第3話 ファーストキス

 どおんっと派手な轟音が、静かな古城に不似合いな旋律を響かせていた。その合間から辛うじて聞き取れる悲鳴のような音が、薄暗い廊下の向こうから転がり込んでくる。長く尾を引く絶叫は、最早叫びなのか呪文なのか分からない勢いで壁にぶつかり、やっと一時だけ途切れた。


「……っはぁ……何なのよ、あいつ!」


 肩を揺らしてぜいぜいと苦しく呼吸を繰り返したレフィスが、壁に寄りかかりながら自分が走ってきた方向へ目を向ける。炎を灯していても役割を全く果たしていないランプが、廊下の奥から順番にぱりん、ぱりんと割れてくるのを見て、レフィスの顔が再び奇妙に引きつった。


「うわっ。もう来たの? 何、あのタフさ! 信じらんないっ」


 苦しく熱を持つ胸を押さえて、再度走り出したレフィスの背中めがけて、廊下の奥から一頭の獅子が飛び掛ってきた。あと少しで首をもがれそうになったレフィスだったが、もつれた足が幸いしたのか数歩進んだ所で転び、まさに奇跡の一瞬で難を逃れた。


「ったぁ……」


 転んだ拍子にぶつけた鼻を押さえながら体を起こしたレフィスの前に、彼女を飛び越した獅子が鋭く尖った牙を剥き出しにしてこちらを振り返る。

 体は獅子だが尻尾は蛇。おまけに顔が六つもある。重くはないのだろうかと余計な心配をしていたレフィスだったが、その巨体には不似合いなほど素早く走る獅子に、二階から三階の端まで追いかけられて来た。見た目で判断するなと言う事を、レフィスは肝に銘じたのだった。


「言っとくけど、私はおいしいわよ。でもあんたみたいな魔物に食わせてやれる余計なお肉はついてないの! 残念でした!」


 自信満々に叫んで、レフィスが肩に提げていた布袋から手当たり次第掴んだものを獅子に向かって投げ始めた。滝のように涎を垂らす獅子に向かって投げられたのは、手のひらに包み込めるくらいの小さな硝子玉で、それぞれが赤や緑、青といった違う色をしていた。

 見た目には玩具のような小さな硝子玉だが、獅子にぶつかると同時に炎を吹いたり水をかけたり突風を起こしたりと、一つ一つが属性の違う魔法攻撃をしかけたのだ。攻撃面では決して強くはないが、多少油断していた獅子も面食らって僅かばかり後退する。その隙に廊下を反対方向に走り出したレフィスの後ろで、明らかに怒っているであろう獅子の猛り声が響いてきた。


「ほんっとしつこいんだから。少し休ませてよ……」


 続く廊下の先を無視して、レフィスは右に曲がった。この先の階段を下れば城の入り口に戻れる。入り口の左手にある小部屋まで行けば、少しは休めるはずだ。そこはレフィスが城に足を踏み入れた際に、簡単な結界を施して休憩所にした場所である。身を守る魔法の類なら死ぬほど勉強した。ちょっとやそっとの攻撃では崩れないだろう。いや、そう願おう。


 淡い期待を胸に、レフィスが階段に足をかけたその時。本当に考えもしないスピードで、獅子の魔物がレフィスめがけて飛び掛ってきたのだ。スピードもさる事ながらその跳躍力も反則的で、ゆうに十メートルはあろうかと思われる距離を楽々と高々に飛び越えてきたのである。六つある顔はどれもレフィスを睨んでいて、それぞれに開かれた口からは洪水並みの涎が滴り落ちていた。


「嘘っ! や、ちょっと待って……」


 階段を下りようと傾いた体のまま、目だけを向けたレフィスの頭上に、獅子の巨大な影が落ちる。吐き出される生臭い息が間近に感じられた、その瞬間。


「伏せろっ!」


 突然聞こえた言葉を認識するより先に、レフィスの体がぐらりと傾いた。声に従った訳ではなく、ただ階段を踏み外した為だったが、結果としてそれはレフィスが助かる道となった。

 揺らぐ視界の隅で、風が空を切るのを見た。次いで聞こえた絶叫に、その風の刃が魔物の命を奪った事を知る。踏み外して投げ出された足先で、魔物の体がどさりと崩れ落ちる。


「……っ!」


 声の出ない悲鳴を上げて階段を勢いよく転がり落ちたレフィスの視界が、一瞬だけ黒に染まった。かと思うと、周りの景色とその黒を巻き込んだまま、ごろごろがたがたとレフィスの体は重力に従って階段の一番下まで落下した。


