レントークまでの船では一週間程度。王国の領土から離れるために大きく迂回しながら西の方角に舵を切って進んでいく。これだけ離れていれば王国も僕達の船を察知することは難しいだろう。今回は停戦協定を明らかに違反した行為になる。レントークが降伏したことを知らないとシラを切り通すにも限界があるだろう。


 僕がレントーク降伏を知ったのは、公国の諜報によるものだ。おそらく今頃、王国から正式な使者が連トーク降伏を告げにやってきている頃だと思う。その辺りはルドが上手く対応してくれているだろうから安心だが、なんとか停戦協定を破らずに今回の問題を解決できればいいのだが……。やはり王国と全面戦争になることは避けられないだろうな。


 外の静かな波音とは裏腹に僕の心の中が荒波だっている。今回の戦に先に見えるもの。それが公国の民の幸せな時間を奪い取ってしまうのではないだろうか。そんなことばかりを考えてしまう。するとシェラが珍しく甲板に出てきて、海風を感じながらこちらにやってきた。


 「旦那様。こんなところにいたんですね。皆が心配していましたよ。出向してからお加減でも優れませんか? 私の膝だったらいつでも貸してあげますからね」


 そんなに表情に出てしまっていたのか。ルドにいつも注意されていたな。どんなに辛くとも、決して表情に出してはならない、と。僕には主としての器はやはりないのだろうな。


 「ああ、すまなかったな。部屋にいるとこれからのことを悪い方に考えてしまってな。外の空気を吸いにやってきたんだ」


 「そうでしたか。たしかにどこまでも一望できるほど、澄み切った綺麗や青空ですものね。これから戦地に赴くなんて信じられません。ところでまだ腕輪をつけていますか? 最近は魔力を大きく使うような事がなかったですから忘れてしまっているのではないかと」


 「もちろんだとも」


 僕は袖をめくり、腕輪をシェラに見せびらかせる。これは僕の生命線だ。これが黒く光る時、僕の命の灯火が消えてしまうかも知れないのだ。


 「それは良かったです。今回の戦いでも必ず気をつけてくださいね。じゃないと……」


 僕が死んでしまうといいたいんだろうな。僕はシェラの手を握り、安心させるためにコクっと頷いた。それから僕とシェラは船室に戻った。船は順調に進んでいく。これほど順調に進むと怖いくらいだ。僕は甲板に出て、他の船の様子を遠目に見ながら、確認する。僕達がいるのは八隻の艦隊の一番うしろに付いている。これは、隊列を組み直す訓練を取り入れており、偶々僕が乗っている船が一番うしろに付いているのだ。


 そろそろ一週間だ。そろそろ到着する頃だろう。遠くにレントークの陸地が見えないかとじっと凝視をするが、何も見えてくるものはなかった。すると、フェンリルをつれたエリスがこちらにやってきた。本当に気に入ったようだな。フェンリルもかなりなついている様子だ。


 「エリス。ずいぶんとフェンリルと仲が良くなったな。時々、いなくなるって聞くけどフェンリルのところに行っているのか?」


 「ロッシュ様こそ、時々消えているそうじゃありませんか。どこに行っているんですか?」


 まさかその返しが来るとは。まぁ、今回の旅では妻が六人も乗っているのだ。しかも一週間も船に閉じ込められているとな……変な場所で求められたりすることがあるのだ。いなくなるのはそれが原因だろ。


 「いやまぁ、ここかな? 外の空気を吸うのにここが一番いい場所だ」


 「ふぅん。そうですか。確かにここの海風は気持ちいいですね。ただモモの毛が潮風でベタついて、早く洗ってあげたいです」


 モモ? ああ、フェンリルに名前をつけたのか。それにしても本当に仲がいい。僕はエリスと二人で甲板で時間を潰していると、にわかに風が吹き始めてきた。先程まで晴天だったのに、真っ黒な雲が周囲に集まってきているような、そんな感覚がするほど状況が一変したのだ。弱い風が突風のような風に変わり、船が風に煽られるように左右に揺さぶられ始めた。


 僕が最後に他の船を見たのはこの時だった。どの船も突風でまっすぐに進むことが難しいのか蛇行しているように見えた。それとも僕が乗っている船が蛇行しているからそう見えるのか? 冷静に考えられないほど、風は強まり、強烈な雨が僕達を襲い掛かってきた。まずいな。このままでは船が沈んでしまうかも知れない。


 その緊張感は船全体に広まっていて、方々で船員が忙しそうに動き回り帆をしまいこんだりしている。帆をたたみ終えても、荒波が船に容赦なくぶつかってくる。そのために船が上下に揺れ、船首が真上を向いているのでは錯覚するほど、波の荒れ方は酷いものだった。


 僕は側にいたエリスを手繰り寄せ、必死に体を抱きながら甲板を一歩ずつ船室に向け歩き進めていた。そのとき、大きな声が聞こえたような気がした。気がしたと言うほど、嵐の音は凄まじい。周りの音をことごとく吹き飛ばしていくようだ。側にエリスがいるにも拘わらず、エリスの声すら聞こないほどだ。それでも船室に付けばという思いで歩みを止めなかったが、何度も何度も風で押し返され、船首の方に戻されてしまう。


