第66話 陽だまりの笑顔

 長い夢を見ていた。どんな内容だったのかもう覚えてはいなかったが、心を温かくする懐かしい花の香りだけはずっと記憶の片隅に残っていた。


 香りに導かれ、真っ暗な世界に優しい光が浮かび上がる。明るい笑い声は小さな悩みなど吹き飛ばすかのようで、自然と笑みを零してしまう。落ち着きがなく、時に煩わしいとさえ感じてしまうけれど、心のどこかでは強引に自分を引っ張ってくれるその明るさを求めていた。


『ユーリ』


 無邪気に笑う、陽だまりの少女。その笑顔にどれだけ救われていたかも理解していたはずなのに、記憶に残る最後の少女は、昔も今も大粒の涙を流していた。

 彼女の笑顔を守りたいと願っていたのに、泣かせているのは他でもない自分自身だ。その現実に自嘲しながら、それでもまた性懲りもなく願ってしまう。


 ――笑っていてほしい。


 その願いを叶える事が出来るのは自分しかいないのだと言う事に、ユリシスはやっと本当の意味で気が付いた。






 意識して、深く吸い込んだ空気に、懐かしい花の香りが混じっていた。鉛のように重い瞼をやっとの思いで持ち上げると、ぼやけた視界に沢山の色が滲んでいた。ゆっくりと数回瞬きをしてからもう一度瞳を開くと、今度ははっきりと確保できた視界に、色とりどりの糸で刺繍が施された上等な天蓋が見て取れた。

 視線だけを動かしてみると、ここが見覚えのあるジルクヴァイン王城の一室だと言う事がわかる。ベッド脇のランプが暗い室内を控えめに照らし、枕元に置かれたエリティアの花を薄く浮かび上がらせていた。


 少しだけ身じろぎすると、右側に別の重みを感じて首をめぐらせる。

 いつからそこにいたのか、床に座り込んだ状態のレフィスが、ベッドに頭を埋めたまま眠っていた。静か過ぎる室内に落ちていく規則正しい寝息を聞きながら、ユリシスはまだ少し朦朧とする意識の中で自身の記憶を必死に手繰り寄せる。


 ラカルの石を破壊、もしくは内情を探る為に、ルヴァルドと共にルナティルスへ侵入した事。

 計画が失敗し、何とかルヴァルドだけは逃がしたものの、自分はリーオンに捕えられ、城の地下牢で終わらない拷問を受け続けていた事。

 血と死臭しかなかった地下牢で、懐かしい花の香りと……優しい腕に抱きしめられた事。


 夢ではなかったのだと、ユリシスは現実を確かめるかのように、傍らで眠るレフィスの髪を静かに撫で下ろした。その感触に眠りの浅かったレフィスがゆっくりと目を開ける。そして今まで眠っていたとは思えないほど勢いよく体を起こして、食い入るようにベッドに横たわったままのユリシスを凝視した。


「……ユリシス?」


「ああ」


 その声を聞いた途端にレフィスの目が大きく見開かれ、そこから堰を切ったかのように大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。頬を滑り落ちた涙がシーツを濡らしていくのも構わずに、けれど声だけは出すまいと唇を噛み締めて必死に嗚咽を押さえ込むその姿が、ユリシスの瞳に痛々しく映る。


「迷惑をかけた」


「めっ……わく、なんてっ……そんな事」


 溢れ出す感情が抑えきれずそのまま抱きつこうとしたレフィスが、寸前で何かを思い出したように慌ててユリシスから体を離した。何事かと少しだけ眉を顰めたユリシスに、レフィスが涙を拭いながら首を左右に振る。


「どうした?」


「だっ、て……ひどい怪我してる」


 躊躇いがちに呟いたレフィスに、ユリシスが思わず苦笑して溜息を零した。


「お前を受け止めるくらい難はない」


「……でも」


「――いいから来い」


 真っ直ぐに告げられ、魔法にかかったようにレフィスがユリシスに覆い被さるようにして抱きついた。下から背中へしっかりと回された腕は思っていた以上に力強く、レフィスは再び目頭が熱くなるのを感じて瞳をきつく閉じた。


 夢でもなく、幻でもなく、現実として目の前にユリシスがいる。熱を持つ、生きた体でレフィスを強く抱きしめている。一度は失われかけたその現実が今腕の中に確かにあって、それを全身で感じ取れる幸せに二人共が心の底から感謝した。


「良かった。……本当に、良かった」


 話したい事も、話さなければならない事も沢山あった。けれど今はまだもう少しこのままで、重なり合う心音に耳を傾けながら、愛しい熱を感じていたい。同じ事を願うように、二人は暫くの間黙ってお互いの体を優しく抱きしめていた。


「……悪かった」


 部屋に流れる無音に近い空間を壊さないように、ユリシスが抱きしめたままのレフィスの耳元で静かに囁いた。少し体を離して見下ろすと、一瞬重なり合った瞳をユリシスが先に瞼の奥に隠してしまう。


「俺はいつも自分の勝手な都合を押し付けてばかりだった。忘れて欲しくなくて指輪を渡し、危険な場所だと分かっていたのに同行させて怪我をさせた。目の前で傷付く姿を見ていられなくて、お前の為だと言い訳をして記憶を消した。お前の無事を願うなら、ベルズで冒険者として再会した時に、俺は指輪を奪って姿を消すべきだった。……なのにそれすら出来ず、再び訪れた穏やかな時間に、かすかな喜びさえ感じていた」


 一呼吸置いてから、ユリシスが閉じていた瞼をゆっくりと開けた。間近で重なり合った瞳に、今更ながらレフィスの胸がとくんと脈打つ。


「覚悟がなかったのは、俺の方だ」


 自分の歩く道は決して平穏ではなく、時には命を脅かすほど危険に満ちた険しい道だ。暗く、血生臭い道を行かなければならない自分の隣に、かけがえのない優しい光が寄り添っていて欲しいと愚かにも願う。

 危険を承知で側にいて欲しいと、ユリシスは初めて心の奥底に眠っていた己の願望と向き合った。その願いを叶える為に為すべき事は、レフィスを遠ざける事でも、ましてや記憶を奪う事でもない。

 答えはずっと、ユリシスの中にあった。


「お前の手を離す事は、もうしない。――レフィス。お前には、俺の側でずっと笑っていて欲しい」


「……っ、……はい」


 声に出した瞬間、レフィスの白い頬を涙の粒が滑り落ちる。それはやっぱり止まる事を知らず、零れ落ちた熱い雫はそのままユリシスの頬に受け止められた。


「言ったそばからこれだ」


「ご、ごめ……」


「冗談だ」


 淡く優しい笑みを零して、ユリシスがレフィスの頬を大きな手のひらで包み込む。涙を拭った手のひらをそのまま後頭部へ回し、ユリシスが少し強くレフィスの顔を引き寄せた。


「――幼い頃から、ずっと……」


 言葉の最後は、優しい口付けに絡み合いながら、直接レフィスの中に響いていく。


 まだ涙の残る唇は、なぜか遠い昔に二人で食べたピンクベリーの飴玉のように甘い味がした。

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