 ごいんっとぶつけた頭が揺れた拍子に、何か柔らかなものが唇に触れた。痛みばかりの体に伝わるその感触に驚いて目を開けたレフィスのすぐ前に、どこかで見た事のある綺麗な顔があった。息すらかかる距離、目の前と言うか、最早顔と顔がくっついた状態に、レフィスが体の痛みも忘れて弾かれたように体を引き剥がした。


「……いぁっ!」


 意味不明な呻きと共に、レフィスがギルドで会ったあの男を下敷きにしたまま自身の口元を手のひらで覆った。先程の柔らかい感触は、どうやらそう言う事らしい。


「重い。どけ」


 僅かに頬を染めて言葉をなくすレフィスとは反対に、金髪の男は何事もなかったかのように平然とレフィスを見上げている。そのあまりの普通さに少しばかり不愉快になったレフィスが、頬から赤みを消して下敷きにしている男を睨みつけた。


「女性に対して重いとは何よっ。それにその平然さがむかつくわ。私のファーストキスどうしてくれるのよ!」


「あれが?」


「あれがって何よ! 大切に取ってたのにあれ呼ばわりなんて酷いわ。鬼! 悪魔! 人でなし!」


「そんなに怒るほどの事でもないだろ。大体キスって言うのは……」


 無表情のまま伸びてきた手に頬を触れられ、反射的にレフィスが身を引いた。それに合わせるようにして男が体を起こし、結果的にレフィスは男の上から転がり落ちる羽目となった。

 先程と同じく何事もなかったように立ち上がり服の乱れを整える男に、レフィスは自分が上手い具合に騙されて体をどかされた事を知り、この上なく恥ずかしい気持ちになる。羞恥心なのか憤りなのか顔を真っ赤にさせて睨み付けた瞳が、男の紫紺の瞳と重なり合う。


「騙したわね! 乙女心を弄ぶなんて卑怯よ!」


「騙してなんかない。大体あれはキスなんてものじゃなかったし、お前がキスされると思って体をどけたのも俺の所為じゃない」


「キスキス連呼しないでよ!」


「それとも、して欲しかったのか?」


 さらりと真顔で言われた言葉に、さすがのレフィスも声をなくして立ち尽くす。顔は変わらず真っ赤に染めたまま、睨みつけていた瞳も鋭さをなくし、どうしていいのか戸惑う少女が一瞬にしてそこに現われた。


「そっ、そんな事ないわ! 私にはちゃんと将来を約束した相手がいるんだから」


「物好きな奴もいるものだな」


 ぽつりと言って、男が投げ出されたままだった剣を拾い上げる。そしてレフィスを置いたまま、ひとり階段を上り始めた。


「ちょっと待って。どこ行くの?」


「この城に巣食っていた雑魚は今ので全部倒した」


 真っ二つに引き裂かれ、その残骸を階段に残したまま動かない獅子を一瞥して、男がやっと階下に立ち尽くすレフィスを見下ろした。


「こいつらを操っていた奴がいるはずだ。お前はその結界を張った部屋にでも隠れてろ。攻撃力は皆無だが、その結界は大丈夫だろう」


 それだけ言って再び歩き出した男を暫く呆然と見ていたレフィスだったが、やがて思い出したのかはっと顔を上げて慌てて男の後を追いかけた。


「駄目、待って! ここは私がやらなくちゃ駄目なの!」


「お前には無理だ」


「無理でも何でもやるの! ここは私が受けた依頼なんだから」


「馬鹿か、お前」


 それ以上何を言っても無駄だと悟った男が、呆れたように溜息をついて歩き出す。歩幅が違う二人が離れるのは当たり前だが、それを縮めようともしない男は、最早レフィスを無視しようと決めたらしい。一度も振り返る事なく、自分のペースでどんどん城の奥へと進んでいった。


「私、絶対冒険者になるの。そしてユーリを探すんだから」


 自分自身を奮い立たせる為に呟かれた言葉は、先を行く男の足を一瞬止めたが、レフィスはそれに気付かないまま男の後を走って追いかけていった。

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