第48話 冬の訪れ

 その夜、月は出ていなかった。

 しんしんと降り続く雪が、暗い闇を淡く照らしている。


「行っちゃうの?」


 声だけで、少女がどんな顔をしているのかが分かる。振り返って確かめなくても、ユリシスの背後からかすかに鼻を啜る音が聞こえた。


「……これを、預けていく」


 なぜ、そうしたのかは分からない。けれど、このまま離れてしまうのが嫌だった事は、よく覚えている。


 幼さゆえの、愚行。

 けれど幼さゆえに、真っ直ぐな情熱。


「約束の印だ」


「約束? 何の?」


 指輪を乗せた手のひらを、自分の手で上から握り締めて、ユリシスが深く息を吸い込んだ。


「――また、戻ってくる。それまで、これを大事に持っておいてほしい」


 雪の中に咲くエリティアの花が、束の間の別れを惜しむように、風に切なく揺れていた。






 懐かしい匂いに包まれて、レフィスはゆっくりと目を覚ました。

 見覚えのある部屋だったが、意識がそれに付いていくには数分かかった。

 開け放たれた窓の向こうは穏やかな日差しが降り注ぎ、草花を揺らした風が部屋の中に少し冷たい空気を運んでくる。冬の始まりを告げる、木枯らしの匂いがした。


「あら? やっと起きたのね」


 声がした方を振り向くと、部屋の入り口に一人の女が立っている。女を見た瞬間、レフィスは一瞬だけ彼女を懐かしいと感じたが、なぜそう思ったのかは分からなかった。


「……お母さん……」


「何? まだ寝ぼけてるの? もうすぐお昼になるんだから、さっさと起きなさい」


「……うん」


 寝すぎたせいなのか、頭の中は靄がかかったようにはっきりとしない。

 ここはイスフィル。部屋で目覚めた自分。おかしい所は何もないのに、何かが欠けているような気がして気持ち悪い。冷たい水で顔でも洗えばすっきりするかと思ったが、身支度をして食卓に付いた後も、訳の分からない気持ち悪さはずっと付きまとったままだった。


「お母さん。……私、何してた?」


「寝てたわよ」


「違う! そうじゃなくて……」


 テーブルの上に置かれた紅茶のカップを覗きながら、レフィスは頭の隅にある「何か」に触れようとする。けれどそれを遮る霧は深く、指先すら掠めない。


「昨日夜更かしでもしたんじゃないの? 少し散歩にでも行ってきなさい。ついでに泉の水を汲んできて頂戴ね」


 そう言った母リシアの表情はどことなく切なげで、けれど下を向いたままのレフィスがそれに気付く事はなかった。




 泉のある森の奥は、村に比べて少しだけ温度が低い。

 透き通った水面を覗き込んだまま、水の湧く音に耳を傾ける。揺れ続ける水面に歪む姿は、今のあやふやな自分のようだと思った。

 ぶんっと頭を振って、泉の水を両手に掬うと、レフィスはその冷たい水を一気に飲み干した。体の中を流れていく冷たい水に、澱んだ気持ちを洗い流して欲しかった。


「……私……どうしたんだろ」


 ぽつりと声を零して、再び水面に目を落す。歪んだ自分の背後に、いつの間にか真紅の人影が立っていた。


「……っ!」


 驚いて振り返ったレフィスとは反対に、真紅の男は何も言わず、ただ黙ってレフィスを見下ろしている。

 赤い髪。赤い瞳。目を奪う鮮やかな色彩を纏う男を、レフィスはどこかで見たような気がしていた。


「……誰?」


 レフィスを見つめる男の表情は変わらない。けれど瞳がかすかに動き、そこに映るレフィスを探るように細められる。

 時間は一瞬だったか、或いはもっと長かったかもしれない。強く吹いた風が合図となり、黙ったままの男の唇が静かに動く。


「封じられたか」


 男の声音に、レフィスの胸がざわりと鳴った。

 聞いた事がある。耳の奥に、まだ残っている。けれど、知らない。

 男を見たような気がする。けれど、知らない。


 知っているのに、知らない。その相反する意識に体が震え、レフィスは無意識に両手を強く握り合わせた。その指に触れた硬い感触に目をやると、右手の薬指に赤い石の指輪が嵌めてあるのが見えた。

 一瞬、今までで一番強い胸の鼓動が鳴った。



『約束を守れなくてすまない』



 誰のものかも分からない声音が切ない色で響き、それはレフィスの視界を歪ませて熱い涙の雫を引き寄せる。

 涙の意味を、レフィスは知らない。

 溢れたいのに溢れられない思いが凝縮して、ただ一粒だけがレフィスの頬を流れて落ちていく。


 レフィスには、もう何も分からなかった。

 胸に澱む霧も、目の前の男も、指に嵌った指輪も、涙も。

 記憶はしっかりと閉じられ、レフィスはそれをこじ開ける術を持たない。

 ただ自分の中に響く、切ない声音に胸が締め付けられるだけだった。



 低い音を響かせて吹き抜ける風は、かすかに冬の匂いがした。

 深い雪に埋もれる大地のように、レフィスの記憶も、静かにゆっくりと埋もれていこうとしていた。

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