第20話 過去を溶かす熱
こんなにも憎しみに満ちた瞳を、見た事はなかった。
「遅くなっちゃったね。皆、心配してるかも」
言葉とは裏腹に、少女は傍らにいる少年へ笑いかけた。その笑みの意味を理解できずに、少年がかすかに目を細めた。
「怒られるのは慣れてる」
「でも今日は大丈夫だよ。だって私を助けてくれたじゃない」
「あれは……よく覚えてないよ。君が死ぬって思ったら、何か大きなものが僕の中で弾けた感じがしただけ。気が付いたら、魔物が死んでた」
声小さく呟いた少年が、少し前の出来事を思い出して唇を噛み締めた。あの得体の知れない大きな力の中に、少年は初めて触れる黒いものを感じた。その黒に呑み込まれないようにぎゅっと握り締めた拳が、少女の温かい手のひらに包まれる。
「ありがとう、ライリ」
「……」
「私、皆にちゃんと言うからね。ライリは私を助けてくれたって。魔物も簡単にやっつけたって。そうすれば、皆きっと分かってくれる。自分たちが間違ってたって分かってくれるよ」
そう簡単に大人たちが自分を認めてくれるとは思わなかったけれど、今はそれでもいいと思った。握り返してくる小さな手のひらの温度が心地良かったから。無邪気に笑う少女が、とても温かかったから。
その優しい瞳が、恐怖に震えて泣き叫ぶなど……思いもしなかったのだから。
窓の向こうに見える空が、少しずつ茜色に染まっていく。優しい青が鮮やかな赤に侵食されていく様は、まるで心に思い描いた深閑の森のようだった。
誰も味方のいなかった幼い頃、震えて泣くライリの手を優しく握り締めてくれた小さな手のひら。今でも鮮明に思い出されるその熱が、夕日に染まる空のように赤い瘴気の渦に呑み込まれて消えていく。
『私、知ってるもの。ライリが優しいって』
閉鎖された森で、忌むべき存在として蔑まれてきた。それでも、たった一人でも自分を信じてくれる人がいるという事は、声を殺して泣くだけだったライリにとって唯一の光だった。たった一つの心の支えだった。
『どうして皆でライリを苛めるの! ライリは魔物から私を助けてくれたんだよ!』
あの夜、仲間の誰一人として持ち得ない力で魔物を倒したライリを、大人たちは驚愕と恐怖に満ちた瞳で凝視した。その瞳に宿る確かな殺意を、ライリは今でも忘れはしない。
『もしかしたらと思ったが、やっぱり無理だったか』
『所詮は魔族の子。死んだ母親の腹を破って生れ落ちた悪魔だ』
一番近くにあった、ライリを支える唯一の熱が引き剥がされる。初めて何かを求め、手を伸ばしたライリを拒むように、少年と少女の間に冷たい大人の壁が立ちはだかった。
『村を出て行け。お前は私たちと共に歩める存在ではないのだ』
『手荒な事はしたくない』
冷たい壁の向こうに、矢を番える人影を見た。目が合った瞬間、幼い少年に恐怖した男の手から、一本の矢がライリに向かって放たれる。
その矢は、これから起こる惨劇の幕開けを告げる合図となってしまった。
魔物から少女を助けた時と同じような、体のずっと深い所から膨れ上がる黒い力の渦。少年の小さな体では到底支えきる事の出来ない巨大な力は、やがて行き場を失い、周囲にあるすべてのものを巻き込んで爆発した。
ずっと遠くの方で、大人たちの悲鳴が聞こえる。木々のなぎ倒される音や、激しい地割れの音を覆い隠すように、ぼんやりとした少年の視界が色鮮やかな真紅に染め上げられていく。嫌な匂いが、つんと鼻腔を突いた。
――僕はただ……皆に認めてもらいたかっただけなのに。
赤い闇の中逃げ惑う人の渦に、少女がいた。
無邪気な笑みを浮かべていた顔は恐怖に引きつり、見開いた瞳から大粒の涙が零れ落ちている。その瞳に、もうあの頃のような温もりはかけらもなかった。
『うわああぁぁぁっ!』
びくんと大きく体が震えた。
遠い過去に叫んだ悲鳴が、ライリの体の中で木霊している。内から響く絶叫を追い払おうと頭を振ったライリだったが、声はなかなか消えてはくれない。それどころか、幼い声は徐々に今の自分の声に重なっていくような気がした。
叫んでいるのは幼い自分なのか、それとも今の自分なのか。
「……っ」
唇を強く噛み締めて、握り締めた拳を壁に叩きつける。
「もう忘れたいんだっ」
誰に言うわけでもなく、苦しげに叫んだ。
幼少の自分。深閑の森での惨劇。そして初めて知った、自分の出生の秘密。暗い過去を胸の奥に閉じ込めて、もう誰にも触れられないように毒の棘を自身に絡めた。そうすれば安易に誰も自分には近寄らない。胸の深い所までは、誰も入っては来れない。
それなのに、彼にとって飾りでしかなかった仲間は、断りもなく土足でずかずかと心の奥にまで入り込もうとした。必死に隠してきた闇を暴こうとする。知ってしまえば、きっと彼から離れてしまうだろう。それが……そう、怖かったのだ。
飾りでしかなかった仲間と言う場所が、いつしかライリにとって居心地の良い場所になっていた。
(……二度も、失いたくない)
窓ガラスに映った自分から目を背けて俯くと同時に、部屋の扉がノックもなく豪快に開いた。
「しけた面してるな、ライリ」
