第42話 ジルクヴァイン王家
次に目を覚ますと、今まで見た事もない豪華な天蓋が見えた。
びっくりして起こそうとした体を横からやんわりと押し止められ、それにもびっくりしてレフィスが目を見開いたまま顔を横に向けた。
そこに、少しやつれた表情のユリシスがいた。
「……ユリシス……?」
そう名を紡ぐと、目の前の男がひどく優しく微笑んだ。
「気分はどうだ? どこか痛い所はないか?」
「うん……。大丈夫、みたい」
ゆっくりと体を起こそうとするのを手伝って、ユリシスがレフィスの背中に手を添える。少しふらつく視界を正そうと閉じた瞼を再び開くと、温かい湯気の立つグラスを手に持ったユリシスが瞳に映った。無言でグラスを手渡され、まだ戸惑いがちの表情を浮かべたままのレフィスが、無言の圧力に負けてゆっくりとグラスに口をつけた。
「苦っ!」
舌が痺れるほどの苦さに驚いて口を離したレフィスだったが、横から伸びたユリシスの手に導かれ、再びグラスを口元へ運ばれる。僅かに眉を顰めて抗議の眼差しを浮かべたレフィスを気にも留めず、ユリシスが諭すように声を落した。
「回復したいなら全部飲め」
「……っ!」
濃い緑色の液体を半ば無理矢理口に注がれ、レフィスの顔がこれ以上ないくらいに醜く歪む。顔をシーツに埋めたレフィスの耳に、かすかに笑うユリシスの声が届いた。
「何、笑ってるのよ……。ほんと、苦いんだからっ」
「心配させた罰だ。馬鹿が」
優しく頭を撫でられ、ゆっくりと顔をシーツから離して上体を起こしたレフィスに、ユリシスが果物を刺したフォークを差し出していた。
「食べろ。苦味が和らぐ」
「……ありがと」
手渡された果物を口に含むと、さっきの苦味を忘れるくらいの甘い果汁が口内一杯に広がった。小さな幸せを噛み締めて綻ぶ顔を優しく見つめながら、ユリシスが不意にレフィスの頬へ手を伸ばした。
「な、何?」
「……いや。……何でもない」
搾り出すように呟いて、ユリシスがレフィスから手を離す。消えていく温もりに寂しさを感じて、レフィスが少し慌てたように言葉を紡いだ。
「そ、そういえば、ここどこなの? イーヴィとライリは?」
「お前はどこまで覚えている?」
逆に問われ、レフィスは口を噤んだ。ぼんやりとした記憶の糸を見つけ、それをゆっくりと手繰り寄せると、胸元が鋭く痛んだ気がした。無意識に胸元に手を当てて、自分の鼓動を確かめる。
「……私……生きてる?」
「ああ」
しっかりとした声で肯定し、ユリシスがレフィスの手を強く握り締めた。
「お前が怪我をしてから、八日が過ぎた。ここはジルクヴァイン王家の住む王城だ」
「お城? 何で? 皆は?」
「イーヴィとライリはベルズに戻っている。お前はここで王家保護の下、怪我の治療をしていた」
「でもどうして王家の人が……?」
「依頼主は王立研究所の主任だ。任務に当たったお前を保護し、ついでに経緯を聞く為だろう。今は深く考えずに傷を癒せ」
有無を言わさない口調でそう言って、ユリシスがレフィスの体に手をかける。されるがまま再びベッドに横になったレフィスの額を撫でて、ユリシスがひどく優しい笑みを浮かべた。その笑みにかすかな不安を覚えたレフィスが声を発するより先に、ユリシスが静かに言葉を紡ぐ。
「お前が無事で本当に良かった。今は何も考えずに休め」
額から瞼までを撫でられると、不思議な事に急な眠気がレフィスを襲った。何か言おうと開きかけた口から声は漏れず、レフィスはそのまま再び深い眠りへと落ちていった。
静かに扉を閉めて部屋を出たユリシスを、廊下の向こうから呼び止める女の声がした。
振り返った先に、亜麻色の長い髪を結い上げた女が近付いてくるのが見える。身に纏う衣装から高貴な生まれだと言う事は一目瞭然だが、それに臆する事なくユリシスはいつもと同じように無表情のまま女が側に来るのを待っていた。
「目が覚めた?」
「ああ」
「カロンが調合した薬はよく効くのよ。体力も戻ってきているようだし、明日になればベッドから出られるようになるわ」
