第三章 踏み出せない一歩

第19話 悪意の序章・一

「あ、それ多分、吉野よしのさんのことだよきっと」

「うん……私もそう思う」


 文化祭が終わり、さあコンクールだ! と励む放課後の練習も終わった廊下。久しぶりに真彩を含めた女友達と帰ってる最中、真彩まや明希あきはそう私の疑問に答えてくれた。

 まあ疑問と言っても、文化祭でのあの腹が立つ高飛車女子のことを愚痴っただけなんだけど。でもピアノ専攻の明希は、すぐぴんときたみたいだ。

 私の代わりに、友里が首を傾けた。


「二人とも、知ってるの?」

「今年に入ってからの転校生なんだけど、友達ってわけじゃないよ。単に同じクラスなだけ。証券会社の社長の娘だって威張ってて、しかも男子にはすぐ媚びるから、女子にすっごく評判悪いよ。斎内さいうち君と倉本くらもと君のこと狙ってるみたいだし」

「あー、そりゃ美伽みかちゃんを妬むよね。斎内君の幼馴染みだし、倉本君とも最近仲良いし。真彩ちゃんも大丈夫?」


 いやいや友里ゆり。倉本君は私のこと、からかいがいのある玩具にしか思ってないから。友里は倉本君とあんまり接点ないみたいだし、多分あの人の本性知らないだろうけど。


 それにしても、桃矢とうやを狙ってるねえ……そういや一学期に、桃矢と一緒に帰ろうとしてきた人がいたっけ。もしかして、その人かな。顔どんなだったか覚えてないけど。

 友里が投げたのは真彩への質問だったけど、それがさあ、と明希がにやりって感じで笑って答えた。明希、怖いよそれ。


「真彩ってこれでも結構気が強くてさ。いちゃもんつけられても、言い返すんだよ。それで吉野さんは男子を味方にしようとしてるみたいなんだけど、真彩はこのとおり可愛いし、男子も女子の空気知ってるから腫れ物扱いでさ。真彩のことが嫌いな子くらいしか、ピアノ専攻じゃあの人とつるまないんだよ」

「うわあ…………ピアノ専攻って実は結構すさんでるんだね……」

「だね。私たち、あのクラスで良かったね友里」


 何そのクラス崩壊。私と友里は頬を引きつらせ、顔を見合わせて頷きあった。

 いやだってそんなクラス、誰だって嫌でしょ。ピアノ科にはほとんど行ったことないから初めて聞いたけど、絶対空気悪い。いるだけで喉がおかしくなりそう。選考会や試験のときはライバルだけど、基本的に皆仲良しなあのクラスにいてよかった……。


 見た目は気が強そうなショートカットのアスリート系美人でもヴァイオリン専攻の和子かずこは、どこか呆れたような顔で両腕を組んだ。


「でも、大丈夫? そうやっていちゃもんつけにきたってことは、これから美伽にもつっかかってくるかも。美伽はこれから地方大会の本選なんだし、気をつけたほうがいいんじゃない?」

「うん、私もそれが心配だよ。私は今のところ、絡まれるだけで済んでるけど、美伽ちゃんもそうとは限らないし。明希ちゃんもそう思うでしょう?」

「あー、やりそうだねあの人なら」

「だよねえ。そういう人って大体、自分が絶対正しいって思いこんじゃってる痛い人だもんね。何やらかしても不思議じゃないよね」


 うんうんと友里は頷く。あはは……確かにね。あの人、中学で私につっかかってきた人と同類っぽいもんねえ。これはちょっと気をつけたほうがいいのかも。

 けどホント、理解できないよ。羨ましいそういうのとかを自分磨きじゃなくて、なんで他の人を蹴落とすことに向けるのかな。そんなひがんだ鬼婆みたいな子に、まともな男子が惚れるわけないし。自分たちが私を呼び出してからの一部始終を見た男子がドン引く反応を、鬼婆さんたちに見せてやりたいよ。

