夜を急ぎて 二

 雨の日に「僕」が出てきたことはなかった。火をつけても燃え広がりにくい雨の日には僕は現れないはずだった。逆に言えば晴れの日、そして火がとりわけ美しく見える晴れた夜には僕が現れることが多かった。今回の場合は、雨の降る昼には普段なら現れないはずの僕が、スズさんからの電話によって突如現れたのだろうと「自分」は思う。


 初めて雨の日に自分を乗っ取った僕は、その初めてという経験値のせいか、自分の理性を乗っ取りきることはできなかったものの、スズさんのタグ・ホイヤーを手にすることに成功した。スズさんがいなくなれば、僕の存在意義が失われると思って最後の抵抗に出たのだろう。だからスズさんの存在を自分に植え付けようとしたのだろう。


 僕が生きる意味を失ったとしても、それだけでは自分は僕を殺せない。スズさんが生きる意味を失ったとしても、その時は殺意が手首に向いていたように。そして、死ぬ意味を見出したスズさんは手首を切らずに首を吊った。死ぬための傷を隠すタグ・ホイヤーの腕時計は、生きることの象徴になってしまった。


 スズさんは、僕と星を眺めるうちに見つけたのだ。星になりたい、という願いを。彼の言葉の真意は分からない。彼がどういう意味を込めたかは、今となっては決してわからないのだが、その星になりたいという願いは、そのまま死ぬ理由になってしまったのだろう。ちょうど、彼がこの地球にとどまっている理由もどんどん失われてしまっていた。そんな状況でなら、誰だって死にたいと思うはずだ。


 そして、死にたがったスズさんを利用して、僕は自分に命乞いをした。僕も自分もスズさんのことが好きだということを利用して、自分に僕を殺させまいとしたのだろう。僕が生きる理由を失ったからといって僕は殺されはしないが、僕に死ぬべき理由があれば自分は僕を殺すはずだ。


 一応自分に言っておくが、スズさんの家族を奪った放火魔は僕ではない。スズさんがそれを知っていたかはわからない。恐らく知らない、僕がこの近辺を賑やかす放火魔であることも、また、僕が自分ではないことも。


 大きくため息をついたとき、頭の中に声がした。



 おいおい、お前、僕に全ての罪を擦り付けようとはしていないか?

 え?

 お前、僕は自分の別人格だと思っているんだろ?

 それは……。

 お前は多重人格じゃない。

 嘘だ。



 本当だよ。お前はスズさんのことをたくさん知っているじゃないか。お前が初めてスズさんに出会ったのは、あの雨の日だった。それより前に彼に出会ったのは全て僕だ。多重人格だというのなら、それはおかしいだろ。それに、多重人格は多重の名のとおり、人格はたくさん現れる。人格がたった二つというのは今までに例がないんだ。知らなかっただろ?


 多重人格は、他の人格そのものを知らないことだってあるらしいじゃないか。でもお前は僕のことを知っている。それだけじゃ証拠にならないだろうけどね。


 お前は病院に行って僕を消すつもりらしいが、病院に行ったって無駄だ。僕と自分は別の人格なんかじゃない、僕はお前なんだ。放火魔なんか自分じゃないって思ってたんだろ、罪は僕のものだと思っていたんだろ。お前は、放火魔である自分を認めたくなくて、僕を作り出したつもりになっているだけだ。だが、自分と僕は別の人格じゃない。お前は僕と自分でできているんだ。僕はお前だ。放火魔同士仲良くしようよ。自分の罪を認めろよ、さあ早く現実に気が付けよ。


 スズさんを燃やしたのは僕? まさか、そんなわけないじゃないか。あの時、僕を動かしていたのはお前だろ。スズさんを燃やしたのはお前だ。煙になって空に昇っていきたいというスズさんの願いを叶えるふりをして、炎を見たいという自分の願望を優先させたんじゃないか。その醜い願望を僕に押し付けるのは止してくれ。


 いやだ。お前のことなんか認めない。

 何を言うんだ。僕から逃げるなよ。スズさんは逃げなかったじゃないか。お前はスズさんのタグ・ホイヤーの腕時計を拾ったじゃないか。あの時計は、どういう人間に受け継がれるのだと思う? スズさんが気に入ってくれた「僕」に与えられたものなのだろう? その僕からどうして逃げるんだ。お前もクズなんだろ、人間の。さあ、人間のクズ同士、仲良くしようじゃないか。仲良く、タグ・ホイヤーの腕時計を共有しようじゃないか。



 何を喧嘩しているんだい。

僕と自分との言い合いに割り込む声がした。

 お前は、誰だ?

 「俺」だ。


 そんな奴なんか知らない。

 それは、お前らが俺の記憶を持っていないからだ。

 三人目がいるということはどういうことを表しているか、わかるか?


 それは……。

 自分で言っていたじゃないか。多重人格には二つの人格はあり得ない。だが三つ目の俺がいるということは、俺たちは多重人格たりえるということだ。そのうちの一つの人格の記憶がなくたって、不自然じゃない。お前がそう言ってたじゃないか。初めまして。俺は、俺だ。


 お前も放火魔なのか?

 不思議なことを言う奴だな。放火魔が分裂しただけなんだから、考えなくたって分かるだろ。

 じゃあ、スズさんの婚約者を殺した放火魔は……?

 僕じゃない。

 自分じゃない。


 警察はスズさんの婚約者を殺した放火魔と最近ボヤ騒ぎを起こしている放火魔を、同一人物だとみているんだろ。根拠あってのものだと、俺は思うがな。

 まさか。


 お前たちは、罪を互いに擦り付けるのはやめようと言っていたじゃないか。全部同じ人間なんだから。ほら、俺にも向き合ってくれるんだろう? みんなで、タグ・ホイヤーをつけるだけの価値ある人間になろうよ。


 やめろ!



 耳の奥で、自我がずるりと溶け落ちる音がする。頭の中に、僕の叫び声が響く。自分の悲鳴が轟く。俺の笑い声がする。

 そして、スズさんのタグ・ホイヤーが腕に光っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る