高原の夢-2
眺めの良い草原に向かって作られた広いウッドデッキに、少し古びた木製のテーブルセット。運ばれてきたお茶やケーキが、自分をもてなすためのものであることが、全く奇妙なもののように感じられる。
「甘いものは、口に合わなかったか?」
苺が隙間なく敷き詰められたタルトをしげしげと見つめていたエリンに、セルジュが心配そうに言った。
「えっ」
「苦手だったら、別のものを――」
「そんなことは!」
思わず声が大きくなってしまった。全く、後で迎えに来るからと言い残してアーシュラはゲオルグと遊びに行ってしまったけれど、大丈夫だろうか。ここに来るまでに随分疲れていたはずだから心配だ。
というかどうして自分がここで、まるで客人のように歓待を受けることになっているのだろう。そんな資格は無いのに。
こんな時何かを言わなければならないのか、何を言えばいいのか、さっぱり分からない。エリンはただ座り慣れない椅子で縮こまって、途方に暮れるしか無かった。
「……すまないな」
「えっ……」
勧められるまま椅子に座って、ほとんど微動だにせずじっと下を向いている弟の様子を見かねたらしい、セルジュの申し訳無さそうな声に、エリンはようやく兄の方を向いた。
「殿下はああ仰っていたけれど……迷惑だっただろう。本当にすまない。私と会うはめになるなんて」
「……そんな、ことは、ありません」
「エリン?」
エリンはしどろもどろで続ける。
「その……私には、このようなもてなしは、過分のものです。あ……兄上が、私などを気にされることは、ありません」
セルジュの罪悪感をエリンは知るよしもなかったけれど、目の前の兄が自分に詫びる必要がないことは明白だ。それを伝えたくて口を開いたが、セルジュはますます悲しそうな顔でエリンを見つめた。
「私が……私が、お前のことが気にならないはずがないのだよ、エリン」
苦しげに言葉を選んで、セルジュは続ける。
「ずっと……気になっていたんだ。お前は本当に小さかったし、私は……」
家族のことは記憶にあった。最初の頃は、母がいつ迎えに来ても分かるようにと、何度も何度も忘れないように思い返した。だから、幼かった割には色々なことを思い出すことができるのだ。母や乳母、父や――もちろん、兄のことも。
「兄上……は、私のことを、憶えておいでで?」
意外そうに言うエリンに、セルジュは驚いたように首を振る。
「当たり前だろう。忘れたことはないし……私でなくても、カスタニエ家にお前を忘れた者なんて……いない」
「兄上……」
もうずっとずっと長い間、会いたいなんて思ったことがなかったから、兄もそうなのだと思っていた。家族がいたことを忘れはしないけれど、あの城から居なくなった自分のことは、忘れてくれて良いのだと思っていた。
最後に見た母の顔は泣き顔だった。母がずっとあのまま悲しんでいるような気がして怖かった。だから、忘れていてほしいと願ったのに。兄が自分のことを忘れていなかったということは、つまり――
「ちちうえ!」
エリンの思考を遮るように、元気の良い、幼い声が響いた。
「!?」
デッキを踏む軽い足音がして、見知らぬ子供がこちらへやって来る。セルジュは少し面食らった様子で、その子の頭に手を置く。
「ロディス、母上に本を読んでもらうのではなかったのか」
「おきゃくさまに、ごあいさつ……って……」
言って、ロディスと呼ばれた少年はエリンを見た。まっすぐと、射るようにこちらを見る大きな瞳は、その幼さゆえハッととするほど瑞々しい。エリンには子供の年齢はよくわからないので、見ただけではこの子が何歳くらいなのかよくわからないけれど、兄のことを父と呼んだことには気付いた。
「……では、ご挨拶をしなさい」
「はい」
きっと、父親のことが好きなのだろう。嬉しそうに返事をして、少し緊張した様子でエリンに向き直る。そして、大人のように胸に手をあて、頭を下げた。
「ロディス・カスタニエともうします。おめにかかれてこうえいです」
「騒がせてすまない。息子なんだ」
「いえ……」
知らず、エリンは微笑んでいた。席を立って利発そうな甥の傍らに膝をつく。
「エリン・グレイと申します。ロディス様は、おいくつになられましたか?」
「ごさいです」
「……立派にご成長なさいました」
いなくなった自分の存在がカスタニエ家の幸せに影を落としたことがあったかもしれないと考えるのは辛い。だから兄に子がいて、両親に孫がいるのだということは、喜ばしいことに思えた。
「エリン。その……ここにはいつまで滞在を?」
遠慮するような兄の言葉に、エリンは振り返る。
「……六月の末までは、殿下がこちらにおられますので」
「そうか」
セルジュは一瞬迷うように目を泳がせ、それからロディスを抱き上げながら言った。
「……もしお前さえ迷惑でなければ、いつでもいい。また……来てくれないか。私たちも、夏が終わるまでここに居るから」
兄の言葉はどことなく切実な響きをはらんでいて、その心の内はわからないのに、なぜだか胸が痛む。エリンは断れずに黙り込んだ。
兄に会いたくないわけではないけれど、会えることを嬉しく思ってしまうのは恐ろしい。けれど。
「……殿下のお許しがあれば」
つい、そう答えてしまった。
――アーシュラは、許すに決まっているのに。
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