プラエスティギアトレス

「気が付けば、僕は会社にいた」

 柵に腰をかけ……そうすることが自然の法則であるかのように悠然と見下ろしてくる黒い少女。紅い瞳を苦々しく睨み、続けた。

「本当に突然だ。キーを叩きながら不味いコーヒーに手を伸ばしていた。あれっと思って日付を見た。明くる日の朝だった。でも、そこに至るまでの記憶がない。働き過ぎでとうとう頭がおかしくなったんだと青ざめた」

 その証明になるものが、目の前にいる。

「どうなんだ? 僕は狂っているのか?」

 彼女は、くすりと嗤った。

「その質問」

 弓なりに目を細め、

「意味があるの?」

 ただ、そう返してくる。呻くしかなかった。

 その質問に意味があるのか? ないだろう。眼前の少女が妄想の産物ならば肯定されようが否定されようが僕の頭は狂っている。保証は得られない。だが、そんな無為な疑念を抱けること自体が正気の支え骨に他ならないという薄氷の理屈に僕はすがることにした。さらに疑問を投げかける。

「あんたは何なんだ?」

 少女はその質問を、当然予期していたに違いない。

 そうねと唇を舐めた。

「妨げる者。誘惑する者。光を愛さない者……。マスティマ。シャイタン。プラエスティギアトレス。この国では七宝行者なんて呼ばれたこともあったわね。でも」

 見惚れるほど長い指を胸元に当て、名乗る。

「この姿でいるときはを名乗っているわ」

「すずり……」

「悪魔よ」

 貴方たちの概念で言えば。

 すずり。その文字がいかにも相応しい色の少女は、いかにもそれらしい肩書きを名乗った。古めかしくも力強く、それでいてどこまでも馬鹿々々しい滑稽な呼称。

 悪魔。

 そう、馬鹿々々しい。お伽噺だ。だがそれを笑い飛ばせない何かが紅い瞳には込められていた。何より否定する理由がない。少女は本の中から這い出してきたのだから。

 僕はちらりとベッドを見た。下に金属バットを転がしてある。這い蹲って、引っ張り出し、脳天にぶち込む……。無理があるだろうか? 一気に外まで逃げたほうが無難かも知れない。タイミングを見計らって……。

 隙を窺おうとベランダに視線を戻した。

「!?」

 少女の姿がなかった。反射的に振り返った。

 少女は、ベッドに腰かけ、優雅に脚を組んでいた。

 手には安物の金属バット。興味深そうに弄んだあと、僕に向かって柄を差し出した。

「逃げるなり暴れるなり御随意に。でも人に見られたら本当に狂人扱いよ。私の姿は貴方にしか見えないから」

「……僕をどうしたい? 殺すつもりか」

「話を聞いてなかったみたいね」

 少女は、苦笑し、静かにバットを下ろした。

 紅い瞳で僕を射抜く。

「貴方こそ何を望むの? 何が欲しい? 齢を重ね、老い衰えて死ぬまでの分陰で真実から手に入れたいものの姿かたちは?」

 腕を広げる。一流の料理人のように。

「私にはそれを叶える充分な用意がある。貴方が願うのなら、神々に等しい名声の快楽も、宇宙の最果てにまで及ぶ知識も、小皿に盛りつけられた鶏肉も同然」

「そして魂を奪われる」

「否定はしないわ」

 言い切り、立ち上がった。

「言ったでしょう? 取引よ。対等な取引。……そう、取引とは常に対等でなければならない。対等でない取引なんて存在し得ない。そうでしょう? 何かを手に入れるためには、何かを犠牲にしなければならない。これは確実な話よ」

「実に誠意の感じられる営業活動だね。帰ってくれ。お出口はあちらだ」

 少女は、僕の皮肉を全く無視した。何かも承知していると言わんばかりの目つきを向けてくる。小癪だった。その小癪な女は、出口ではなく部屋の片隅に足を向けた。背を屈め、積んであった漫画雑誌を手に取った。読むでもなくパラパラとページをめくる。そして、ベッドに捨てた。

