戦乱の焼結

永禄八年五月十九日。

十三代足利将軍、義輝惨殺。


三好三人衆による騙し討ちであった。


三好長逸、三好宗渭、岩成友通らに奈良興福寺に幽閉された義輝の弟・一乗院覚慶は病に犯されていた。

細川藤孝は、町医者に変装した配下の者に脱出の手筈を説明した。

診察する医者と一乗院覚慶の服を取りかえる作戦で、それは見事に成功し、そのまま甲賀郡甲賀町の和田惟政の元に落ちのびた。

一乗院覚慶は、

「兄上なき今、源氏の嫡流において将軍になれるものはいない。

将軍家に弓をひいた三好三人衆を討伐し、一刻もはやく、余を将軍の座につけるのだ」

と、労いもせずに要求した。

還俗して義秋と名乗り、各地に平紙(密書)を送っていた。


上杉謙信は返書に、

「たとえ越後の国にいかなる戦乱が起こったとしても将軍家の御用と承れば無二の忠節を尽くす所存でござる」

と、一刻もはやく軍勢を率いて上洛してほしいと急かして手紙を送るが、実際の春日山城は、武田と睨み合い動けない状況だった。

その間に三好の追っ手に見つかり、矢島から若狭、若狭から越前へと逃亡しながら救援の密書を送り続けて一年が過ぎた。


永禄十年十一月、越前一乗谷の朝倉義景が義秋らを持て成したが、義秋が三好を討たないかと上からモノを言ったために反感をかっていた。


そんなとき、三好三人衆に擁されて足利義栄が第十四代将軍に就任した。


焦る義秋に明智光秀という男が言った。

「織田信長が三好三人衆を討ってくれます」

と。


永禄十一年七月二十五日。

美濃立政寺で信長と会見した。

義秋は信長を家臣のように扱い、傲慢な態度を貫いていた。

朝倉義景の時と同じように。

しかし信長は、それで腹をたてはしなかった。

二ヶ月後、六万の大軍で三好三人衆を討伐、京都に攻め上った。

九月に義栄が病死した事もあり、御所にて十五代将軍足利義昭と名乗り、織田信長の事を御父上と呼ぶようになった。


権威がないと民衆がついてこない事を学んだのだ。


Governability



十二年四月、義輝の御所を大改造した。


「信長は自ら宮殿の設計をし、およそ二万人の工人を使役させるために彼自ら虎の皮をまとい白刃を手に持ち石匠や人夫の中央に立つのを常とした」

とルイス・フロイスが記録している。


義昭は自ら将軍として政を取り仕切りたかった。


百七十ヶ所の直轄領の回復。

全国の上倉・酒場の課税。

商工業への営業課税。


等を信長に無断で御触れをだしたが、信長は朱印五ヶ条にて、


一 諸国に内書を出す時は必ず信長の添え状をつけること。

一 これまでの下知はすべて破棄すること。

一 すでに天下の政務を信長に委任した以上、将軍の意見を持たず、信長の思うままに処分すること。

一 将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。

一 天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。


これらの事を義昭に承認させた。


その後、副将軍の地位を与えると信長に打診したが、信長が断った事に腹をたて、

「将軍に仇なす不届き者、織田信長を討て」


天文六年は西暦一五三七年の事である。

一月三日に生まれた足利義昭は町外れの寺で生まれた。

十二代将軍足利義晴も将軍の屋敷にとどまれず、京都南禅寺に寄宿し、ほそぼそと養われていた。長男義輝を残し、義昭は興福寺に預けられた。

僧侶にかしずかれ、足利義満に憧れた義昭は幼い頃から増長して、成長していった。

そのため、現実離れした自信があったため、信長と戦い倒せると思った。

そして、その先に足利家の独裁国家を創ろうと思っていた。


元亀元年二条城に義昭はいた。

信長は自分に手を出すことが出来ないと思い、各地に討伐命令をだした。


「上杉、武田は和睦し、直ちに信長を打ち倒せ」

等と、すると動くもの、動かざるものが明白になっていった。

三好三人衆。

浅井朝倉連合軍。

石山本願寺。

伊勢長島一向宗など、信長包囲網が布かれていた。


私的な野心を公的なものにかえる力が権威である。


元亀三年。

三方ヶ原の戦いで織田徳川軍は、武田軍に惨敗する。

その後、武田信玄が亡くなり、信長包囲網が崩れる最中、明智光秀や細川藤孝は織田軍になっていた。

ついに足利義昭が降伏すると、使者としてやって来たのは木下藤吉郎であった。


百姓出の藤吉郎、権威をモノともしない物言いで、それどころか侮っている口振りで。

「人質として若君を申し受けたいと信長殿の仰せである。

さもなくば御腹を召されたし」

と、切腹を迫るが、義昭は二歳の息子をさしだすと都へと落ちのびていた。


その直後、落ち武者狩りに襲われ、将軍家の宝物を奪われた。


流れ公方、貧乏公方と後ろ指をさされるようになる。

それでも手紙を送る事をやめなかった。


上杉家に、

「貴殿の軍事力によって、この将軍義昭が帰路できたならば、天下の政治は貴殿に委任しよう」

と。


毛利家に、

「信長を討つことができた暁には、新領土、官位などは思いのままだ」

と。


流浪の最中。

天正十年六月二日。

本能寺で信長が殺された。


「今回、織田の事は天命のがれがたく自滅させられたという事であろう」


六月十三日。

明智光秀が殺された。


その数年後、備後で豊臣秀吉と名乗っている木下藤吉郎に養子にしてくれと頼まれた。


信長の時も三職推任問題があった。

朝廷から、征夷大将軍か、関白か、太政大臣のどれかになるよう打診された信長は、答えを出す前に本能寺の変で討たれた。

征夷大将軍とは武家の頂点。

関白とは公家の頂点。

太政大臣とは、官庁の頂点、太政官の長官で平清盛が就任していたため、子孫の信長も太政大臣になっていたかもしれなかった。

信長が死んだ時には足利義昭が将軍の地位にいたからだ。


足利義昭は拒んだ。

養子になれば簡単に征夷大将軍になれるものかと。


しかし、秀吉は近衛前久の猶子となり関白になった知らせを受け、出家することを条件に秀吉の軍門に降った。

その後、征夷大将軍の兼任を朝廷から打診されたが、秀吉は断っている。




避亂泛舟江州湖暗結愁



落魄江湖暗結愁

弧舟一夜思悠悠

天公亦怜吾生否

月白蘆花浅水秋


幼い頃から時流にあわぬ知識を植えつけられた義昭は、何も持ち合わせていないのに、すべてを掌握しているかのように勘違いして振る舞い過ぎた。


征夷大将軍という名前を必要以上に意識してしまい、結果、権威に振りまわされてしまい不遇の人生を歩んだ義昭だが、歴代足利将軍では、もっとも長命の人生を送った男だった。

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