トイレの上から誰かが覗いている
木沢 真流
いつから見てたんだよ
「こちらの五人が今年の新人研修生です。本日で研修は最終日になります。それではそれぞれこの一週間の感想と今後それをどう活かすか……」
いつもの戯言が始まったよ。それにしても五人とも同じ顔に見える。対して興味もない。
「……この一週間、大変ご迷惑をおかけしました。特に——」
おいおい、そこの棒読み、台本かよ。何がご迷惑だ。本当に迷惑なんだよ、君たちがいなけりゃもっと早く帰れるのに。
「それでは海原部長、一言お願いします」
呼ばれて私は、重い腰を上げた。
「ここは今までの現場と違う。高電圧も利用しているフロアもあるから、いつも危険と隣り合わせだ。だからみんなこうやってPHSを持ち歩いている。そして緊急時はこのボタンを押すことになっている。これを押せば、PHSに喋ったことが全館に放送される。危険を感じたら迷わず緊急放送ボタンを押して、今いる場所を言うように、わかったか?」
はい! そう言って研修生は背筋を正した。こうもまた毎年同じことを言わせるよな、まあこいつらにとっては新鮮なセリフなのかもしれないけどよ。
「それじゃ田中君、研修生のお守り、頼んだよ。こっちは今から神戸支社の支店長と電話で打ち合わせしてくるから。ちょっと時間がかかる」
はい!
と、今日も顔に真面目と書いてある田中の声を聞いてから、私は四階のトイレに向かった。
四階はほとんどのフロアが物置になっていて、人があまり来ない。誰にも邪魔をされずにトイレのフリをして時間を潰せる、私の秘密の隠れ場所だ。
さて、下っ端が頑張って仕事をしてくれているうちに、何して楽しもうか。
私は色々とスマホをいじって楽しんでいた。
どれだけ時間が経っただろう?
便器に座り、前かがみの姿勢がきつくなった私は、ふうー、大きな背伸びをした。そして何気なく天井を見上げた瞬間。
「うわっ!」
私は思わずチャックにかけていた手を離した。スラックスがずっと、ずれ落ち、みるみるうちに露な姿を晒した。
トイレのドアと天井との境目、その隙間に一つの顔がじっとこちらを見つめていた。見覚えのない若い顔だ。きっと先ほどの研修生の一人だろう。
「君、何してる、そんなところで」
しばらくじーっとこちらをみてから、地面にドン、とそれは着地した。
ドアの奥から声が聞こえる。
「あの……トイレどこか分からなくなっちゃって、ここに来たんです。そんでずっと開くの待ってたんですけどなかなか開かなくて。心配になって見ちゃいました」
なんだこのたるい話し方は、これだから最近の若者は。
私は服装を正すと、ドアを開けた。
「君は本当に失礼なやつだ。ノックするなり声をかけるなりあるだろう」
男はひょろっとして目は虚ろ。パンチパーマで顎が細い、逆三角形の顔をしていた。生気がない、この人間に本当に血が流れているのか疑いたくなるほどだった。
「なんとか言ったらどうだ、あ?」
男はじっと見つめたまま。
「あの……何してたんすか?」
私の体が毛羽立っていくのを感じた。どこから見てたんだこいつは。
「そんなこと君には関係ないだろう、それよりいつから見てたんだ?」
男が止まった。それからゆっくり、何かを思い出すように目線を斜め上へ上げた。
いつだ、いつからなんだ。場合によっては私としても態度を変えなければならなくなる。最後の一瞬だけであれば、私も少し恥ずかしいくらいでなんとかなるだろう、トイレには今さっき入って来たといえば世間的にも問題ない。
「そーですねえ、結構長く見てました」
「長くって、どれくらいだ?」
「えーと、yahooニュース見てました?」
はっきり見てるなこいつ。ということはスマホの画面はほとんど見られているな、ただそれだけならまだ大丈夫。ここで厳しく言っておけばなんとかなるだろう。
「それだけだな、そもそもお前のやってることは……」
「その前も言った方がいいですか?」
その前? その前から見ていたってことか。まさか、こいつあそこまで……。
「なんだ、その前って。言ってみろ」
「ほんとに言っていいんですか?」
私の全神経が、目の前のもじゃもじゃ頭の口元に集められた。
「なんか、パズドラみたいなゲームに見えましたけど」
こいつそこから見てるのか、ただまだそこまでならいい。あれを見られていなければ。
「そこまでだな? トイレに入っていれば、少しくらいリフレッシュすることもあるだろう第一キミな……」
「あの……言ってもいいんすか、その前も」
その時だった。
まるで会話を遮るように私のPHSが鳴った、田中からだった。
『海原部長、今よろしいですか? 一人研修生がいないんですけど、知りませんか?』
「あぁ、そいつならここにいる。先に出来ることだけしておいてくれ。総括は必ず五人揃ってからだからな! もうじき連れて行けると思う」
『はい、わかりました、ご迷惑をおかけして申し訳有りません』
私はいらいらしながら、乱暴にPHSのスイッチを押した。
「お前探されてるぞ。そんなことよりなんだ、その前って」
逆三角形の顎。目の端は少し垂れていて、それこそ人形のようにこっちを見てくる。気持ち悪いな、こいつ。
「去年もここに研修生が来てたと思うんです。その一人、神田瞳ってのがいたと思います。覚えていますか?」
「さあな、研修生なんか毎年来るからな、一人一人覚えてなんかいないよ」
「でしょうね。その人がこの前自殺したんです。職場のパワハラにあったとかなんとかで。知り合いだったんでショックでしたー」
なんだこいつ、いきなりこんなこと話し始めて……。いや、まだ大丈夫だ、こいつがどこまで知ってるか、そこにかかっている。
「あのー、何か言いたいことはありませんかー」
「お前……人のプライベート覗き見しておいて偉そうに! 一体どこまで見たのか早く白状しろ!」
男は微動だにしなかった。じっと私を見てくる、ここで目をそらしたら負けだ、こいつにバレてしまう。
「それ以前は何も見ていませんよー」
ふう、と肩の力が抜けた。
危なかった、それさえなければ大丈夫だ
「まあ今回のところは許してやる、今度こんなことやったら、お前を辞めさせることなんて一瞬で……」
「瞳を強姦した動画を見て笑っていた姿なんて見ていませんよー」
世界が回り始めた。
なんだと? こいつ今なんて……。
私の頭に一気に血が上った。
気づけば男の胸ぐらを掴んでいた。それは掴むというレベルではなく、首を握り潰すほどの力を込めていた。
「お前……冗談にもほどがあるぞ!」
「どうして怒るんですか」
「お前のクソつまらない冗談が気に入らないからだよ! 人を舐めるのもいいかげんにしろ、殺すぞ!」
「瞳を殺ったみたいにですかー」
首元の力がさらに強くなる。このまま殺してしまえ、そうもう一人の自分が強く叫んでいる。
「私は殺してない、あいつが勝手に自分で死んだんだろうが」
男の表情は全く変わらず、徐々に赤く火照りだした。
「瞳、かなり悩んでたんです。上司だから公には出来ないって。せっかく入った会社辞めることになんかなったら親が悲しむって。だから撮られた動画をバラすぞって言われたら泣く泣く行くしかなくて……」
「お前……何者だ?」
「謝って……くれないんすか」
「は? 謝るわけねーだろ。確かに、えーと神田とか言ったかな? あの女とはヤったよ。でもな、誘いに乗ってくるってことは向こうにも少しはこれをきっかけにステータスを上げたいって思ってたんじゃねーのかよ。ほんとに嫌だったら警察にでも何にでも言えば良かったんだよ、違うか!? なあ、おい」
ピリリリリ。PHSが鳴った。
「ああ、田中か。すまん、今こいつ連れて行くから。総括だろ?」
『あの、部長。総括なら終わりました』
「終わった? 何言ってんだよ、お前。総括は必ず五人揃ってからやれってあんだけ言っただろ、勝手に終わらせんな!」
『あ、あの……』
「なんだ、早く言えよ」
『はい、研修生は五人揃ってます』
「何寝ぼけたことを、だってここに——」
そう言って振り返った私はまたもや、喉の奥から声が飛び出した
「うわっ」
そこには誰もいなかった。あの憎たらしいパンチパーマは跡形もなく消えていた。
「——あ、そうか。いや、いいんだ。今からそっちに行く」
私はPHSを見ずに切ると、思わず笑い声がこみ上げた。
「はっはっはっは、なんだよ、幻かよ。最近タカシにもらった薬使うと、変なものが見えるんだよな。まあ良かった、幻で。あの女の事を言われた時は、これ以上バレないために殺すしかないかと思ったわ」
私は服装を整えると、晴れやかな表情でホールに向かった。研修生五人が緊張した様子で立っている。
「みなさん! ご苦労、もう肩の力を抜いていいぞ。どうだったかな、研修は?」
「あの、部長……申し上げにくいのですが」
「なんだ?」
田中がおもむろに自分のPHSを取り出すと、とある一部分を指さした。何かを伝えたいようだが、いまいちそれが何なのかピンと来ない。
「部長の緊急放送スイッチ、早目にオフにした方がいいと思います」
? 私はすぐさま胸のPHSを取り出した。
赤いランプがついていた、緊急放送スイッチが入り続けているということを示している。
「いつ……からだ?」
「おそらく最初に私が部長に連絡した時からかと」
「それから全ての会話が全館に流れていたと?」
田中はゆっくり頷いた。
私の手からPHSがこぼれ落ちた。
がしゃん、という音がホールに響き渡った。
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