「漫画を描いているそうね?」

 ローテーブルを回り込み、今度は落ちたネクタイを拾った。

「本職が暇なわけでもないでしょうに。今夜も随分と遅かったようね? 毎晩朦朧とするまで残業をこなして、夜食に味なんて感じられるのかしら? お風呂で汗を流してさっさと眠ってしまえば楽なのに、睡眠時間を削りながらコツコツコツコツ……。健気なこと。そこまで身を削って誰かご褒美をくれた?」

「そこまで分かっているのなら答える必要もないだろう」

 そう返した途端、不意に身体が重たくなった。脚に力が入らない。

 これは魔術の類か?

 そんな疑念を悪魔に向ける。だが実際は彼女の言葉でコンディションを自覚しただけなのだと思う。確かに今日も働きづめだった。一日を蟻のように過ごし、帰宅し、自分の取り組みに何の報いも得られなかったことを確認したばかりだ。椅子の背もたれを掴み、引き寄せた。ふらつくように身を沈める。

 息を吐いた。

「仮に君が、大嘘吐きではないとして……悪魔という肩書きに相応しい振る舞いで僕を欺こうとしていないのであれば、僕を有名漫画家としてデビューさせることも容易いと、そう言いたいわけか?」

「話が呑み込めてきたのかしら」

「……具体的にどうなるんだ」

 悪魔は、手にしたネクタイを壁のハンガーに吊るした。ついでにかかっていたワイシャツの肩を掴み、整える。右側に傾いているのが気に入らなかったらしい。本人は整えたシャツを満足気に見上げていたが、今度は少しばかり左に傾いていた。彼女は答えた。

「誤解して当然だけど別に魂が必要なわけではないの。必要なのは代償よ。貴方が得るものに相応しい代償を捧げてくれるのなら物理的な対価であっても構わない。ただ貴方の場合は魂や生命以外に差し出せるものがなさそうなだけ」

「だから、具体的にどうなるんだ」

「五年」

 少女は、にっこりと笑い、手で数を示した。

「……五年分の寿命を奪われる?」

「いいえ、残り五年しか生きられない」

「な……っ!?」

 絶句した。立ち上がり、叫んだ。

「五年!? たった五年!?」

 平均寿命の80歳まで生きられると仮定して、漫画家として成功するために52年分の寿命を奪われる!?

「莫迦を言うな。論外だ。連載一本も終わらせられやしない」

「そうでしょうね」

 少女は、あっさりと認めた。人を喰ったその態度にこめかみが動くのを自覚していた。期待通りの反応を示してしまったのだろう。彼女は口許を隠し、肩を揺らした。

「割に合わないと思ったでしょ? 当然よ。だって貴方全然漫画なんか好きそうじゃないんだもの」

「……どういう意味だ?」

「そのままの意味よ」

 少女は、やはり見透かした目をこちらに向けてくる。

 刃物を思わせる鋭利な瞳。眼光が胸に突き刺さり、心臓を八つに引き裂く。そんな空想が脳裏を掠める。身包みを剥がされたような居心地の悪さに喉が渇いた。

 彼女は、薄く笑った。

「ま、今日はもう寝なさい。色々なことがあって疲れたでしょう?」

「誰のせいだと思ってるんだ」

 彼女なりの冗談だったのだろう。得意げに目を細めた。

 そして、

「時間は貴方の味方よ。冷静になれば見えてくるものもあるわ」

 そう言い残すと、瞬きをする間に消え失せていた。

 途端に世界が静かになった。部屋が、いつもの部屋になる。誰もいない空虚な場所。その空虚さを埋め合わせるように流れ込んでくるものがあった。

 孤独。不安。恐怖。そんな漠然としたもの。現実感めいたもの。

 きっと僕は頭がおかしくなってしまったのだ。弱音が再び鎌首をもたげたが、黒い本が、そうではないと主張していた。

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