第三節 妄執
赤い月が緑の月より何倍も大きく成ってから、すなわちキアが人間を裏切ってから二週間程が経った。盛夏も終わったばかりだというのに、アンテ城から望むカイラル山には雪が積もっている。
これで水が冷たく成るだろう。川縁の低地で育てている稲の生育に影響が出ないはずが無い。
「父上も怒るだけの男になってしまった」
先ほど会った父王の様子を思い起こして、独りごちる。
幼い頃に受けた屈辱を理性で押さえつけてきた父王も、先の王太子を失ってからすっかりと老いてしまった。
人間側の完全敗北という喪失感に魔王から受けた屈辱を思い出した父王は、魔王とキアと私に怒りを向けて、ひたすら罵倒するばかりだ。
ヘリオトスの国力を顧みずに、人間界の永続という夢を追いかけて来たのだ。
来たるべき混乱に向けて、今度はその力をヘリオトスの民のために使うべきでは無いのだろうか。
アンテ城要塞部の中を、アン・アンテムの塔の脇を抜けて自分の塔であるアン・テアノムの塔に向かう石畳を歩く。
空は明るい色の雲が流れていたが、昨晩からの北風に吹かれたのか急に冷たい雨が降り出した。
「今日は、塔に誰か居たっけ?」
自分の塔であるが、練兵場にある執務室を使う事の方が多いので昼間は使用人が詰めていない。走り出そうとした所を呼び止められた。
「おい、リシャーリス。何の積もりだ」
父王の居館となっているアン・ソアキムの館から、王太子である兄ピーラリオが飛び出してきた。先ほどまで、私もそこで父王と会っていた。順番に呼ばれたのであろう。
ピーラリオが走った勢いで、館に戻ろうとした父王の稚児が跳ね飛ばされ、雨に濡れた芝生を転がる。
「ああ、すまない」
兄は稚児の手を引いて立たせる。父王の稚児遊びは兄ヒシオの勧めから始まったが最近は度が過ぎるようだ。十名も居ては邪魔でしようが無い。
「兄上は、私が魔界再侵攻の指揮官を引き受けた事をお怒りかしら」
雨が降りしきる中、木の下に移動もせず私はピーラリオを待った。
「当たり前だ。キアが人間を裏切って世界の滅びを確定させた。どのような反攻も報復も意味を持たない」
ピーラリオは私に追いつくと、髪から水滴を落としながら一気にまくし立てる。
「民衆も父上も敗北を受容出来ない。ならば誰かが散って示すしか無いでしょう」
勇者であるキアは聖剣によって選択を行い、世界の滅びを確定させた。それは人間界を輪廻に引き戻したのみならず、たった今も世界の反対側で人間界を崩壊させている。
今すぐに世界が滅びる訳では無いが、いやそれ故に父王や民の憎悪は溢れてキア一人では向け足りない。
「やめろ、俺は殉教者なんて望んでいない」
ピーラリオは大袈裟に両手を振り回し、跳ねた雨粒が私の額を打った。
「いいえ、父上が望んでいるのは罪人よ。誰もがやり場の無い怒りに身を焼いている」
「勘弁してくれ。何時も戦士は戦場に逃げる。罪人でも戦って散った者が勝ちだ。月の力が反転したんだ。来年の夏には飢餓が起きる。民の半分が生きていられるかどうか」
「分かってる」
キアが赤い月を解放したので、人が関わるあらゆる活力は人間界が奪われる側、魔界が奪う側に反転する。人間界はこれから世界が滅びるその日まで毎年凶作となるのだ。
「虫の良い要求だとは分かっている。俺は虐殺者になり切れない。リシャーリスなら難民を阻止出来る」
兄はヘリオトス八十万人を生かすために、殺到するであろう難民を私に殺せと言う。
私はため息をつくと、包帯が巻かれた左腕をピーラリオに突き出す。
「水晶剣はどうやっても致命的みたい」
「リシャーリス、傷が塞がらないのか」
「本当なら既に死んでいるわ」
魔法の心得がある兄の顔が陰った。
「キアの真意が知りたい。私には時間が無いの」
「真意か。キア・ピアシントは、
さすが婚約予定者は言う事が違う。
「キアの戦意に影響するからと、早期の婚約を止めたのは私。でも、それさえも聞いてみないと分からない」
「俺は何時も大事な物を失ってしまう、躊躇しているうちに」
「兄上……とにかく私は行く。反対されると分かっていたから、独断で応諾した。その事は謝るわ」
父王は、ピーラリオを魔界侵攻軍指揮官に指名する可能性に言及して私を脅迫した。
父王の脅迫の意図は違うが、ヘリオトスのためには今ピーラリオを失う訳には行かない。
「分かった。だがリシャーリス、可能な限り侵攻軍から国境防衛軍に将兵を引き抜く。恨むな、国の運命の方が大事だ」
「本当は私一人で良いんだけどね。ありがとう」
話している間に服がすっかり濡れてしまったので、私はアン・テアノムの塔には寄らずに、練兵場へと繋がる階段を降りた。
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