マリオネットシアター(カクヨム版)

久保田愉也

第1話 わたしの紅い花畑

地震のように地響きが鳴る。

空が堕ちてくる。もう後戻りはできない。

一歩一歩足を踏み出す度に鳴る胸の鼓動は、この世の終わりのリズム。巨大地震にあったような感覚。雨の降らない地面は、乾ききって割れている。空は赤く怪しく光っている。

もう、ほんの少しで、この世界は終わってしまうだろう。ほんの数分後、この果てしない世界から見れば、ほんの瞬く間に。

手に握られた包丁。台所からとってきたものだ。小さな箱の中で、二人は再び出会うだろう。ついさっき決別したはずの二人は。


誰も邪魔できない小さな箱の中、会いまみえた。

ほんの瞬く間だった。小さな少女のファーストコンタクト。おどろおどろしい世界が広がる。

世界の終わり。これは、鉄の臭い。

生まれた時に嗅いだ生臭い臭気。手のひらには、生温かい赤い体液がしたたり落ちていた。


目前に広がる赤い花畑。手の先から転がり落ちる肉塊。赤ちゃんの泣き声が聞こえる。この世界に暴力的に投げ出されて生まれてきた叫びが聞こえる。赤く染まった床に横たわる肉塊。

ただのかつて人間だった組織。

こんなに、楽しかったのか。

人を傷つけるということは。

空が割れる。

光が差し込む。暖かく残酷な空の光が。

脚立を組んで登り、天井の火災感知器にライターの火をかざした。


小さな箱の中の外とは違う世界。雨が降り出した。


雑踏の中、廊下に出ると、火災報知器の赤いボタンを押した。


突然鳴りだしたサイレン。

小さな箱に群がる蠅たちが大群で押し寄せてくる。

川の流れに身を任すように、その大群の中に身を置いた。


「何をしているの」


血みどろで立ち尽くす少女。

教師が降りしきる水のシャワーの中、疑問を投げかけた。

その少女は、明らかに異様だった。虚ろな瞳、服に付いた血がしたたり落ちる先の手のひらには包丁が握られている。

そういえば、あの子を見ない。この少女と教室を出て行ったもう一人の少女。


「和菜ちゃんはどうしたの」


少女がおもむろに差し出した指先が示すのは空き教室。

そして、教師はその教室をのぞき見た。



さあ、マリオネットシアターの始まり、始まり。



千歳の住む街は、人形劇で有名な街だ。京都と東京の真ん中にあるため、昔から、東西の様々な娯楽が集まる拠点だった。

特に人形浄瑠璃は東と西、両方の特徴を持つ。そして、今日、その技術や演じ方は伝統芸能となり、この国でも随一の人形劇の街となったのだ。


今は、世界から人形劇の劇団員達があつまり、フェスタと呼ばれる祭りのようなものに発展している。


街のはずれの、昔、村と呼ばれていた地域に、千歳は住んでいる。過疎化が進み、年寄ばかりが暮らすようになったこの地域にも小学校があり、子供達が少ないながらも通っている。その子供達の中の一人が千歳だ。


そして、その村にも人形劇を上演しようとする人は集まってくる。

もうすぐ、夏が来る。夏になれば、この街は活気にあふれ、人形劇がそこかしこで見られることになるだろう。

その前座のようなものが、今日、この日、千歳の通う小学校で上演される。


千歳は楽しみだった。

体育館で、友達の瑠奈と明美と小枝と和菜と共に並んで、舞台の上で上演されるマリオネットシアターを見た。


どこの劇団だったろう。

外国の劇団だったか、学生劇団だったか。マリオネットと呼ばれる人形の体の関節部分に糸をつけて、まるで生きているかのように操る劇。

まるで、劇団員は魔法使いのようだった。心を持たないはずの人形が、言葉を話し、人間のように動き、人間のような人生を歩む。夢の中の世界が、そこに広がっている。憧れた。こんな風に人形を操ってみたいと思った。


