第40話 廻り始めた歯車
音もなく零れ落ち、知らぬ間に降り積もっていく雪は、まるで心に居座ったままの不安にも似ている。
夜の深い闇に明かりを落す雪の白と、毎夜消える事のない宿の一室に灯る仄かな明かり。温かさを感じるはずの優しい明かりに、言いようのない不安と悲しみを感じながら、宿の外から窓を見上げている影が二つあった。
「実を言うとさ、まだ混乱してるんだ」
窓の向こうを照らす明かりの中、僅かに揺らめく影を見つめながら、ライリが静かに言葉を落した。同じように窓を見上げていたイーヴィは、視線を隣のライリに戻して力なく頷く。
「そうね……。私もよ」
依頼は果たせず、代わりに仲間が傷を負った。離れていた二人に分からない事は多く、けれどその答えを教えてくれる者は、今はいない。
遺跡からノーウィの宿へ戻ったかと思うと、ユリシスはレフィスの側を離れず、部屋から一歩も出てこない。同じように、あの得体の知れない赤い髪の男も、部屋の隅にじっと佇んだままだ。取り急ぎギルドへ連絡はしたものの、レフィスが目覚めない今はまだ、ここを動く事は出来ない。
フィスラ遺跡の惨劇から、三日が経っていた。
「あいつ……何者だと思う?」
閉じた瞼の裏側に、鮮血の色を纏う男の姿を思い描く。滴る血のように赤く長い髪。深い闇色を混ぜたような、濃い赤に煌く双眸。その体から滲み出る膨大な魔力は、意図せず体を震えさせる。
軽く指を鳴らしただけで、崩壊する遺跡の中からイーヴィたち四人をあっという間にノーウィへと移動させた男のそれは、呪文詠唱のかけらもなく、まるで呼吸をするかのように自然に行われた。肌に感じる魔力は今まで感じた事もないくらいに強く、禍々しく、そしてこの世界のどこにも存在しない種族の力を思わせる。
その力の感覚を、イーヴィは少しだけ懐かしいと感じた。
「……敵ではないと思うわ。でも、確かな事は分からないわね」
「結局、あいつが目を覚ますのを待つしかないのか」
やりきれない思いを吐き出すように溜息をついて、ライリが再び二階の窓の明かりを見上げた。明かりに照らされて浮き出た影は、さっきと全く同じ姿のまま、まだそこにいた。
ランプの炎が揺れていた。
淡いオレンジの炎に照らされて眠る、血の気のないレフィスの顔を、ユリシスはもう何時間も見つめていた。無音にも似た空間に音を零すのは、ランプの燃えるかすかな焦げ付いた音と、虫の音よりも小さなレフィスの呼吸。ゆっくりと上下する胸元が命を繋ぎとめている事は分かっていたが、ユリシスはそれでもベッドの脇に置いた椅子の上から動こうとはしなかった。
「我が此処にいる。その女は死なない」
「分かっている」
「そうか。ならば、良い」
再び舞い戻る静寂の中、僅かに動いたのはユリシスだった。
背後の男へ振り返る事はなかったが、意識を少しだけレフィスから男へと移動させる。その僅かな変化に気付いて、男が再度ユリシスの背中を見つめた。
「……お前は、なぜ現われた」
「女が我を呼んだからだ」
「こいつは……そうと知らずに、お前と契約を交わした。だから、こいつはお前が何なのかを知らない。それがなぜ……お前を顕現化出来たんだ? 今のお前の姿を、俺は知らない。お前は石のままで、今まで使われてきたはずだ」
「――そうか。お前、ルーグヴィルドの者か」
それには答えず、ただ自分の欲しい答えを得る為だけにユリシスは沈黙する。そんなユリシスの背中を見つめる赤い瞳に感情はなく、男が興味もなさそうに窓の外へと目を向けた。
「命と同等の血を得る事で、我は真に目を覚ます。その女はラカルの石を目覚めさせると同時に、我をも呼び覚ました。最初の契約同様に、そうとは知らずにな」
「……ラカルの石」
レフィスの血によって封印を解かれ、リーオンが奪い去っていた小さな石。あれをそう呼ぶのだと理解はしても、ユリシスはあの石にもう何の興味もなかった。
「お前を呼ぶのは、俺のはずだった」
「契約は取り消せん。お前が望まぬとも、我の主はその女だ」
「結果的には、それで良かったのかもしれない」
男が視線を感じて顔を向けると、ユリシスが真っ直ぐにこちらを見つめていた。その深い紫紺の瞳の奥に、揺らぐ事のな強い思いが宿っている。
「お前はレフィスのブラッディ・ローズだ。何があってもこいつを守れ」
「我に命令するのか?」
「今のお前は、レフィスの血を得て顕現した人型だ。レフィスの血を共有する、いわば命を共にした存在……。こいつが死ねば、契約を交わしたお前もただでは済まない。違うか?」
「……」
無言を肯定と取り、ユリシスが更に強い眼差しで男を見つめ返した。赤い瞳、その色に血塗れのレフィスの姿が重なり合う。痛みなどないはずなのに、胸に鈍痛を覚えて、ユリシスの唇が僅かに歪んだ。
「……頼む」
声を絞り出すように言って、ユリシスが再び男に背を向けた。揺らめいた悲しみを隠すように一度だけ目を閉じて、脳裏に甦った血の惨劇を闇の彼方に閉じ込める。
ゆっくりと開いた瞳の先で、静かに、若草色の瞳を覆う瞼が開かれようとしていた。
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