 そんなことを話しながら渡り廊下まで来た、そのとき。


「あ」


 降り落ちてきたピアノの旋律に、誰かが声をあげた。知らず皆して足を止める。

 重く、不気味な低音が行進してる。これから訪れるものの先触れにと、己の存在で何かの始まりを告げてるかのよう。高いところから落ちてくる音の連なりは、高らかに鳴るトランペットか、あるいはきらびやかな飾り物かもしれない。

 そしてピアノは低い声で、禍々しい歌を歌いだした。


 ――――怒りの日、それは世界が灰燼に帰す日

 ――――ダビデとシビラが予言したように

 ――――その恐怖はどれほどのものなのか

 ――――審判者が現れ、すべてのものが厳しく裁かれるだろう


 新約聖書には、様々な災害が世界を襲い人々を苦しめたあと、世界の始まりからその日に至るまでに死んだ人も含めた全人類が、新しい世界に行けるかどうか全知全能の神様に裁かれるというくだりがある。それが怒りの日。最後の審判の果てにある、自分の生きざまが問われる日だ。

 この主旋律はグレゴリオ聖歌が元ネタだから、私もそっちの歌詞の冒頭部分くらいは知ってるし、曲の背景にある思想も教会の神父さんにがっつり教えてもらってある。餅のことは餅屋だっけ、こういうの。聖歌の思想のことは、専門家に聞くのが一番だよね。

 和子は眉をひそめた。


「リストの『死の舞踏』……帰り時になんつー曲を弾くのかね。誰だ弾いてるのは」

「確かに、こういう時間に聞くと似合いすぎだよねえ」

「でもこれ、すごく上手くない? ここまで上手いってことは大石おおいし君か十川とかわ先輩か……斎内君かな」


 窓を見上げ、明希が首を傾げる。大石君も十川先輩も、大小様々なコンクールでの入賞が校内新聞に載せられる、大園おおぞの学園音楽科きっての有望株だ。桃矢は言うまでもない。だから友里と和子も、そうかも、と頷きあった。

 まあ普通、これが桃矢だって断定はできないよね。私はやっちゃうけど。こういう感じで桃矢が弾いてたの、最近聞いたところだもん。


 でも、倉本君ならいざ知らず、さすがに女子相手にそんな耳を披露できない。やったらどうなるかは、中学のときに経験済みだからね。あんなからかいの渦にまた引きずり込まれるかもしれないのに、自分から試す勇気は私にはない。

 けど、真彩は違った。


「多分、桃矢君じゃないかな。そんな気がする」


 ――――え。


「斎内君?」

「うん、多分だけど」


 眉を下げて自信なさそうに真彩は言い、音楽室を見上げる。

 そうかなあと首を捻った和子は、ここで何故か、私に首を向けた。


「美伽はどう思う?」

「へ? なんで」

「あんたならわかるんじゃない? 幼馴染みでしょ?」

「ああ、うん……これ、桃矢だと思うよ」


 ぎく。そんな漫画じみた音が聞こえそうな動揺を、私はどうにか顔に出さないよう堪えた。

 ええわかりますとも。わかるけど、その理由については聞かないでください。あと友里、なんかガッツポーズしてるけど、これクイズじゃないから。っていうか、なんで私の推測が正解になるのよ。

 それより……。


 私は、まだ音楽室を見上げてる真彩をちらりと見た。

 真彩は二階を見上げて目を閉じたままだ。その横顔は見惚れそうなくらい可愛いというか、綺麗だ。聞く人の不安を煽る、まだ遠い冬の寒さを感じさせるBGMなだけに一層際立って、どこの雑誌の表紙、いや映画のワンシーンかって感じ。


 ――――――――あれ?


 なんで? なんで胸がざわざわするの? いくら桃矢が暗い曲を弾いてるからって、真彩の横顔は綺麗なだけのはずでしょ。ぽうっとなることはあっても、なんで――――――――


 私たちがおしゃべりしてるあいだにも、グレゴリオ聖歌を引用した主題は繰り返される。でもまったくそのままじゃなく、アレンジをしながらだ。時に激しく、時に優しく、時に禍々しく。途中を省略しながら、裁きの日を恐れ神に慈悲を乞う子羊を演じて歌う。

 そして、演奏は終わる。曲の盛り上がりに引きずられていつしか会話をやめてた私たちのあいだに、沈黙が落ちた。

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