千歳は、人形が自分自身だと気付くことはなかった。


人に思うが儘操られ、体の自由を奪われたそれが、自分の今ある本来の姿だとは。


「お母さん、あのね、今日、学校で人形劇があったんだよ。わたしもね、人形劇やりたい。将来、人形劇をする人になりたいよ」

学校から帰った千歳は真っ先に母親に伝えた。

嬉しくて、楽しくて、興奮冷めやらなくて、誰か大人にこの感情を伝えたかったのだ。

「そう」

母親の返事は素気ないものだった。

「あのね。お母さん聞いて。人形劇ってすごいんだよ。人形に糸がつけられていてね。それを人が操るの」


「そう。だから何。なんだっていうの」

母親は、この日イライラしていた。理由は千歳には分からなかったが、子供の話を親身になって聞けるほど、余裕はなかった。

「だからね。お母さん」

「いい加減にしてくれる。人形劇があるってことはもうとっくに知っているよ。だからなんなの」

「だからね、わたし、人形劇やる人になる」

「やめてくれる。劇団員なんて冗談じゃない。そんなお金稼げない人になったら、お母さん泣くよ。人形劇なんて、どこがいいんだか」


千歳の指先を冷たい感覚が侵していく。

母親は機嫌が悪い。そのことに気付いた。しかし、千歳は人形劇の感動を分かって欲しかった。

「人形劇はすごいよ。心のない人形がね、心があるみたいに、人間みたいに動くんだよ」

母親が、千歳の言葉を遮るように言う。

「人形なんて、ここにいるじゃない。あんたの玩具なんて、いくらでもあるじゃない」

何を言っているのか分からなかった。母親は、怒りをぶつけるようにまくしたてた。


「人形はね、あんた自身。心もないまま操られて偽りの人生を歩むのは、あんた。マリオネットは千歳だよ」

母親のあまりの剣幕に千歳は黙り込んだ。

もしかしたら、聞いてはいけないことを聞いてしまうのかもしれない。この先は聞きたくない。

「この際だから教えてあげる。千歳は、試験管ベイビーなの。人工的に作られた人造人間なんだよ」

いったい何の事なのか、この時は分からなかった。

やがて、自分が何者なのかを知る時が来る。


小学校五年生。荻窪千歳。

父親の弟が俘虜の事故で亡くなる以前に登録していた精子バンクより、精子を。

卵子は、父母共に名前も知らない、とある有名大学に在籍していた当時大学生だった女性の卵子を使い、試験管にて受精させた受精卵だった子供。


母親は、穏やかな表情になり、千歳の頭を撫でた。

「千歳の本当のお母さんも、お父さんも、ここにはいないんだよ。千歳は、この世に便利に使い古されるために生まれてきた、作られた子供なの。可哀そうな子」


母親は微笑みを浮かべた。その表情に悪意を潜ませて。

千歳は、母親がいったい何を言っているのか分からなかった。試験管ベイビーなんて初めて聞いた言葉だったし、本当のお母さんも、お父さんも、この家にいるはずなのに、と。

ただ、分かったのだ。頭を撫でられたときの母親の手のひらの冷たさ。そして、まるで、他人を見るかのようにこちらを見ていたことを。


それから母親は、父親が帰ってくるといつものように愚痴を長々と言い出した。勤め先の人間関係のこと、給料のこと、待遇のこと、父親には話したいことが山ほどあるらしかった。


千歳は、このことを日記に書いた。先生なら知っているかもしれない。

試験管ベイビーのこと。本当のお母さん、お父さんはどこにいるのか。


「そうだったの。千歳さんは試験管ベイビーだったの。そんなことがどうしたの。この世界には色んな事情を持って生まれてきた人が沢山いるんだよ。試験管ベイビーで、デザイナーベイビーで、だからなんなの。先生は、そんなことなんとも思わないよ。差別でもすると思ったの」


帰ってきた返事は、千歳の期待していたものと少し違った。

もっと、その詳細を教えて欲しかったのだ。なぜ、試験管ベイビーが差別をされることもあるように書いているのか、わからなかった。

そして、また、わからない単語が出てきた。デザイナーベイビーとは何なのだろうか。


考えるのをやめた。

だからなんなのと言われてしまえば、もう、聞くことをしたくない。

こんなことくらいで、何か変わることもないだろう。今日も、何事もなかったかのように普通の毎日が巡るだろう。


ほら、いつものように、瑠奈がこちらにやってきた。

「ねぇ、千歳ちゃん、これどう思う」

瑠奈が手渡したのは、一枚の用紙。

「これは」

そこに描かれていたのは、一人の漫画風の女の子の絵。

「キモいでしょ」

「いや、別に・・・」

「そう、なんかこの絵変じゃないかな。小枝ちゃんがさ、この顔、意味もなくムカムカするって言っていたんだよ」


いつものことだ。これは。

仲間のはずの誰かの陰口はいつものこと。これは、日常なのだ。瑠奈は千歳に耳打ちする。

「明美ちゃんの描く絵ってキモいよね」

そんなことはないよ。とは言えない。ただ、理由もなく人を貶めることは望んでいないが、力を込めて明美をかばうこともしなかった。理由もなく。ただ、なんとなく、そうした。

自分を守るためだったのかもしれない。

また、少し聞いたことがあるのだ。明美が千歳の描く絵をキモいと言っていたと瑠奈から。

ほんの少しの復讐。

「そうかもしれないね」

誰に対してのものだったのか。明美に対してか、瑠奈に対してか。この感情をどこにぶつければいいのか分からない。

千歳の描く絵をキモいと言っていた明美に憎しみの感情を抱くのか、それとも、そんなことはでっち上げで、内心千歳の描く絵をキモいと思っていたのかもしれない瑠奈に対してなのか。


