第21話 見ていたもの・一

 嘆いてる女の人らしくあるようにと声を作り、緩急や強弱に気をつけながらドイツ語で歌う。あくまでも主体は私、でもピアノの音にも気を配って、一つの作品を紡ぎあげる。


「――――」


 歌い終えて、私は倉本くらもと君のほうを向いた。


「ねえ、今の、なんかいい感じだったよね?」

「だね。そういう感じでいいんじゃないかな」

「だよね! よし完成!」


 やっとできた! 私と明希あきは顔を見合わせ、万歳した。

 文化祭が終わって、早数日。私は今日も今日とて、学校の練習室で歌の練習をしてた。

 だって、文化祭があんな出来だったもの。先生にも不思議がられるくらい、私にとっては珍しいミスだった。コンクールの地方大会の本選はもうすぐだし。放っておけるわけがない。


 で、今度ジャズバーで弾く曲を練習しに来てた倉本君を聞き手に、伴奏を頼んだ明希と一緒に練習に励んでいたってわけ。倉本君はピアノ専攻だけど、妹さんとか……他にも声楽をしてる人が周りにいたから、倉本君自身も少しかじってるんだって。なんだろう、このオールマイティの王子様。こんなのがこの世にいるのが不思議だよ。

 倉本君は、スマホの画面を見て一つ頷いた。スマホを私と明希に見せる。


「きりがいいし時間だから、このあたりで終わりにしよう」

「へ? あーホントだ。もうちょっとしたかったのに」

「でも美伽みかちゃん、歌いすぎは駄目だよ。喉によくないんだから。ほら、喉飴とお茶、飲まなきゃ」

「はーい」


 むう、明希、お母さんみたい。でも確かに喉はからからだ。だから私は明希の言うとおり、大人しくお茶を飲んでから喉飴を口に放り込む。お気に入りの金柑飴だ。

 ……うん、やっぱりこの金柑味、甘酸っぱくて美味しい。中のとろとろしたのがいいんだよねえ。


「そういや明希、今日は彼氏と一緒に帰るって言ってなかった? 鍵返しとくから、先に帰りなよ」

「! 頼める? 美伽ちゃんありがとう!」


 喉飴を舐めながら私が提案すると、明希はぱっと顔を輝かせた。私の両手をぎゅっと握る。

 音符を飛ばしてそうな上機嫌で、明希は練習室を出ていく。仲が良さそうで何よりだよ。たまに惚気られて、砂吐きそうになるけどね。

 明希を見送ると、倉本君はうんうんと何度も頷いた。


「青春だねえ」

「倉本君、時田ときた先生みたいだよそれ」

「へえ、あの先生ってこんな感じなの?」

「うん。生徒の恋愛話に興味津々なんだよあの人。でもって少女漫画と女性漫画好き」


 そういえば、今日の授業が終わってからも漫画の話で友里ゆりと盛り上がってたなあ。二人がハマってる漫画が最近テレビドラマになったらしいんだだけど、原作の細やかな心理描写を活かせてないとか色々と。私はその漫画を読んだことないから、聞いてるだけだった。


 そんなことを話しながら私と倉本君は、楽器の音に包まれた練習棟から音楽科校舎へ続く渡り廊下へ出た。そこからさらに管理棟へ。

 そして、いつものように下駄箱の前に立つ。数字を書いたプレートが中央に書かれた、何の変哲もない下駄箱だ。


 ……よし。

 改めて心を落ち着け、私は挑むような気持ちで下駄箱の扉を開けた。


 ――――――――何もない。

 うん、何もない。あるのは、私の黒いローファーだけだ。

 下駄箱の中が朝と変わりないのを確認して、私は小さく安堵の息をついた。


「……水野みずのさん?」

「っ」


 唐突にかけられた声で、身体が揺れた。


「大丈夫かい?」

「え、あ……」


 うわ、まずい。横から声をかけてきた倉本君の姿を見て、私は焦った。勘のいい倉本君のこと、ちょっと怪しいそぶりを見せるだけでも気づかれかねない。

 だから、なんでもないって私は笑って答えたんだけど…………倉本君は見逃してくれなかった。表情が悲しそうな、可哀想なものを見るようなものになる。


斎内さいうちたちから聞いてはいるけど……まだ下駄箱が怖い?」

「…………うん」


 率直に尋ねられ、私は視線をさまよわせたけどごまかしもできず、結局は頷いた。

 下駄箱に中傷の紙をつっこんできて以来、誰かさんは私に対する悪意を隠さなくなった。楽譜をびりびりに破いたり教科書やノートを滅茶苦茶にしたりはもちろん、中傷の紙を下駄箱に入れてたり、廊下に置かれてるロッカーの扉に貼ったりしてることもあった。今どきらしく、SNSで私のことをろくでもない子だって中傷を流したりもしてきたし。地味で陰湿、そして古典的で幼稚な嫌がらせで、犯人は毎日私に悪意を示していた。