「すまない、ルージェス。色々と世話になった」
ルージェスと呼ばれた女が、レフィスの眠る部屋の扉から視線を外し、ユリシスを真っ直ぐに見つめ返した。
「十年ぶりかしらね。元気にしてた?」
「まぁな」
曖昧に返事をして歩き出したユリシスに続いて、遅れまいと足を速めたルージェスが、窓の外に見える庭園の片隅に佇む赤い人影を捉えて、静かに言葉を落した。
「先日、突然訪れたあなたの側近にも驚いたけれど……事態は思った以上に深刻そうね」
「近いうちにルナティルスは仕掛けてくるだろう。ルウェインとウルズ、そしてリアファルの三国家の結束と協力が鍵となる。とはいえ、自国が蒔いた種だ。暫くしたら、俺はルナティルスへ向かう」
「あなた一人で? あの子はどうするの?」
ルージェスの問いに答える間もなく、ユリシスは辿り着いた目的の部屋の前で一瞬立ち止まった。扉に手をかけてから、躊躇いがちにルージェスへ視線を移し、何も言わないまま部屋の中へと入って行ってしまった。
残されたルージェスは部屋の中に入る事を許されず、暫くの間ただ静かに目の前の扉を見つめているだけだった。
窓際に立つ男がひとり。腕を組んだまま、難しい顔をして窓の外を見つめている。
部屋の扉が開かれた事を察知して振り向いた瞳が、険しい色から旧友を招く優しい色に変化する。
「レオン、色々と世話になった」
「もういいのか? 連れの容態は?」
「おかげで回復に向かっている」
「そうか」
自分の事のように安心して顔を綻ばせたレオンが、ユリシスを窓際へと手招きする。広い庭園を見下ろした先、その一角に佇む赤い人影がユリシスの瞳に鮮やかに色を落した。
「十年前にお前が亡命してから、いつかはこんな日が来ると思っていたが……少しばかり予想と外れていてな」
「そうだろうな。……俺も、まさかこんな形でお前たち兄妹に再会するとは思っていなかった」
自身を嘲笑するかのように笑みを零し、ユリシスが硝子に映った自分自身を無意識に睨みつける。
「おおよそはお前の側近、ルヴァルドから聞いた。ルナティルスが第二の秘宝――ラカルの石を手に入れた事と、お前の存在がルナティルスに知られた事だ。他に何かあるか?」
「いや、それだけだ」
「お前が生きている事が分かれば、ルナティルスは今まで以上にお前と秘宝を手に入れようとするだろう。目的の為には手段を選ばない奴らだからな。だが暫くは手に入れたラカルの石の特性を掴む為に手一杯で、目立った動きはないだろうと思う。その間に我ら三国家は今後の対策を練る事になるだろうが……お前はどうするつもりだ?」
「……ルージェスにも言ったが、これは自国が蒔いた種だ。俺はルナティルスへ向かおうと思っている。ラカルの石をどう扱うか思案している隙を突いて、石ごと破壊出来れば良し。そう出来なくとも、多少なり打撃は与えられるだろうからな」
予想していた答えだったのか、特に驚く気配も見せず、レオンが窓の外からユリシスへと視線を向ける。目が合う事はなかったが、お互いの思いは口にせずとも通じたのか、やがてゆっくりと……どこかしら呆れたようにレオンが頷いた。
「まぁ、お前はブラッディ・ローズの継承者だからな。余計な心配はしていない。お前が戻ってくるまでの間、あの娘の事も王家の保護下に置いておこう」
「あいつは故郷の村へ連れて行く。この王都から北にあるイスフィルと言う辺境の村――古の白魔道士が作った村だ」
「イスフィルの出身か。分かった。村に戻った後も、様子を見に騎士たちをやろう」
「色々とすまない」
「礼はいらない。無事に戻ってくればそれでいい」
それだけ言って、レオンが拳をユリシスの肩にこつんとぶつける。再度重なり合った紫紺の瞳の奥に、揺ぎ無い確かな決意が宿っている事に気付いていたが、レオンはそれにあえて触れずに出立しようとする友を静かに見守るだけだった。
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