いつもの太い声音でそう言ったフレズヴェールが、ライリを見てかすかに笑った。
「ノックもなく人の部屋に上がり込んで、開口一番言う事はそれ?」
「お、それだけ言えりゃぁ十分だな。……結論、出たんだろ?」
何がと言う前に先手を打たれ、ライリが開きかけた口を静かに閉じる。
「俺はレフィスをお前さんたちの仲間にして良かったと思ってる」
「……おせっかいで無鉄砲で煩いだけだ」
「確かにな。本気で怒ってるお前さんに、あれだけ啖呵切れる人間も珍しい。……まぁ、それだけお前さんが大事なんだよ」
「……」
ライリに向けられた視線から、かすかな笑みが消える。いつになく真面目な表情を浮かべたフレズヴェールを直視出来ずに、ライリがゆっくりと逃げるように視線を逸らした。
「ライリ。今行かないと、お前は本当にすべてを失うぞ。忘れたい過去も、手放したくない今もだ。……そしてそれを、誰一人として望んじゃいない」
「……」
「後押しが必要か?」
「僕は……」
一言一言噛み締めるように呟かれた言葉は、次の瞬間どこからともなく降って湧いた悲鳴によって掻き消されてしまった。
「きゃあっ!」
短い悲鳴と共にライリの頭上に影が落ちたかと思うと、それは重力に従って素直にライリを巻き込みながら落下した。
「げふぅ!」
潰れた呻き声を上げながら上半身を起こしたのは、今ここにいるはずのないレフィスだった。
「レフィス? お前さん、ユリシスたちと一緒に行ったんじゃないのか? って、そもそも何でライリの真上から降ってくるんだ?」
「あれ……マスター? 何で? 私たしか魔物に食べられそうになって……」
ついさっきの事を思い出そうと思案するレフィスから、透明に光る小さな石が転がり落ちる。それを拾い上げたフレズヴェールが、納得したように「あぁ」と短く声を上げて頷いた。
「転送石か。随分高価なもの持ってたんだな、レフィス。おかげで命拾いしたわけだが」
「転送石? あぁ、ライリをナンパした男たちが落して……って言うか、ライリは? 私とっさにライリを思い浮かべたからここに飛ばされたと思うんだけど!」
「……人を下敷きにしたままだってのに、よく動く口だね」
「うぉっ、ライリ?」
柔らかい絨毯だと思っていたものが突然喋りだした事に驚いて身を退いたレフィスを一瞥して、ライリが呆れたように深く長い溜息をついた。
「そこまで鈍いと賞賛したくなるね」
「今は私の事はいいの! それよりライリ、一緒に深閑の森へ来て頂戴。ユリシスたちが危ないの! あんな山みたいな魔物、一撃で倒せって言う方が無理よ」
「……本当に、君の頭はどこまでもおめでたく出来てるんだね」
「どうして? 仲間を……大切な人を助けたいって思う事は当然だわ。ライリもそう思ってるって、私今でも信じてるんだけど、違うの?」
一転の曇りもない瞳を向けられて、逆にライリの方が戸惑いがちに目を伏せる。
「……昔、同じような事を言って……僕から離れていった人がいた」
「そっか。だからライリ、ずっと寂しかったんだね」
「……っ!」
呆気に取られるほど簡単に核心を突いた言葉を、事もあろうかレフィスの口から聞いたライリが、反論しようと勢いよく顔を上げた。その先にあったのは、幼い頃自分が支えにしてきた優しい熱に似た微笑だった。
「でも、今は子供の頃じゃないもの。私はライリをずっと仲間だと思ってるし、それはユリシスやイーヴィだってそう。大切な仲間を傷付ける人は許しがたいけど、黙って見捨てるほど心は堕ちてないつもり。ライリだってそうでしょう?」
「口では何とでも言える。本当の事を知ったら、きっと僕を疎んじるはずだ」
「それがライリの本心なの?」
向かい合ったままのレフィスが、一呼吸置いてふわりと笑った。
「何で笑うんだよ」
「だって嬉しいんだもの。それってライリ、私たちを仲間だと思ってくれてるって事でしょ? 良かった。それじゃあ、今すぐ森へ行きましょう!」
「だから何でそうなるんだ! 大体僕は……」
「ライリの事、聞いたの」
見て分かるほど、ライリの体がぎくんと震えた。それまで騒がしかった舌も凍ったように固まり、唯一動く目を思いっきり見開いて、ライリは驚愕に満ちた表情を浮かべてレフィスを凝視した。
「それでも私たち、ライリを仲間じゃないなんて思わなかったわ。私がここにいる事が証拠にはならない?」
「……」
何も言えずに固まったままのライリの手をそっと握り締めて、レフィスがライリを真っ直ぐに見つめる。手のひらから伝わる熱は幼い頃のそれと全く同じで、ライリは胸の奥がかすかに色を取り戻した事を認めざるを得なかった。
「仲間としてお願いするわ。ライリ、お願い。皆を助けて。今それが出来るのはライリしかいないの」
「……」
「報酬としてレグレスを一発殴る事を許すわ。それでも駄目?」
なかなか返事が来ない事に業を煮やしたレフィスが思わず付け足した言葉に、ライリが小さく声を漏らしてかすかに笑った。
長い間分厚い氷に覆われていた心の扉が、ゆっくりと解け始めた瞬間だった。
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