瑠奈は自分の言葉を架空の明美に代弁させていたのかもしれない可能性をぬぐえなかった。

人を信じることなんか知らなかった。

信じるという言葉を知っていても、その意味を考えることさえしなかった。


そうかもしれないね


と、言ってしまったが、それは、明美を傷つける言葉であって、瑠奈を傷つける言葉ではない。

しかし、他になんと答えることが自分の感情を吐き出すことになるのか、それも、知らなかった。


意味もないと思っていた。腹の底で淀みきった内容物がざわめきだすような感覚。

見ないふりをしていた。後ろ向きの自分。


まだ、彼女は幼い子供なのだ。

きっと、瑠奈と明美、二人を傷つける言葉を同時に見つけたなら、彼女は大人になるだろう。

偽りの強さを持ち、人の感情に本当に鈍感な、残酷な大人に。


あのあと、瑠奈は千歳の視線の届かないところで、明美に告げ口していた。

「千歳ちゃんがね。明美ちゃんの絵、キモいって言ってたよ。わたしは、そんなことないんじゃないって言ったのに、千歳ちゃんって酷いよね」

瑠奈は、その瞳にどんな期待に満ちた気持ちを宿していただろう。明美は、その好奇の瞳から隠れるように、うつむき、つぶやいた。

「・・・酷いよ」

うつむいた前髪の隙間から漏れる明美の視線は、鋭く、遠くで小枝と和菜と談笑する千歳を捕らえている。


これは、特別なことではない。

これが彼女らの日常なのだ。

そうだ。普通のことだった。


誰かが誰かを嫌いで、誰かが誰かを貶めようとしていることは彼女たちにとって平和な世界の日常なのだ。


誰も疑問を持たなかった。持つ理由もなかった。


マリオネットシアターは何度も繰り返された。紅色の暗幕が開かれると始まる物語。

一日が始まり、そして、終わっていく。


何も変わらないと思っていた。

これが一番の幸せだと疑うことをしなかった。

なぜなら、可哀そうな人と自分とは、違った世界に生きているものだと思っていたからだ。


舞台の上で、かかっていた暗幕が開きました。

しかし、物語の眠り姫は永遠に眠ったまま。

起きることはとうとうありませんでした。


「さあ、今日は、いつもの授業とは違って、試験管ベイビーについて話し合いましょう」

黒板に書かれた試験管ベイビーの文字。担任の先生は、明るい声で言い放った。


「先生、試験管ベイビーってなんですか」

どこからともなく飛んできた声。


「はい。今説明しますね。試験管ベイビーというものは・・・」

試験管ベイビーとは、お母さんのお腹の中で育まれるはずの命を人工的に作り出そうとした結果生まれた赤ちゃんのことです。

つまりは、試験管ベイビーは、人造人間なのです。

テレビアニメや漫画の出てくる人造人間とは、現実に存在するため違いますが、神様やコウノトリが運んでくるはずの赤ちゃんを人の手で勝手に作ってしまった可哀そうな存在なのですよ。

「難しいですか?」

「難しいです」

「そうですね。これは、小学生には難しい問題ですね。でも、先生は、そんな可哀そうな存在がこの世界にあることを知って、考えてほしいと思ってみんなと話し合おうと思ったのですよ」



なんで?

どうして?

千歳は、精神の作り出す静寂の中で、高鳴る鼓動を感じていた。

試験管ベイビー・・・

自分のことだ。

「可哀そうな存在」

それは果たして、自分のことなのだろうか。

千歳は、担任の先生の持ち出した話が信じることができなかった。こんな風に、クラスで話し合うことになるなどとは予想していなかったのだ。


だって、先生は、「そんなことがどうしたの」と日記の返事に書いていたのに。


「この世界には、色んなことがあって、人を人の手で作り出そうとするような酷い事も行われているのです」

酷い事とは、自分がどうやって生まれたか、そのことなのだろうか。

「わたし、酷い事で生まれてきたのですか?」

「わたし、可哀そうな存在なのですか?」

今すぐに聞きたい気持ちになった。


しかし、今、この、沢山の目の前で、そのことを聞いてしまったら、きっと、魔女狩りに遭ってしまうだろうことが想像できた。

魔女狩り。

それは、この教室という世界で繰り返されてきた物語だ。


今は、あの子が標的。

あの子に沢山の好奇の目と蔑みの言葉が集まる。

だけど、今度は、誰が標的になるかわからない。今度は自分かもしれない。少しでも、周りと違う存在なら、それを見つけられたら、小さな箱の中に閉じ込められて、逃げられない。

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