fragment:30 Y町のハチ
Y町のハチといえばみんな知っている。この町には昔から猫が多いけれど、いっとう有名で愛されているのはハチに違いない。
ハチを見つけるには少しコツがいる。
Y町にたくさんある小さな路地の、ここだと思うところに入る。そこをゆっくり歩く。騒々しく足音を立てたり、大声でおしゃべりしたり、スマホのカメラでパシャパシャやったりしてはいけない。
そうして、ぴんときたところで屋根を見上げる。運が良ければ、立ち並ぶ屋根の一番日当たりの良いところで、ふくふくと丸いのが寝ころんでいる。
もしもこっちを見てくれたら、そっと名前を呼んでみるといい。ハチはしっかり自分の名前を覚えている。機嫌が良ければ、まばたきしたり、しっぽをぱたんと動かしたり、大きなあくびをしてくれるだろう。
そして当然、猫にだって虫の居所が悪い日がある。そういうときはハチのほうからさっさと立ち去っていく。ハチはとても紳士または淑女な猫だ。無用な争いを嫌って自らその場を離れる。もちろん、深追いしてはいけない。ハチは紳士または淑女だけれど、無礼者には容赦しない。Y町のあちこちで日々磨いているぴかぴかの爪でえいっとやられたくなければ、そっと見送ることが肝心だ。
そんなふうに、ハチは毎日Y町のどこかで過ごしている。路地の家々を、屋根から屋根へ、塀から塀へ、伝い歩いては昼寝をする。
Y町の住人はみんな散歩が好きだ。朝起きてすぐに、昼飯のあとの腹ごなしに、なんとなく眠れない夜半に、ふらりと外へ出て歩く。それはきっと、ハチがいることも理由だ。姿は見えなくてもいると知っているから、わざわざ探したりはしない。でも会えると嬉しい。住人たちにとって、ハチはそういう存在だ。ハチもそれを心得ているから変に媚を売ったりせず、いつも気まぐれに歩いている。まあ、ごはんをくれるとわかっている住人の家には、足しげく通っているようだけれど。
ところで、猫なのに犬みたいな名前をしているのは、ハチの毛皮が理由だ。
ハチは見事な三毛猫だ。Y町の夕暮れの橙色、静かな真夜中の黒、朝の最初の陽が射してすべての路地が輝く一瞬の白をまとっている。その白の端っこ、ふかふかした脇腹の辺りに、まるで数字の8のような模様がある。けれどもよく目をこらさないとわからない。なぜならその8は、Y町が夜のあいだに積もった雪で真っ白になった朝の色をしているからだ。
朝日とはほんの少し違う白で、神さまは毛皮に8とお書きになった。だから、この有名な猫はハチと呼ばれている。
そんなハチが、あるときY町から姿を消した。
最初はみんな、ハチだってたまには遠出もしたいだろうと心配しなかった。けれど三日経ち、一週間が経って、いよいよ住人たちはそわそわし始めた。街角で顔を合わせればハチの話ばかりだ。見かけましたか。いいや見ていない。どこ行ったんだろう。ひどい目に遭っていなければいいが。
そうして半月ばかり経ち、ようやっとハチがY町に帰ってきた。
最初に見つけたのは、小さな工房を営む職人だ。できたばかりの指輪を磨いて、薄荷とメロンのドロップみたいな石をはめようとしたとき、戸口を叩く音がした。職人はびくりと肩を震わせた。こんな深夜に来客などあるはずない。職人はたがねを一本掴んでそうっと戸口へ向かった。どちらさまですか。震える声で尋ねると、にゃあ、と返事があった。
Y町の新緑みたいな瞳は眠そうで、手入れを欠かさない毛皮もその夜ばかりはばさばさだった、と職人はみんなに話した。くたくたに疲れたハチは、あたためたミルクをあっという間に飲み干して、そのまま眠ってしまったらしい。
ハチの帰還を誰もが喜んだ。翌日からいつものように町を歩き始めたハチを見つけると、住人たちはほっとして声をかけた。しばらくはおやつも上等のものをもらったらしく毛並みはたちまちつやを取り戻した。観察眼の鋭い者によれば、ほんの数日で行方知れずになる前よりややふっくらしたらしい。もちろん毛皮のせいだけではない、とのことだ。
ほっと胸を撫で下ろしたところで、脇に置いたままの疑問を再びみんなは取り出した。
ハチは一体、どこへ行っていたのか。
もちろんハチが事情を話すことはない。尋ねたところで、それより撫でてくれまいかと腹を見せるばかりだ。
そんな折り、Y町の外れに住んでいる小説家が、回覧板に一枚の紙切れを挟んで隣家のドアにぶら下げた。
我々の友人の帰還を祝して。そう書き添えた紙切れには、小さなお話が綴られていた。
美しい三毛色の毛皮を持つ誇り高い猫が、夏の祭りに誘われた。舞台は夜の湖畔、水面に夏の星が映るとき、森の木々に青い光が宿り、ひと晩だけの歌を聴かせてくれる。祭りの参加者はそれに合わせて朝まで踊る。木々の声は雫になって降り落ち、それは特上のサイダーになって皆を喜ばせ、祭りはますます高く輝く。
三毛猫は祭りを楽しみ、朝まで愉快に過ごした。ついつい疲れて眠ってしまい、目が覚めるとなんと数日も経ってしまっている。驚いた三毛猫に、あんまり気持ち良さそうに眠っていたからと真昼の森と湖は済まなそうに言う。三毛猫は紳士または淑女らしく自身の非礼を詫びて、よかったらまた来年も招いてほしいと答えた。森と湖は喜んで請け負うと、降り注ぐ陽射しをほんの少し折り畳んで、ここをまっすぐお行きなさいとY町へ続く道を指し示した。三毛猫は丁寧に挨拶をして歩き始めた。
Y町から湖畔の森は、人が歩いてもそれなりに遠い。猫の歩みともなればなおさらだ。三毛猫は薄桃色の肉球でぽてぽてと道をゆき、懸命に町へ向かった。ようやっと帰り着いたときには既に真夜中で、三毛猫は窓から漏れる灯りを頼りに、顔馴染みの職人がいる工房の扉を叩いた。
お話はそう締めくくられていた。
なあハチ。おまえもしかして、本当に湖のお祭りに行ったのかい。
お話を読んだある住人がそう尋ねた。
ハチの緑色の瞳に、今まで見たことのない輝きがあったからだ。
それはきらきら震えて、陽射しが当たると星が歌うように色を変えた。
ハチはごろごろと喉を鳴らし、内緒だと言わんばかりに目を細めてみせたそうだ。
穀雨さま
オープン8周年のお祝いを申し上げます。
参考URL:
穀雨オープン8周年
https://kokuutokyo.com/2025/06/18/2025-06-17-2/
新作オブジェ『路地の家』
https://kokuutokyo.com/2025/06/24/2025-06-20/
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