 それを何度も繰り返しているうちに僕は疲労がたまり、ついに腰が立たなくなってしまった。するとエリスが近くにいたモモを呼び出した。


 「ロッシュ様。私がモモと共に誰かを連れてきます。だからロッシュ様はここで休んでいてください」


 「ダメだ!! ここにいろ」


 「大丈夫ですから。モモもこの風でもなんとか動けるみたいですし。這ってでも進んでみせますよ」


 僕は必死にエリスの腕を掴んでいたが、ふいに力が緩んだところでエリスを放してしまった。何かを言うエリスの声が聞こえたが、嵐の音に打ち消されてしまった。エリスの後ろ姿を必死で見ようとしたが、その姿も一瞬のうちにいなくなってしまった。僕は一人、その場に取り残されてしまった。なんとか体が吹き飛ばないような場所に移動して、柱にもたれかかる。風はまだまだ止みそうにないな。


 僕は力を温存するためにしばらく休むことにした。その間にエリスが戻ってきてくれるだろう。そんなことを思い目をつむった。


 僕が目を覚ますと、先程の嵐が嘘のように空はどこまでも透き通っており、波も穏やかだ。それに船が止まっている? おかしい。波に揺られているのなら少し暗い動いていてもいいのに、微動だにしない。まさか停泊しているのか? それとも……。僕は体を起こそうとすると体中に痛みが走った。どうやら、船のあちこちに体をぶつけてしまっていたようだ。自分に回復魔法を使い、歩くのに支障がないことを確認してから船中を歩き回った。


 皆も憔悴しきった様子で、そのほとんどが寝ているか気絶しているものばかりだった。すると、船室の方からミヤとシラーがこちらにやってきた。


 「ロッシュ。無事だったようね。本当に酷い嵐だったわ」


 ミヤがそういうと周りを見渡すような仕草をする。


 「エリスはどこ?」


 ……何を言っているんだ? 僕は次の言葉をいうのが怖かった。


 「エリスはミヤたちと一緒じゃないのか?」


 「シラー!! すぐにエリスを探してきて。きっと船のどこかにいるはずよ」


 どういうことだ?


 「エリスはミヤ達のところに行ったのではないのか?」


 「来たわよ。それでロッシュを連れてくるから手伝ってっていうの。私達はそれを止めたわ。外の嵐で助けに行けば吹き飛ばされてしまうから。でもエリスはずっとロッシュのもとに戻ろうとしていたわ。なんとか説得して、納得してくれたと思ったんだけど……私達が仮眠をしている隙にどこかに行ってしまったみたいなの。私はてっきりロッシュのところに行ったものだと思っていたんだけど」


 「エリスは一人であの嵐の中を歩いていたというのか。なぜ……」


 するとシラーがすぐに戻ってきた。どのような結果か、シラーの顔をみればすぐに分かった。悲壮感しかなかったのだ。


 「エリスさんを見つけることは出来ませんでした。で、でももしかしたら船室の奥とかにいるかも知れませんよ。私も隅々まで確認したわけじゃありませんから」


 「いや、ありがとう。シラー。エリスはきっと嵐の中で海に投げ出されてしまったのだろう。とにかく小舟を繰り出してエリスの捜索をしてもらってくれ。フェンリルも一緒であれば生きている可能性はまだある」


 シラーはすぐに船長のもとに向かった。ミヤは心配そうな顔でこっちをみてくる。


 「これからどうするの? 見たところ、他の船も見失ったみたいだし。それに見た? 陸地があるのよ」


 陸地? そうか、この船は座礁してしまっていたのか。そうなるとこの船は使い物にならないかも知れないな。まずはその陸地に上陸して、調査をしなければ。僕は二千人の兵に対して、二百人には上陸後の周辺の調査、百人にはエリスの捜索、千七百人には船に積んでいる物資を陸に荷降ろしをするように命じた。船員には船の修復を命じた。とにかく、早く見失った船と合流しなければならない。僕が皆に命令をしているとミヤが怒鳴ってきた。


 「ねえ。エリスのことを見放すつもり? エリスが見つかるまではここを離れないわよ」


 「ミヤ。気持ちは分かる。僕だってエリスが見つかるまでは……でも」


 「いいわ。ロッシュは王としてやることをやりなさい。私と眷属はここに残ってエリスを探すわ。それでいいわよね?」


 「分かった。しかし、三日だ。それ以上は待てないぞ」


 僕がそういうとミヤは眷属と共に探索隊と合流するために行動を開始した。僕の方も動き出さなければ。エリス……無事でいてくれよ。シラーだけは僕達と同行してくれるようだ。吸血鬼同士は相手の居場所を感じる力があるとかで、シラーが僕の側を離れなければミヤはすぐに追いかけてくることが出来るようだ。


 僕は妻達を集めた。皆、エリスが不在のため明るい顔をするものはいなかった。


 「僕達はこれから、あの陸地に上陸する。ここがどこなのか見当もつかないが、レントーク王国のすぐ近くであることは間違いない。周辺地理を理解し、公国軍と合流することを目的とする」


 僕達も調査隊と共に小舟に乗り込み上陸をしようとした。しかし、膝くらいの水位しかなく歩いていくことにした。こんなところに座礁して、船は脱出できるのだろうか? 不安を感じながら僕達は島に向かって進んでいく。この先に何があるのか? エリスは無事なのだろうか? 胸中交々としながら、僕は浅瀬を歩いていく。

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