌われるよ?」
「倉本君!」
お願いだからこれ以上桃矢を煽らないで! というか、この状況を楽しんでいるような気がするんだけど!
「水野さん、また斎内に泣かされるようなことがあれば、遠慮なく僕のところに来なよ。慰めるから。ああなんなら、また僕が彼を殴るし」
「いえ結構です」
そんなことできるわけがない。将来有望なピアニストの卵の潰しあいを放置したら、私がクラシック業界から睨まれる……! これだから男子は……!
部活仲間のことで嘆く
倉本君の足音はすぐ楽器の音にかき消され、聞こえなくなる。それがどうにも切なくて、私はつい、倉本君の手のぬくもりとかさっきの笑顔とかに想いを馳せた。彼がくれた言葉や、腕の中の暖かさも。全部忘れたくない。
――――――――ちょっ、何。
私が誰よりも励ましてくれた人の名残を惜しんでいるっていうのに、桃矢は私の腕を掴んで無理やり自分のほうへ振り向かせた。こらこの大型犬もどき、人が感傷に浸ってるっていうのに――――…………。
でも、私は振り向きざまに桃矢を睨みつけようとして…………失敗した。
だって、桃矢の顔がぶすくれてたから。
小学生の頃、同級生の男の子と遊びに行こうとした私の髪を掴んだ幼い桃矢の顔が、一瞬被る。
倉本君が消えていく――――――――私の意識が桃矢に向かっていく。
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