幼年期の終わり
「望くん、ほら、あっちのも楽しそうですよ」
香澄は、絶叫系を指差しながら僕の手を引いた。他のアトラクション同様、長蛇の列が伸びている。時刻は二時過ぎ。剥き出しの太陽に汗が滲んだ。
拭い、愛想を作った。
「ごめん、ちょっと休んでていいかな?」
香澄は顔を曇らせた。心配そうに顔を覗き込んでくる。
「具合が悪いんですか? ごめんなさい。私、気が付かなくて」
「いや……歩き疲れただけだよ」
「でも」
「大丈夫。そこで座ってるから、飲み物でも買ってきてくれないかな」
香澄はなおも逡巡したが、直に微笑むと「じゃあ何か冷たいものでも買ってきますね」とスカートを翻した。子犬みたく駆けて行く彼女を見送ったあと木陰のベンチに腰を下ろした。
座面は硬く、生暖かい。
立ち昇る陽炎が、景色を朧げなものにしていた。
眺める意識もまた曖昧なものになっていく。
混濁の心地良さに呑まれぬよう瞳を閉ざした。息を吐き、思考を言葉に換えた。
「彼女は、何なんだ?」
質問に、質問が返ってくる。
「どういう意味かしら?」
黒髪の少女……見ているだけで暑苦しい衣装をまとったそれは、涼しげな瞳で僕と同じほうを見つめていた。手には何故か棒アイスが握られている。金を払って買ったのだろうか? 疑問には感じたがあえて口には出さなかった。それよりも癪に障ったのが、その態度だ。質問の意図をすっかりと理解していながら勿体ぶっている。すずりは、舌先でちろりとバニラを舐めた。
「取引に嘘はなかったでしょう? 貴方は寿命と引き換えに彼女を得た。悪魔というものは代金分の仕事はするものなの」
「ああ、そうだろうとも。そうだろうともさ。だが疑問に思っちゃいけない法はないだろう。教えてくれ。彼女は一体何なんだ? どうして僕に好意を向けてくる?」
愚かな質問だった。叶えたのは彼女。望んだのは僕だ。でも納得ができない。
どうして僕を愛してくれるのか?
佐倉香澄。二十四歳。父親は銀行員で、母親は弁護士。それなりに裕福な家庭で、それなりの教育を受けてきた。家族関係は良好かつ円満で、尊敬する人間は両親と公言して憚らない。趣味は読書で知識の幅はかなり広い。だが高慢なところは見受けられず性格は明るく、無邪気。どこか抜けているところもあり、友人は相応に多いらしい。現在は市立図書館に臨時職員として勤務しながら採用試験に向けて勉強中……。
こうしてプロフィールを並べると、益々違和感が強まってくる。
彼女と僕では、質が違い過ぎる。
好意を向けられる、要素がない。
僕は、すずりを見据えた。文字通り、悪魔の如く美しい少女。僕と香澄の関係にこの娘の介在があったことは確かだ。僕が望んだのだから当然だ。でも、それは一体どういう形で?
運命を操作したのだろうか。彼女の心を操ったのだろうか? ならば、その愛情の真贋は? 彼女の本心はどこにある?
「そもそも……本当に、実在する人間なのか? 君が造った人形なんじゃないのか?」
二か月間、押し留めていた疑念を口にした。
すずりは、唇を舐めた。
「……さあ? どうでもいいでしょう、そんなことは。大切なのは事実よ。彼女が貴方を愛しているという事実。違うかしら?」
返答に詰まった。すずりはアイスに歯を立て、喉のラインをこくりと蠢かせた。
一口が終わると、残りにゆっくりと舌を這わせる。蛇のように。
「流れに身を任せなさい。必要のないことは考えなくてもいいの。つまりは不安を覚えるとか、そういう類のことはね。私は完璧に仕事をする」
そう宣言し、食べかけの棒から指を離した。アイスは地面へ垂直に落下し、何が起きるでもなく、べちゃりと潰れた。すぐさま熱で溶けていくバニラを愉快そうに見下ろした。
「彼女は貴方を無限に愛し、無限に赦す。決して貴方を裏切らないし、見放すこともない。安心して良いの。貴方は赤ん坊のように安心して良いのよ」
前方へ視線を向ける。二人分のペットボトルを手にした香澄が小走りで戻ってきた。
すずりの姿はもうどこにもなかった。溶けたアイスが汚らしい跡を残しているだけだった。
無限に愛し、無限に赦す。
彼女の言葉通り、香澄は僕の存在を全面的に受け入れた。時間に遅れても怒らない。意見が割れても否定しない。無理を強いても不機嫌にならず、我儘を言っても許してくれる。僕の稚拙な漫画を大袈裟に褒め、慰めが欲しいときは肌を貸してくれた。
認めよう。香澄と過ごす時間は心地良かった。将来の展望も開けず、狭い部屋で緩やかに腐敗していた僕にとって、彼女の存在は救いだった。求めてきたものがようやく得られたのだと思えた。だが同時に不安を覚えていた。強く、強く、不安を覚えていた。
僕はこのまま、ゆりかごでまどろむような時間を過ごしてしまって良いのだろうか?
何か……途轍もない代価を支払わなければならない気がして恐ろしかった。
一度、香澄との連絡を絶ってみたことがある。約束していた時間をすっぽかし、僕の身を案じる彼女のメッセージを無視し続けた。一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、スマホの通知が途絶えるのを見計らってから連絡を取ってみた。僕は、彼女が怒り狂い、謝罪を要求してくることを期待していた。絶対に許さないと罵ってくることを期待していた。だが彼女は僕の期待に応じてはくれなかった。ただただ「会いたい」とメッセージを寄越し、実際にそうしてやると僕を抱きしめ、涙を流した。唇を重ね、肌を舐め、股を開いた。
気持ちが悪かった。
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