帰宅の364

 先生の診療所を出る頃にはすっかり陽が落ちていた。予定より帰宅が遅くなってしまったので僕は帰路を急ぐことにした。自宅傍まで来ると、明かりが点いていないのが外から分かった。どうしたんだろうと不思議に思った。

「ただいまー」

 玄関を開けると、やはり明かりはついてなかった。いつもより家の中が暗く感じた。実はあの子が我が家に来たのは嘘か、もしくは夢だったのではないかと思うほど、見慣れていたはずの光景が寂しく、不安を煽る。

 リビングにもいなかった。一体どこに行ったのだろうか。靴は玄関に置いてあったので、家にいるのは間違いないはず。

 例の可愛らしい部屋の前にくる。すると、扉が開いていて光が漏れていた。もしかしてと思ってこっそりと覗いてみると、やはり部屋の中に女の子はいた。

 何やってるんだろ?

 いけないとは分かっていても、つい声を掛けずに覗き続けてしまう。未だにどういう娘なのか不明な現状、ちょっとでも情報は欲しいところ。まして、これから一緒に住むのだ。少しでも仲良くなれるかもしれない可能性があることは知っておきたい。なんて、自らの行動にもっともらしい理由を挙げてみるけれど単に僕の好奇心が後ろめたさに勝っただけ。いや、勿論誇らしく言うことでもないのだけれど。

 実際に何をしているのか確かめると僕は驚いた。昨日机の上に伏せていたはずの写真立てが表を向いていて、それを女の子がじっと見ていた。彼女が写真立てを返したのは簡単に察することができるのだけれど、よりにもよってどうしてその写真に興味を抱いたのだろうか。この部屋には他にもいっぱい惹かれるものがあるだろうになぜ、と困惑してしまった。だからだろうか。突然、

「何か用ですか」

 と、女の子が背後を振り向きもせずに言った。

「あっと――いッ!!」

急に声を掛けられたことに驚き、動揺して扉に足をぶつけてしまった。ごろごろと廊下を転がる。割と派手な音がしたのだけれど女の子はこっちを窺うことはなかった。

 足の痛みが引き、恐る恐る部屋の中に入る。彼女は写真を手に持っていた。女の子のすぐ傍に近寄ると、そこでやっと僕の方をちらりとだけ見た。だがそれは写真を見るにあったって僕の影が重なって眺めることに支障が出たからだろう。だからすぐにこちらの方を向くのを止め、少女はちょっとだけ体を横に向けて写真を光が当たるところに出した。僕は久し振りに明るい場所でその写真を見ることとなった。

 写っていたのは僕と儚さそうな一人の女性。この家の玄関前で並んでいる姿だった。二人の間には少しだけ距離が空いていた。ちょうど人一人分くらいだろうか。だけど険悪な雰囲気ではなく、むしろ僕もその女性も幸せそうな笑顔だった。しかし僕にとってこの写真は不明瞭だった。

「これ誰ですか?」

 女の子は写真を指さしながら言った。僕はそれが少しだけ意外だと思った。この子が興味を持つような何かがあったのだろうか。それとも純粋に人に対する興味だろうか。だとしたら驚きだ。大した時間を過ごしたわけではないが、この子がどれだけ人に対して無関心なのかはよく分かったつもりだ。なにせ、今の今まで何一つ疑問を僕に投げかけてこなかったのだから。僕がどこの誰なのか、どういう人物なのか。そういうことを訊ねるやりとりは遠回しにさえなかった。だから他人に関心がない子なのだと思っていた。しかしそうでもないようだ。だとすると今まで何も質問してこなかったのは僕に関心がないのか?

 ……ちょっと凹む。

深く考えても仕方ないのでとりあえず女の子の質問に答える。

「この人は僕の奥さんだよ」

 それを聞いて女の子は不思議そうに首を傾げる。何か話そうとして、だけどすぐに口を閉じた。改めて写真を眺めて、少し考える素振りを見せる。表情の変化に乏しいので恐らく、ではあるのだけれど。

「何か気になるの?」

 僕の質問に女の子は、

「かわいいですね」

 ひと言、そう答えた。どちらかといえば彼女は美人の部類だと思うので、女の子の言葉に少しばかり違和感があった。だけど改めてこれが子供の言ということを思い出す。これまで年齢不相応な利発的態度を取る女の子だったからつい勘違いしてしまうけど、あくまで子供。語彙だって少ないだろうし、表現の仕方がそれしかないのなら逆に最高の褒め言葉なのだろう。だから自分のことではないけれどなんだか嬉しくなった。だから僕は女の子の頭をくしゃくしゃと撫でた。さらりと僕の指から流れる髪は、実に触り心地がよかった。

「…………やめてください」

 いつも通り冷静だったけど、いつもより反応が遅かったのは少しでも受け入れてもらえたからだろうか。だったら嬉しい。さらに頭を撫でまわした。珍しいことにほんの少しだけむっとした表情を見せた。さすがにちょっとやりすぎたなと軽く反省しつつ、すぐに手を離した。

「さあて、晩御飯にしようか」

 少々大袈裟な動きをして部屋から出て行く。ダイニングに向かう途中、僕は鼻歌を歌う。これからがどうなるかは誰にも分からない。だけど女の子とのこれからの生活を考え、年甲斐もなくわくわくしている自分がいることに僕は気付いたのだった。

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