第一章 元勇者は一人では眠れない 3
一階にある食堂の扉を開くと、香ばしい匂いがした。
焼きたてのパンの匂いだ。
広い部屋の中央には、優に十人は座れそうな長テーブルが一つ。頭上には豪華なシャンデリアがある。
彼女はシオンに気づくと作業の手を止め、体ごとこちらを向き、
「おはようございます、お
と、
「うむ。おはよう。そうか、今日はナギが料理当番だったか」
「もうすぐ支度が終わります。しばしお待ちください」
硬い口調で告げると、ナギは作業に戻る。
墨を落としたような黒い髪と、切れ長な目元。細身で均整の取れた肢体。一振りの名刀のような美しさを持つ美女であり──そして比喩ではなく、彼女は腰に太刀を
ナギの愛刀は、作りも
『お屋形様』という変わった呼び方も、彼女の祖国で用いられる、主君に対する尊称であるそうだ。
シオンは自分の席に座り、アルシェラとフェイナも続いて座る。
主人と従者が一緒の席で食事を取るなど、普通の貴族や王族ならばまずあり得ないことなのだろう。
しかし元々貴族でもなんでもないシオンは、メイドを働かせて自分だけが食事を取るというのが、どうにも落ち着かなかった。そのため、食事はできる限り一緒に座って取るようにと彼女らに命じていた。
食卓には、ナギの手で朝食のメニューが並べられていく。
「今朝採れたばかりのトマトです。なにもつけずとも
屋敷の裏には菜園があり、ナギはそこで野菜を育てている。トマトやレタスなどの見慣れた野菜もあれば、こちらの大陸では珍しい東方由来の植物も多くある。
続いてナギは、薄茶色のスープが入ったお
「これは確か、ミソ汁と、トーフだな」
「はい。以前お作りしたときに好評でしたので」
「ナギが作る東方の食べ物はどれも美味しいからな。さっぱりとした味付けだが、不思議な奥深さがある」
「恐縮にございます。今日焼いたパンには豆乳を練りこんでありますので、
「それは楽しみだ。しかし……東方の民はすごいのだな。ミソにショーユ、トーニューにトーフと、豆一つを様々な料理に昇華している」
「では、お
そこで、ずっと落ち着いていたナギの目の色が変わる。
「きょ、今日こそ、納豆を食してみてはいかがでしょうか?」
期待と興奮に満ち満ちた態度に、シオンは表情を
「あ……う。ナットー、か……。あれ、は……」
「納豆も、
「いや、それは、前にも聞いたのだが……うん。まあ、また今度、気が向いたらな」
「……そう、ですか」
ナギはわかりやすく落ち込んでしまい、申し訳ない気分になる。
(でも、ナットーは……無理だなあ)
以前にも、ナギが「これが私の大好物です」と言いながら、ナットーなるものを食卓に出したことがあったのだが……もう、全てが無理だった。食欲の
「ナギには悪いけど……腐った豆以外のなにものでもなかったわね」
「私はあれを食うぐらいなら、その辺の土を食うね」
アルシェラとフェイナも、
「くっ、貴様ら……! 我が祖国の食文化を……納豆を愚弄するつもりならば、相手になるぞ!」
「……ナギ。もう一度確認するけど、僕達を
「お、お屋形様まで……! くっ、なぜだ! なぜこの国では納豆が受け入れられんのだ!? 腐ってるって……そんなのチーズだって同じではないか!」
深い落胆と激しい憤りを見せるナギだった。
(……難しいものだな。異文化交流というものは)
その後、ナギはどうにか持ち直して準備を続け、五人分の食事が食卓に並んだ。
「ん? そういえば、イブリスはどうしたんだ?」
不在のメイドを思い出してシオンが問うと、ナギが言いにくそうに口を開く。
「一応、部屋の前を通るときに声をかけてきたのですが、返事がなく……」
「また寝坊ですか。彼女の自堕落っぷりには困ったものね」
アルシェラがため息を
「起きてこない
「──ダメだ」
「ご飯は、できる限りみんなで一緒に食べる。それがこの家のルールだ」
強く言い切った主人の声に、メイド達は一瞬驚いた顔をした後、皆一様に柔らかな微笑を浮かべた。
「……あはは。そうだったね、ごめんね、シー様」
軽く謝るフェイナ。
「ナギ。悪いが、イブリスを起こしてきてくれるか?」
「御意」
シオンの命に従い、ナギは食堂から出ていく。
しばしの間、
「あっ。そうだ」
と声を上げて、フェイナが席を立つ。
食堂の隅に置いてあった新聞紙の束を、シオンの下に持ってくる。
「はいシー様。一週間分の新聞、さっき届いてたよ」
「おお。ありがとう、フェイナ」
この屋敷には、新聞屋が使役する
シオンは新聞を受け取ると、まず一週間前の記事を広げた。
「どう? なんか面白いこと起きてる? 私、字ぃ読めないんだから、一人で読んでないでいろいろ教えてよ」
「──王都の宮殿に、盗賊の一派が侵入したらしい」
肩越しに
「一週間前の深夜、数名の賊が宮殿に忍び込み、宝物庫からいくつかの宝を持ち出して逃亡。賊の一人が、ガーレル・ゲアということは判明しているそうだ」
「ガーレル・ゲア、聞いたことがありますね」
アルシェラが口を開く。
「ロガーナ王国南方、ウルト領の方では有名な盗賊だったかと思います。盗賊団『
「ふぅん、要するにクズってわけね」
「僕も名前ぐらいは知っている。しかし驚いたな。王都……特に宮殿や宝物庫の警備は厳重だ。盗賊風情が忍び込めるとは思えないのだが……ガーレルという男は、そこまでの力を持っているのか?」
シオンはさらに記事を読み進める。
「盗まれたのは……宝物庫に保管されていた宝石や武具、合わせて十五点。騎士団本部の精鋭が到着する頃には、ガーレル一派は逃亡を開始。目撃情報によれば、王都より西方、エルト地方に逃げたと思われる」
「エルト地方? こっちの方に逃げてきてるの?」
「そうらしいな。街の方に被害がないといいのだが……」
新聞をさらに読み進めようとした、そのとき。
食堂の扉が開かれ、二人の女が入ってきた。
「ほら。きびきび歩け、イブリス」
「だる、ねむ……。私なんかほっといて、先に食ってりゃいいだろ」
「食事はみんなで一緒に、というのがお
「あー……あったっけなあ、そんなルール」
ナギに手を引かれて、気だるげな表情の女──イブリスが足取り重く入ってきた。
灰色の髪と、蜂蜜色の肌。顔立ちは整っており、美女と表現して差し支えないのだが、まるで覇気のない表情や態度が、その美貌を少し薄めている。服装は一応メイド服だが、急いで着たのか、それとも真面目に着る気がないのか、全体的に雑な着こなしだった。
「遅いぞ、イブリス」
「すいません、坊ちゃま。私、どーも朝は弱くて」
頭を
イブリスは基本的にテンションが低い女である。面倒くさがりで、怠け者。メイドの仕事も隙を見てよくサボっている。
「まあいい。次から気をつけてくれ」
相変わらずの態度にため息を
それから、視線を食卓へと向けた。
「よし。全員
快活な笑みを浮かべるフェイナ。
シオンを
「では、食事にしよう」
五人で一緒に朝食を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます