善悪の知識
「お疲れさまでした」
作業を終え、部屋を出たところで二人の男が出迎えた。まだ若い。奥で小さくなった彼よりも数歳は若いだろう。ひとりは猫背の茶髪で、もうひとりの黒髪は目元に傷がある。
小倉と阿南。彼らぐらいの若者がいかにも好みそうな恰好をしているが勿論一般人というわけではない。彼らは雇い主側……正確には仲介組織に属する人間だった。担当は連絡と監視、そして検分。私が作業をこなす間、地下の通路で延々と待機させられる損な役回りだ。何もすることがないというのは時に多忙を極めるよりも煩わしい。事実、小倉には疲労の色が見え隠れしていた。加えて今は緊張しているようだった。この青年はいつもそうだ。私の前に立つと、いつも子羊のように哀れになる。依頼がない限り何もしないと伝えてあるのだが。
一方の阿南はそこまで露骨ではなかった。強張りは隠し切れていなかったが両目はしっかりと私を捉えている。彼は、背筋を伸ばし、タオルを差し出してきた。受け取り、返り血を拭った。
「段どりは?」
「既に上で待機して貰っています。内線を入れましたので、十分もすれば」
確認するまでもないことだった。訊かずとも予定通りに事は進む。あとは次の業者が奧の死体を良いように処分する。私の仕事はここまでだ。反吐と糞尿、血と肉と脂の臭いを念入りに洗い流し、使用した衣類を処分業者に引き渡す。それで完了だ。
「運びやすいようにはしてある。あとは好きにしてくれ」
タオルを阿南に返し、シャワー室へ向かう。そこでふとあるものが目に留まった。通路に置かれたパイプ椅子。阿南と小倉が待機用に使っていたものだろう。その座面に文庫本が置かれていた。中古で買ったものなのか。カバーのない、薄汚れた表紙だった。
「君は本を読むのかね」
「は?」
阿南が頓狂な声を上げた。そんなことを訊かれるとは思わなかったのだろう。丸くなった目で私の視線を辿った。困惑気味に「ええ」と応じた。
「ただの時間潰しですが」
「小説かね?」
「そうです」
「安倉草一郎という作家を知っているか?」
「安倉……」
阿南は顎に拳を添え少しばかり考え込んだ。そして「ああ」と表情を明るくする。
「最近話題になっていましたね。何かの賞を取ったとかで。結構売れてるんじゃないですか? すみません。別に詳しいわけじゃないんです」
「そうか」
「えと……安藤さんは何か読まれるんですか?」
「いや、私は本は読まない」
「はあ……」
阿南は最後まで訳が分からないという顔をしていた。
地下の駐車場へ向かった。停めてあった車にキーを挿し込み、ドアの隙間へ身体を滑り込ませる。シートの上で身体を丸め両手に息を吹きかけた。真っ白だった。車内が暖まるまで数分はかかるだろう。それを待つような根気はない。腕をさすりシフトに手を伸ばした。景色が地下から地上へ変化する。だが光源の乏しい山中は地下よりもむしろ鬱蒼としている。仕事場を後にすればヘッドライト以外に頼るものはなかった。その唯一の光源たる仕事場がルームミラーの中で小さくなっていく。
大袈裟な屋敷だ。
表向きは山間の広大な敷地に建てられた別荘。実際はありとあらゆる非合法な活動に利用される伏魔殿だ。非合法な会談。非合法な取引。非合法な監禁。非合法な拷問。そして非合法な殺人。不都合はすべて有り余った土地に廃棄される。土地と屋敷の所有者はそうした活動を仲介・支援する代理商を生業としていた。私は彼の会社に雇用されているわけではないが依頼を受ければ相応の代金を受け取って役務を提供している。とは言え、どの程度が相場なのかは私自身もよく分かっていない。
市内までは二時間と少し。夕食を買うなどしていれば帰宅は十時前後だろう。私は、枯れた木の影を眺めながら晩の献立を考える。
今日は疲れた。豚肉を焼くのも良いかも知れない。
そうして車を走らせて小一時間ほど。景色が山から町に変わり、通りの灯りも目立ち始めた頃だ。信号待ちの間に脇を見やると、ふと目につくものがあった。
「そうか。そんな季節なのだな」