 その結果、扉を開けることに対する私の薄れかけてた恐怖心はぶり返し、このとおり前の状態に逆戻りだ。梅雨のことを何度も夢に見てまともに眠れないことがあるし、現実でも下駄箱の扉を開けるだけでも、緊張する。今朝登校したときも、靴を履き替えて下駄箱から離れるまで、ずっと心臓がどきどきしてた。


「今日は、斎内は迎えに来ないのかい?」

「うん。今日は休みの日だし、さすがに犯人も私が絶対来るとは予想できないだろうから。休みの日まで桃矢とうやについてもらうのも悪いし」

「そんなことはないよ。君があのコンクールの地方大会の本選に出場することは、簡単に知ることができる情報なんだから。それなら君は休みの日も学校で練習してるだろうって犯人が考えても、おかしくはないよ」


 私が曖昧に笑うと、倉本君はそう両腕を組んで真顔で言った。


「斎内だって、学校で練習すればいいんだし。ただでさえ毎日嫌な思いをさせられてるのに、さらに無理をして精神的にまいってしまったらコンクールに出ても結果はさんざんに決まってるよ。せめて下駄箱の安全を確かめるまでは、斎内じゃなくてもいいから誰かが一緒にいたほうがいいんじゃないかな」

「……」


 う、正論だから何も言い返せない……。

 大きな息を吐き出しながら、私はがっくりと肩を落とした。


「倉本君、なんか友里たちみたい」

「当然だろう? …………梅雨のときみたいに、顔見知りが君を狙ってる可能性だってないわけじゃないんだから」

「…………」


 一度目を伏せて口の端だけで笑った途端。倉本君の様子が変わった。

 それまで倉本君の一部だった何かが剥ぎとられたみたいに。あるいは、何かが彼を覆いつくしたみたいに。彼を包む重く沈んだ空気が、玄関ホールの隅々へと広がっていく。


 ……そうだね。そういうことがあるんだもんね。

 倉本君は秋晴れの空が見える、太陽の光が差し込む吹き抜けの窓を見上げた。


「……人間っておかしなものだよね。いつもと変わりないような顔してさ、本心は全然別だなんて。普段から自分はそうしていて、他人もそうじゃないかもって思ったりするくせに、肝心なときはすっぽり頭の中から抜け落ちてる。顔と言葉のままなんだって、無条件に信じてしまう」

「……」

涼輔りょうすけが君のことを諦めきれてないことは、気づいてたんだよ。でもそれは常識の範囲内で、いずれは消えるものだと思ってたんだ。思い込みが激しい男だけど、馬鹿なことはしないだろうって」


 それはそうだよ。普通はしないもの。たまにそういう事件がニュースになったりするけど、友達がそんなことをするとか、自分がそんな目に遭うなんて思わない。……思うはずがないよ。


「人間、何をしでかすかわからないよね、本当に…………」


 淡く、天井に吸い込まれるどころか空に溶けちゃいそうなくらい、淡く倉本君は笑った。

 でもそれは何かがおかしいからじゃない。そうするしかできないんだってことは、人生経験なんてろくにない私でもわかる。


 ……当然だよね。倉本君にとって大木おおき君は、幼馴染みだもの。小学校は別だったけど同じ大手の音楽教室に通ってて、演奏会でたまたま顔見知りになってからよくつるむようになったって聞いたことがある。中学は同じになったから、さらに仲良くなって。家に近くて音楽科があるからって、二人して高校も同じにしたとか。私たちみたいだって、一年のときに桃矢と笑ったのを覚えてる。


 あのコンサートのあとも倉本君とは普通に顔を合わせたし、今までと変わらない話をした。でも、大木君のことは一度も話したことがない。他の友達も、皆そう。大木君や彼が起こした事件について、私に話を振ってくる人なんていなかった。

 当たり前と言えば、当たり前のことだ。でも、こうして大木君のことを話してみると、なんでこんなに話そうとしてなかったのか不思議。彼のことを忘れたわけでもないのに。


 なんで私たち、大木君のことを最初からこの学校にいなかったみたいに、友達じゃなかったみたいにしてたんだろう。彼は確かにこの学校にいて、私たちと一緒に話してたのに。一緒に歌ったり、騒いだりもしたのに。


 ――――どうして私たちは、大木君がおかしくなってたことに気づかなかったんだろう。

 ――――どうして大木君は、おかしくなっていったんだろう。

 ――――私たちは、大木君の何を見てたんだろう。

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