岩田屋葛藤憚 その① ~俺がそばで見ててやるから~
郷倉四季
2013年【守田】01 教訓――人は根本的なところで、人間に対して冷たい
1
たぬき、狸、タヌキ――
四階にある三年二組の教室から、一階の渡り廊下に移動するまでの間に、守田裕は『TANUKI』という言葉を何度も耳にした。
どうやら、校舎の中に狸が入ってきたらしい。
岩田屋高校では、そんなしょうもない話題で持ちきりだ。
別に騒ぐようなことではない。槻本山のお膝元ともいえる田舎の高校だ。狸ぐらい一度や二度は見たことがあるだろう。
どうせ紛れこむならば、もっとレアなものがいい。
守田的に興奮するのは、全裸の美女の徘徊だ。
さすがに、チンピラの中谷勇次でも、全裸の美女がいたら、テンションを上げるだろう。
もっとも、奴の場合はUMAがいたほうが喜びそうでもあるが。
渡り廊下の自販機に十円玉を投入しながら、守田は噂の狸を発見する。
ベンチに腰掛けている女子たちに、狸は餌付けされている。
「チョーかわいい」「もぐもぐもぐもぐ食べてる」「きゃー。もふもふしてるんですけど」「うんうん。人懐っこいよね、このコ」
迷子の動物を可愛がることで、彼女たちは自分たちの魅力が上がることを知っている。
だが、それは女子だけでなく男子にも使えるテクニックだ。
守田のように、茶髪で耳にピアスを開けているようなチンピラならば、更に効果が倍増するのは必至。
その狸、利用価値がある。
うまくいけば、毎晩、守田は銀縁眼鏡を外す機会に恵まれ、色んな女の胸を揉めるかもしれない。
揉むだけで飽きたらず、狸の尻尾のように反り返ったイチモツを胸に挟んでもらって、それから、それから。
女子の一人が狸を抱きかかえた。
パニック映画のエキストラのように、彼女たちは渡り廊下から全速力で立ち去っていく。
微風の音がハッキリと聞こえる。
ベンチの前では、狸がかじったパンや、弁当箱の蓋の上に盛られた可愛らしいオカズだけが残っている。
先ほどまで騒がしかった分、もの悲しさを感じずにはいられない。
もしかして、守田の下心が顔に出ていたので逃げられたのか。
はたまた、前に生えた男の尻尾が、意図せずに動いていたとか。
ああ、ちがう。
他に理由があった。
女子がいなくなったのは、アイツが原因だ。
それにしても、ひとつ勉強になったよ。
教訓――人は根本的なところで、人間に対して冷たい。
迷いこんだ狸には、チヤホヤするくせに。
猫背の中谷勇次がグラウンドを横切って近づいてきても、誰も優しくしない。
勇次も迷い込んだ狸と同じで、学校にいるのが似合わない姿だ。
だいたい、TシャツにGパンという私服で登校するとか、我が道を突き進みすぎではないか。
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、勇次が自販機の前までやって来た。
商品のランプが点灯しているのに気づくと、躊躇いなくカルピスのボタンを押した。
「おのれは、何をナチュラルに買ってんだよ? 俺の金だぞ」
「あとで金かえすから。いま、財布持ってねぇんだ」
缶のプルタブを開けながら、勇次は自販機にもたれかかる。
「いまにも倒れそうだけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫とはいえねぇよ。ろくなもん食ってねぇからな」
口の端を釣りあがらせると、カサカサに乾いた勇次の唇が割れる。水分補給すら、ろくに出来ていなかったのではないかと、勘ぐる。
「そっか。まだ優子さん帰ってきてないのか?」
押し黙ったまま、勇次は表情を強張らせた。
割れた唇から、真っ赤な血が流れている。
勇次もそれに気づいたらしい。口元を拭ったあと、地面に唾を吐き捨てる。
「実はよ。守田に力を貸してほしいことがあるんだ」
「金ならいま貸しただろ? ジュース代だけじゃ足りないのか?」
軽口を叩いた守田を無視するように、勇次は押し黙っている。
鋭い目つきで、どこか一点を見つめながら、ゆっくりと歩を進める。
ついていく義理などない。
それよりも、勇次を発見したら、教えると約束しあった相手がいる。
これでジュース一本おごるのではなく、おごってもらえる。
田中あずきにラインを送る。直近の連絡内容が表示される。
『矢山行人って知ってる?』既読。
『誰?』既読。
『勇次に会いたがってるお隣さん』既読。
『男? 女?』既読スルー。
『勇次発見、いまは渡り廊下の自販機にいる』
送信。
いまは、とつけておかないと、勇次はすぐにいなくなる。
とくに腹をすかせている現状では、いつ食堂に行ってもおかしくはない。
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