クリスマスツリーだ。電飾で彩られた樅の木が住宅街の公園で光を放っている。地元の人間が用意したものだろう。派手さのない素朴な飾り付けだった。そして、そのささやかな仕上がりを眩しそうに見上げている者たちがいた。親子だ。母親が車椅子に座り、息子がその後ろでグリップを握っていた。母親のほうは何かの病気だろうか。痩せた具合からして病状は芳しくはないようだった。まだ若いのに気の毒なことだ。そう言えば、この近くには冬川の勤める病院がある。彼の患者なのかも知れない。
後ろの少年は衰えた母に笑いかけ、ツリーの先端を見るように促した。
あれは何と言ったか。確か。
「ベツレヘムの星」
答えは助手席から返ってきた。唐突に。
振り返ると、声の主が鷹揚な笑みを浮かべていた。
「三賢者にユダヤの王の誕生を知らせた星。キリスト教徒にとっては重要なシンボルね。あの樅の木はエツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ……善悪の知識の木を模しているそうだけど、その習俗を定着させたのは中世の
「君か」
悪魔を名乗る少女は、窓に肘をかけ、優雅そうに頬杖を突いていた。ドアはしっかりとロックしていたはずだが。まあ、本の中から現れるような相手だ。考えても仕方あるまい。
「そう言えば、この車もクリスマスに関係しているのではなくて?」
「車? カリブ海という意味ではないのか? 知らんよ。まだ動くから使っているだけだ」
信号が切り替わった。私は、右足を踏み込んだ。親子の姿が後方へ流れていく。少女は窓に頭を傾け、うつろう景色を眺めていた。その姿は夜の色と見分けがつかない。
夜が、問いかけてくる。
「貴方も、ああいう光景に心を動かされたりするのかしら」
親子の姿は、もはやルームミラーの中にもない。私以外に走る車もない。前にも後ろにも。引かれた線の内側を、ただひたすらにまっすぐ走る。それだけだった。
「そうだな」
私は、ひとまず一言だけ返した。しばし黙考し、言葉を探した。
「……大抵の相手は、意識があるうちに誰かの名前を口にする。妻であったり、恋人であったりと様々だが……母親を呼ぶことが多いように思う。来もしない母親を呼びながら助けてくれと喚き散らす。私には彼らが何故あんなものにすがるのか、それが理解できない」
道沿いに住宅が密集していた。近頃造成した土地なのか新築の家が多かった。まだ床に就くような時間ではない。窓からは煌々と灯りが漏れていた。
「母を殺したのは十歳の時だ」
流れていく光を見やり、告げた。
「どうしてそんなことになったのか。私にも未だによく分からない。なぜ母が私に刃を向けたのか……。彼女は何かに絶望していたようだ。その絶望が彼女の精神に致命的な何かをもたらしたのかも知れない。私も殺したいわけではなかった。だがやむを得なかった。大人たちも同じ判断を下したようだ。私は身寄りのない子供として施設に預けられた。人は私のことを哀れだと言った。親に見限られた哀れな子供だと。私は、それもよく分からなかった。殺されそうになったから殺した。母は死んだからいなくなった。それが全てだったからだ。もちろん知識として分からないわけではない。親に愛されないということは……あるいは愛され過ぎるということは、とても不幸なことなのだと。だが実感として理解できない」
住宅の群れが途切れた。一つの町を通り過ぎようとしている。次の集落まではまたしばらく何もない道が続く。いや……何もないわけではない。田畑があれば倉庫もある。民家も。だがどれも私には価値のないものだった。先ほどまで景色と同じように。
「理解できないまま……色々な人間に出会った。その多くは私を悪魔と罵った。だが中には友と呼ぶ者もいた。愛していると抱き締めてきた者も。だが私は彼らのことを特別に考えたことは一度もない。一度も」
「ならば、大切なものは?」
「順番だ」
言葉が足りなかったのだろうか。少女は、先を促すような顔をした。
私は、不足を補った。
「やり方にはいくつかのパターンがあり、いくつかの手順が存在する。どのやり方を選ぶにしろ……選ぶのは私だが……その手順を守り、完遂させることが最も重要なことだ」
「なぜ?」
