特別な液体

「契約するよ」

 声が、溜息と一緒に床へ落ちた。

 悪魔の姿はなかった。でも必ず聞こえているだろうと思った。

 現に彼女はそこにいた。我が物顔でベッドに腰かけ、口元に笑みを湛えていた。

 椅子を回し、黒い少女と向き合った。

「このまま生き続けても孤独に死ぬだけだ。腐るだけの人生をだらだらと生きるぐらいなら願いを叶えてさっさと死にたい」

 彼女は、瞼を閉ざした。

「その願いとは?」

「他者に愛して貰うこと」

 投げやりに手を振った。

「どんな形でも構わない。僕は誰かに受け入れて貰いたい」

「いいでしょう」

 すずりは頷き、立ち上がった。そんな仕草ひとつが見惚れてしまうほど優雅だった。嘘くさいほどに。

 いつの間に引き寄せたのか、手元には例の黒い本が抱えられていた。

 紅い瞳が、僕の姿を取り込んだ。

「願いは他者に愛して貰うこと。代償は五年後以降の人生。それで構わない?」

「構わない」

「その条件でいいのね?」

 椅子に体重を預けた。背もたれが、頼りなく軋みを上げた。

 彼女の言葉を反芻する。なるだけ重々しく感じられるように。

 他者に愛して貰うこと。代償は五年後以降の人生。

「構わない。契約をしよう」

 すずりは「いいでしょう」と繰り返した。

 それで? と僕は肩をすくめた。

「僕は何をどうすればいい? 悪魔と契約するためには何が必要なんだ?」

「そうね。お尻にキスをする必要はないわよ?」

 言葉に詰まってしまった。彼女は、ふふと肩を揺らす。そしてくるりと反転すると「……したい?」とスカートをめくって見せた。露わになったふくらはぎ。そして腿の裏。慌てて視線を逸らした。悪魔はからからと笑った。

「指を出しなさいな。……まあ、腕でも、どこでも良いのだけれど。指がやりやすいでしょう」

「……こう?」

 左手の人差し指を恐る恐る。すずりは、その手首をそっと掴んだ。

 僕の指に、指を近づけ、尖った爪先で引っ掻いた。

「……っ」

 紙で切ったように皮膚が裂け、鮮血がさらりと指を伝った。彼女は本の表紙を上向けた。

「そのまま掌を押し当てて。しっかりと血液が沁み込むように。それで契約は成立よ」

「稟議書は要らないのか? 決裁者の署名と押印は?」

「血は特別な液体よ。流れ出た魂の一部が私たちの合意を不可逆なものとして拘束する」

「……ふん、って感じだな。ちょっと古臭さすら感じるよ」

 すずりは「実際に古いのよ」と本を差し出してきた。黒い装丁の本。

 喉仏がこくりと動いた。シグナルを察したのだろう。彼女は「やめる?」と首を傾けた。

「契約には選択の自由があるわ。ここで引き返しても私は責めない」

「……重大な決断をするんだ。躊躇ぐらいはさせてくれよ」

 そう、重大な決断だ。願いを叶える。その代わりに五年で死ぬ。束の間の安らぎと引き換えに人生の大半を失う。そういう取引をしようとしているのだ。

 視線が部屋の片隅へ逃げた。カラフルな背表紙がびっしりと敷き詰められた書棚だ。収まり切らなかった十数冊は棚の前で積み上げられている。中には小学校の頃からずっと持ち続けているものもある。どれもページが黒ずむまで読み込んだ名作だ。

 昨晩アップした漫画には何か反応があったろうか? 時折感想をくれるひとがいないわけではなかった。今はまだ何もなくとも、数日経てば、もしかしたら。

 窓の外に視線を転じた。暗い町並が見えた。どうということのない、つまらない景色だ。町全体が疲れ果て、緩慢な衰退を甘んじている。

 救いようがない。

 そう思っていた。

 果たして本当だろうか? よく見れば灯りはあった。生活はあった。ひとりひとりの生き方があった。それは景色の外側にも広がっている。無限にも近い形で。

 屋根が月明かりを反射していることに気付き、我に返った。紅い瞳の少女が口を噤んで待っていた。突き出された黒い表紙を睨んだが、答えを与えてくれそうにはなかった。

 血は直に渇いてしまう。

 僕は悪魔に意志を示した。

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