第30話 白魔法発動?
「ねえ……やっぱり私じゃないと駄目なの?」
頼りない月光に照らされた薄暗い寝室。バルコニーへと続く大きな硝子の扉が少しだけ開かれ、そこからひんやりとする夜風がかすかに滑り込んでくる。夢へ誘うかのように不安定に揺らめく薄いレースのカーテンが、一度大きく翻った。
「まだ諦めてないの? 強情だね」
部屋の隅から、ライリの声が呆れた溜息と共に投げつけられた。
「だって……」
ベッドからむくりと上半身を起こしたレフィスが、部屋の四隅をぐるりと見回した。ランプを消した部屋の唯一の光源は、窓から差し込む月光だけ。完全に闇に閉ざされた部屋の四隅、そのひとつがゆらりと動いた。かと思うと、大股でベッドに歩み寄り、上半身を起こしたレフィスの体を強引に押し倒した。
「うがっ」
「大人しくしてろ。奴がいつ現われるか分からないんだぞ」
「……どうして私なのよ」
再びベッドに埋もれてしまったレフィスは、自分を見下ろすユリシスを思いっきり非難した眼で睨みつけて唇を尖らせた。
「お前が一番リュセルの体格に近い。それにお前の白魔法は有効だからな」
「でも怖いんだけど!」
「そういう状況で発動する魔法の方が効果も高いだろ? 手順を忘れるなよ。奴が現われたら、思いっきり引き付けてから拘束の呪文を唱えろ。分かったな」
何を言っても無駄だと悟ったのか、レフィスが最後にもう一度だけユリシスを睨んでから、シーツで顔をすっぽりと覆い隠した。
(ユリシスの馬鹿! 冷血漢! 皆いるって分かってても怖いんだからねっ)
心の中で思いっきりユリシスへの罵声を上げながら体を丸めたレフィスの側で、小さな溜息が聞こえた。まだそこにいるのかと思った瞬間、ユリシスの手がレフィスの頭に触れた。シーツ越しに感じる大きな手のひらが、遠慮がちにゆっくりと動いてレフィスの頭を撫でていく。
「心配するな。俺たちはすぐ側にいる」
吐息のように掠れた声が、耳のすぐ側でしたような気がした。それくらい近くに、声が聞こえた。一瞬硬直したレフィスの体が元通りになる頃には、もうユリシスは部屋の隅へと姿を隠した後だった。
少しだけシーツの下から顔を覗かせたレフィスだったが、かすかに期待した人影はもうその瞳には映らなかった。
窓枠の向こうに消えた月と共に部屋を照らしていた唯一の光源が消え、侵食するかのように夜の闇が部屋をすっぽりと覆い隠した。
規則正しく時を刻む時計の針が、暗闇に支配された室内に乾いた音を落していく。それに重なって聞こえたもうひとつの音は、室内を覆う闇に漂うようにゆったりと静かに響いていた。
「……怖いとか言ってなかった?」
部屋の隅から聞こえた声音に、呆れた溜息が同調する。
「さすが石女。この状況で、しかも僅か数十分で熟睡できるなんて、ある意味尊敬するよ」
闇が視界を遮っていなければ、きっとライリは肩を竦めて思いっきり呆れた視線をレフィスに向けていた事だろう。
「あの馬鹿」
ライリの溜息に釣られたのか、さすがのユリシスも盛大な溜息を隠そうとはしない。
レフィスの眠るベッドの下には、予め未完成の魔法陣が描かれている。敵がそこに足を踏み入れると同時に、魔法陣を完成させる事がレフィスの役目だ。それなのに肝心のレフィスが眠っていては元も子もない。
「おい、レフィス」
響かないよう小さな声で名を呼んで、ユリシスがレフィスの眠るベッド脇へと歩を進めた。
「寝るな、馬鹿」
ユリシスの手がシーツに触れると同時に、まるでそれを合図にでもしたかのように、漆黒の部屋で幾つかの出来事がほぼ一斉に動き出した。
まず始めに、レフィスが勢いよく飛び起きた。ユリシスの手を感じたからではなく、バルコニーへ続く大きな硝子の扉が外側から派手に吹き飛ばされたからだ。
床に散乱した硝子の破片を躊躇う事なく踏み潰して侵入を果たしたそれは、巨体をゆっくりと曲げて、大きな角の生えた頭部をレフィスの眠るベッドの方へと近付ける。人ではない影が、闇夜の中にくっきりと浮かび上がっていた。
そして、それとほぼ同時に、闇を吹き飛ばす白い光が炸裂した。ベッドの下で、光の尾を引きながら形を成す魔法陣。敵を捕らえる為に発動された術の光が消える頃には、肩の荷を降ろしたレフィスが安堵の溜息をついている……はずだった。
現われた魔族。魔法陣の発動。舞い戻る闇。
そして。
「……こっ……の、馬鹿が!」
呻くように響く声がひとつ。それはベッドに突っ伏したまま、レフィスを恨めしげに睨んでいた。
「あ……あれ? ユリシス? 何で?」
「俺に拘束の呪文をかけてどうするっ! 早く解けっ!」
思った以上に拘束の魔法が効いているのか、ユリシスはまるで金縛りにでもあったかのように硬直させた体をベッドの上に無防備に投げ出している。その側では、未だ事態を把握出来ていないレフィスが疑問符を浮かべながらユリシスを見下ろしていた。
「いいから早く解除しろ! まだ奴が……っ」
言い終わらないうちに、ユリシスの目の前でレフィスの体が宙に浮いた。
「ひゃあっ!」
「……ゆ、びわ……ブラッ……ディ……ロー、ズ」
くぐもった声がユリシスのすぐ真上に聞こえた。目の前でレフィスを攫われたと言うのに、ユリシスの体は一向に動かない。レフィスの白魔法についてはユリシスも一目置いてはいたが、今この状況下では、その白魔法がこの世の何よりも憎むべきものに感じてしまう。
「早く解けっ!」
「待って。今……」
その先に続く言葉が、ユリシスから急速に遠ざかって行く。風を切る音で、敵が空を飛んで逃げて行った事を知り、ユリシスが憎々しげに舌打ちする。ぎりっと強く噛み締めた唇に、僅かな血の味がした。
「……何て言ったらいいのか……ごめん、ユリシス。僕、言葉が見つからないよ」
明らかに笑いを堪えながら近寄ったライリに、ユリシスが呆れとも怒りとも付かない声でか細く呟いた。
「……何も言うな」
「不幸が重なっちゃったわね」
レフィスが攫われたこの状況の中にあっても、イーヴィはいつもと変わらない様子でくすりと笑みまで零してみせた。
「何も心配する事はないわ、ユリシス」
「心配ないって言っても、あいつ、石女抱えて飛んでったよ? 空でも飛べない限り、今から行っても追いつけるとは思えないけど?」
「大丈夫よ。だって私、今は男に戻ってるし」
男の姿なのに柔らかく微笑んで、あろう事か人差し指を頬に当てて可愛らしく首まで傾げている。
「意味が分からないんだけど」
「呪いによって押さえ込まれてた力が、有り余ってるって感じかしら?」
胡散臭げなライリと、眉間に皺を寄せて視線だけ向けたユリシスに終始笑顔で答えて、イーヴィが優雅な足取りで窓の破壊されたバルコニーへと歩いていく。
一歩進む度に、イーヴィの纏う魔力が桁違いに膨れ上がっていくのを、二人は肌で直接感じていた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるから」
買い物にでも行くかのように軽く言ったかと思うと、次の瞬間にはもうイーヴィの姿は二人の視界から完全に消え去っていた。
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