第56話 ユリシスの記憶
森の奥に湧き出る泉に、月は姿を現さなかった。
降り止まない雪を受け止めてこんこんと湧き出る泉を見つめながら、レフィスは自分の内に溜まった言葉に出来ない思いも、この泉の水のように溢れ出て欲しいと願った。
言葉に出来ない思い。確かにレフィスの中に存在するそれは、けれど言葉として外に出てくる事を許されていない。レフィスの思いなのに、レフィスの外側からがっちりと締め付けられているようだった。
見知らぬ二人の訪問者。薬の小瓶。――ユリシスと言う、名前。
どれもがレフィスの思いをこじ開ける鍵であるはずなのに、鍵穴だけが見つからない。
答えはあるのに、方法が見つからなくて、レフィスはただ……ただ焦燥する。
思い出さなくてはならない。けれど、何を思い出すというのだろう。
唇を噛んで俯いた視界に、自身の握り締めた両手が映る。白くなった右手の薬指に嵌まる赤い指輪が、光もないのに煌いた気がした。
「心が壊れる。言ったはずだ」
不意に背後から声がしたかと思うと、指輪に見入っていたレフィスの視界が後ろから大きな手のひらによって遮られた。
「ブラッド……」
瞳を覆う手のひらを静かに避けて、レフィスが背後を振り返る。夜の闇にすら紛れない真紅が、そこにあった。愛しむでもなく、哀れむでもなく、ただ静かにレフィスを見つめている。
「ブラッドは……知ってるの?」
「……」
「……無言は、肯定?」
イーヴィとのやり取りを再現して、レフィスは確信する。
イーヴィとライリ、そして目の前のブラッドも、レフィスの知らない何かを知っている。そしてそれはおそらく……。
「――ユリシスと言うのは、一体誰なの?」
名を口にする度に、胸が痛いくらいに締め付けられる。切ない痛みは呼吸を奪い、鈍い頭痛さえ引き連れてくる。心が壊れるとはこう言う事なのかと思う反面、その名を持つ者が自分にとって大きな意味を持つのだとレフィスは痛みと共に実感した。
この痛みは、この切なさは、すべて『ユリシス』に繋がっている。
また、ずきんと頭が痛んだ。鈍痛に顔を歪めたレフィスを見おろすブラッドの瞳が、かすかに動く。
「痛みに身を蝕まれて、なお……求めるか」
「痛むと言う事は、私にとって大切な何かだったからでしょう?」
「……お前にかけられた呪は深い。無理にこじ開ければ、心は壊れる。それでもお前は、思考する事を止めないのか」
真っ直ぐに見おろしてくるブラッドを、レフィスも真っ直ぐに見つめ返した。言葉で伝えるよりもはるかに強く、レフィスの瞳に揺るぎのない思いが宿っていた。
「そうか」
呟いて、ブラッドが目を閉じる。沈黙が流れたのは束の間で、すぐに赤い双眸がレフィスを見つめた。
「……我は、お前が壊れる事を望まぬ」
「ブラッド?」
「願え、レフィス」
凍えた風が吹き抜けていった。花びらのように雪が舞い、泉のほとりに咲いていたエリティアの花が一斉に揺れる。冬に咲く花からは、柔らかな春の陽だまりのような匂いがした。
『約束の印だ』
『約束? 何の?』
『――また戻ってくる。それまで、これを大事に持っておいて欲しい』
遠い過去、エリティアの花に囲まれて、幼い自分が交わした約束。舞い上がるエリティアの花びらの向こうで、懐かしい面影を見たような気がした。
「願え、レフィス」
再度、ブラッドが低い声で呟いた。
「お前は、我が主。お前の願いは何でも聞き遂げよう」
レフィスの指に嵌まった指輪が、より一層真紅に煌いた。
――約束を守れなくてすまない。
耳の奥で木霊する切ない声音に、レフィスが無意識に唇に指を当てた。とっくに消えたはずの温もりが再び熱を持ち、それは涙の粒となって瞳の奥から零れ落ちる。
今はもう、思い出さなくても分かる。『ユリシス』は、自分にとってとても大切な人だと言う事を。
「小さき者よ。我に命令を」
「……――私の記憶を……」
ブラッドの大きな手のひらが、レフィスの額に触れた。自然と閉じられた瞼の裏側が、一瞬だけ赤い闇に包まれる。ただそれだけなのに頭の奥がざわりと脈打ち、警戒を示すかの如く不協和音が響き始めた。
幾重にも重なった、記憶を絡め取る細い糸。そこに許可なく踏み込んだブラッドの大きな手は、行く手を阻む数多の糸に触れる事すら躊躇わず、奥へ奥へと進んでいく。触れた糸から、またひとつ不協和音が生まれ、その度にレフィスの頭が締め付けられるように痛んだ。
「……っ」
頭の内側を鈍器で殴られるような痛みに必死で耐えながら、それでもレフィスは声を上げまいと唇を強く噛み締める。
迷いもなく進んでいくブラッドの手。鳴り響く不協和音の闇。その中で、張り巡らされた細い糸に絡め取られた自分の姿を意識下に見て、レフィスがはっと息を呑む。
ブラッドの大きな手が、その糸に絡まれたレフィスの額に、同じように触れた。
『レフィス』
懐かしい声が響いたかと思うと、それまで幾重にも張り巡らされた細い糸が瞬時に霧散して消えた。悲鳴の如く鳴り響いていた不協和音は本来の音に戻り、静かに、そして優しくレフィスに語りかけた。
『レフィス、死ぬな。……死ぬなっ!』
何からも守ろうとするように、強く抱きしめた腕は、かすかに震えていた。
『力はいらない。ただ俺の側にいろ』
切実に請う願いを砕いた、あの冷たい刃を覚えている。側にいると言う簡単な約束すら守れなかった自分が、ただただ悔しくて。
『今のうちに慣れておけ。窮屈なドレスも……俺も』
蕩けるような甘い囁きを落した唇が、そのまま首筋に移動した。嫌ではなかった。ただ急すぎて、戸惑って……けれど、嫌ではなかった。
『俺は覚えている。ランクストーンの女なんて忘れようにも忘れられない』
出会った頃の最悪な印象。彼の紫紺の瞳があの頃のレフィスを思い出していたのは、いつからだったのだろう。
『……これを、預けていく』
小さな手のひらに握られた、赤い石の指輪。去っていく少年を引き止められずに、ただ涙したあの夜。受け取った指輪から消えていく少年の熱が悲しくて、がむしゃらに強く握り締めていた。
『約束を守れなくてすまない』
二度も、同じ思いをした。目の前から消えようとする彼を、二度も捕まえる事が出来なかった。幼い頃とは違い、自分の意思でついて行く事も手を伸ばす事も出来たのに、それすらさせてもらえなかった。
――ユリシス。
音を紡がない唇から、彼の名前が零れ落ちた。
痛みしか与えなかったその名前が、レフィスの胸に温かく染み込んで行く。
「ユリシス……」
音として名前が響き渡る。それを待っていたかのように風が吹き、泉のほとりに咲くエリティアの花が優しい香りを舞い上がらせた。
ゆっくりと開かれた若草色の瞳に今までの惑うような色はなく、はっきりと前を見据えた強い輝きが宿っていた。
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