高原の夢-5

「ねぇ、今日はわたくしも一緒に行っていい?」

 長い髪をエリンに預けて朝の身支度をしつつ、アーシュラが言った。

「構いませんが、今日はお休みになったほうが良いのでは?」

 昨日の夕方、ゲオルグが一足先にミラノへと帰っていった。皇女と交わした例の約束について、家族に報告するためだ。

「大丈夫よ、今日もとっても気分がいいし」

 アーシュラは幸せそうに言う。

 二人が結婚を決めたことを聞かされたのは、ゲオルグが帰る前の日のことだ。

 主がいつかそれを言い出すだろう、ということは予想していた。彼女が望むなら、エリンに反対する道理は無い。実際、そのことに対して特に感慨めいたものは抱かなかった。

 けれど、実際に彼女が彼を伴侶とするためにはまず、アドルフの承認を得なければいけない。

 アドルフがそれを認めるだろうか。アーシュラは自信があるようだったけれど、エリンにはとても、心配なことに思えた。

「……カルサス様がお帰りになって、お暇なのですね」

 エリンが意地悪を言うと、アーシュラは小さく笑う。

「わたくし、そんなゆとりは無いのよ。アルプスを見に行きたいの。あと、リュシエンヌに会いたいし。彼女、お料理がとても上手で、羨ましいの。教えてもらう約束をしているのよ」

 彼女はいつの間にかセルジュだけでなく、その妻リュシエンヌとも大変な仲良しになっていた。

「あなたがそういった方面の才能が無いことは、もうカルサス様にもばれているでしょうに」

「うるさいわね。リュシエンヌに教えてもらえば、きっと見違えるほど上手になるわ。ゲオルグもびっくり仰天なのよ」

 彼女たちを一瞬で親友同然の間柄へと結びつけた共通点が、お互い癒えぬ病を養って生きているという事実であったことを、この時のエリンはまだ知らない。




「うわぁ、遠いのに本当に大きいわね」

 カスタニエの屋敷へ向かう道を少し遠回りして、見晴らしの良い遊歩道を通る。そこは切り立った断崖の脇を通る道で、小さな足で頼りなく歩くアーシュラの足取りは危なっかしい。

「山など毎日見ておられたではありませんか」

 思わず彼女の腕を掴んで、エリンが言う。

「ゲオルグとは毎日お花畑へ行っていたから、この辺りには来なかったんだもの」

「……なるほど」

「何が?」

「山よりも花に興味があるように見られたかったと」

「……悪い?」

「いいえ。確かにあのような山は、アヴァロン城に居ては見られないものですし」

「そうね。それに、もう二度と見られないかもしれないし」

 アーシュラは上機嫌のまま、歌うように不吉な言葉を口にする。悪い冗談だと、咎めるように睨むエリンに、少女は彼女らしい強気な笑顔を見せた

「本当に、人間なんて嫌ね、ひ弱で。わたくしは、千年でも、二千年でも、ずうっと未来まで生きて、もっと色々なものを見ていたいのに」

「……二千年も生きるなら、周囲の者はみんな先に死んでしまいますが」

「構わないわよ。わたくしは、あの山のように強く大きく、揺るぎないものになって、ゲオルグも、お前のことだって看取ってあげるわ」

「……無茶を仰らないで下さい」

「ふふふ、希望の話よ。本当のわたくしは、お花畑のナルサスよりもあっけなく死んでしまうの」

「アーシュラ。そういう冗談はやめてください!」

「怒らないでよ、例えばの話じゃない」

「あなたは死にません。私が守るのですから」

「……そうね」

 必死になる剣に、アーシュラは少し切なげに息をつく。輝く雪を戴く絶景のアルプスは、二人の居る場所からあまりに遠く見えた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る