「ルールだからだ」
少女は、やはり促すような顔をする。それは不可解を解消するためではない。ただ事実を確認するための催促だった。それが彼女の手順なのかも知れない。私は応じた。
「たとえば今日の男は眼球をくり抜く作業から始めた。視力を失った相手は次にいずれの部位を切除されるか分からないという恐怖に襲われる。なので右手の小指の第一関節から順番に切り落としていくより、できる限り相手がランダムに感じられるような手順で全身を欠損させていくほうが恐怖を感じる度合いが強い。その場合小さな傷から徐々に大きな傷を作っていくほうがより効果的なようだ。眼球を傷付けない場合は、自身の身体が二度と元の状態に戻らないという現実を長時間見せつけることが肝要になる。よって最初の作業は五指の肉を削ぎ落とし、骨を剥き出しにすることから」
「結構」
「話が逸れたな。何の話だったか」
「あなたには、大切なものがひとつもないと」
「そうだった。……そうなのだ。私には理解できないのだ。皆が大事そうに融通し合う、感情というものの正体が。砂漠にある蜃気楼のように模糊として掴めないのだ」
たとえば、あの親子にしてもそうだ。
あの母親はそう長くはあるまい。もってあと半年といったところだろう。息子は高校生ぐらいだろうか? その若さで、はや母を失うのだ。親も子も、どちらも気の毒なことだ。だが、それが何だというのだ? 気の毒だから、何なのだ? 私には何の関係もない。仮に仕事として依頼を受ければ、私は滞りなくあの母親の皮を剥ぐことができる。
それが冬川であっても同じことだ。
「一月前だ。私はいつものようにある男を解体した。どこぞの組の人間だったか。素性は忘れたがタフな男だった。死ぬ間際まで正気を保てる人間はそうはいない。私は、彼の内臓を引き摺り出す前に、やり残したことはあるかと質問を投げた。彼は答えた。本を読みたいと。もう一度あの本を読んでみたいと。そんなことを言う人間は珍しかった。私は、その彼が口にした本を買ってみた」
タイトルは月の川。著者の名は安倉草一郎。
「どこにでもある大衆小説だ。だが彼はそんな物語を美しいと感じたらしい」
「貴方は?」
「わからない。文字に目を通したが何も感じなかった。彼は何故こんなものを美しいと考えたのか……」
トンネルに差しかかった。長いトンネルだ。色のない照明が等間隔で連なっている。どこまで走っても出口はなく、どこまで走っても景色は変わらない。意味のない時間。意味のない繰り返し。ずっと、何も変わらない。
だが、いつかこの砂漠から抜け出すことができるのならば。
「つまり……それがあなたの願いなのね?」
「対価は何だ? 取引が常に対等であるとは限らない」
彼女は、くすりと笑みを隠した。
「心外な指摘ね。それに何だか可笑しいわ。損失を気にかける柄でもないでしょうに」
「確かにな。妥当な指摘だ」
先ほど話したばかりではないか。私には大切なものがひとつもないと。
それに詮のない話でもある。何かを失ったとしても、代わりに得るものがあるのなら、それは失っていないと同じことだ。
彼女は「そうね」と右手を持ち上げた。
「貴方には楽園を手放して貰うわ」
「楽園?」
瞬間だった。彼女の右手に黒い本が収まっていた。何も持っていなかったはずの右手に。自宅のテーブルに置いていたものが、一瞬で。
「……悪魔と云うより、奇術師だな」
「奇術以上のものが見せられるわ。貴方がそれを差し出してくれるのならば」
「私は、そんな大層ものとは縁がないよ」
「そう? なら分かりやすく言い直してあげる」
彼女は、その腕を差し出してくる。爪の根元が舌のように赤かった。
「順番を頂くわ。それが一番大切なんでしょう?」
「ふん」
私は、自らの親指に犬歯を突き立てた。刺激と共に肉が破れ、口内に血の味が広がる。
彼女はこれを何と表現したか? 流れ出た魂の一部?
ならば……そうか。私の魂は鉄でできているのだ。
「無遠慮な女だ」
そして、トンネルを抜け出した。
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