二、においのもと

「夢原涙子。ニシムラ・リュウジについて聞きたいことがある」

 顔見知りの相手に警察手帳を突きつけて、この言葉を口にするとは。タカナシに言った「ドラマみたいな台詞を口に出すな」という自分の発言が、ブーメランのように突き刺さった。

 しかし、俺が目を細めて眉間に皺を作ったのは、夢原の放つ存在感に目がくらんだのではなく、薄暗い階段を下りた先に広がる、白く無機質な事務所が眩しかったからだ。

「はい。なんでしょう、おじ様」

 自分に言い訳をしている俺を見透かすように、夢原は『おじ様』に向かって微笑んだ。夢原は言葉さえも、最初から打ち合わせしていたことを匂わせるように言いやがって、無性に腹立たしかった。

 こんな面白い状況を、タカナシが黙って見ていなかったのもさらに腹立たしい。

「え!? ホズミさんっ、『夢原涙子』と親戚なんですかっ!?」

 タカナシのひっくり返った声を、真横から受けるとは思わなかった。狭い空間を乱反射した声が耳に刺さる。

「うるさいっ。刑事が重要参考人の前で騒ぐなっ」

 俺は少しだけ声を荒げ、タカナシを叱咤したが、それが逆効果であることを数秒後に思い知った。物珍しそうな顔をした夢原が、タカナシに話しかけたのだ。

「あら? 刑事さん、もしかして私のことご存じなんですか?」

「当たり前ですよ! 俺の世代で知らない奴なんていませんて」

「ふふっ、それは光栄です。改めまして、私がトポグラフ・マッパー。またの名を、夢原涙子です」

「うわっ、本物だ。あ、後で一緒に写メ撮っていいですか?」

「あー、すみません。写真撮影はNGなんですよ」

「そうなんですか。じゃあ代わりにサインを、」

 俺が無言の圧力を放つと、タカナシは夢原から顔を背け、夢原は持っていた分厚いファイルで顔を隠した。

 二人のやりとりを見ていて思ったことだが、常日頃タカナシの態度が腹立たく感じるのは、どこかで夢原に似ているからだろう。ということは、タカナシを見る度に夢原のことも少なからず思い出してしまうのか。今までで一番気付きたくなかった。

「あのー、ホズミさん? どうかし、」

「なんでもない」

 無意識に出た嘆息をかき消すように、タカナシの言葉を遮った。遮って、それぞれに念を押す。

「いいかタカナシ。重要参考人には被疑者のこと以外聞くな。夢原も、刑事には被疑者のこと以外喋るな」

 タカナシは肩を竦めて返事をしたが、夢原は返事を返した後、小さく笑みを零した。さすがの俺も、夢原に「笑うな」なんてことは言えなかった。

 俺はなんとも言えない気持ちを奥歯で噛み殺し、警察手帳と入れ替わりに写真を取り出した。一枚目は『トポグラフィー・マップ』と呼ばれる、人の涙から作られた地図が写った写真。二枚目はその裏面――事件前日の日付と、ローマ字で『ルイコ・ユメハラ』と書かれている。

「夢原。改めてニシムラ・リュウジについて聞くぞ」

「はい。分かりました」

 夢原はか細い両腕で分厚いファイルを抱え直し、俺を見上げて微笑んだ。

 本当に、どこまでも腹立たしい。


 確かにニシムラ・リュウジは、夢原を訪ねて、マップの作成を依頼した。事務所を閉めようとした際、滑り込みで入ってきたらしい。

「夜の十一時を回っていましたね。『自分の気持ちを確かめたい』と仰っていました。そうでしたか。やっぱり朝のニュースの方でしたか……」

 応接用のテーブルを挟み、俺とタカナシは夢原と向かい合うようにソファに腰掛けた。タカナシが夢原に質問し、俺は夢原に変化がないか観察する役に回った。

 夢原は、髪を頭頂付近でまとめ、ピンクのツナギを着た少女の姿をしながら、背筋を伸ばし、タカナシの質問に淀みなく応じていた。大人に負けないよう背伸びをしている子どもにはない、それこそ『大人の余裕』というものが、夢原から滲み出ている。

 トポグラフ・マッパー夢原涙子。人の涙からマップを作り、悩める人々の手助けをする存在は、匿名掲示板から日々発信されており、夢原の情報に限らず、ネットの海には毎日新しい情報が流れ込み、古い情報は流されている。

 タカナシの反応を見るに、夢原は『トポグラフ・マッパー』としての知名度が高いように思われる。しかし一部では、『夢原涙子はパソコンが一般家庭に普及し、ネット社会が構築される以前から存在する』説を唱える者がいた。

 いわゆる、夢原涙子という『個人の都市伝説化』である。

 ウン十年前から小学校五、六年生の姿で生きているという噂。成長しない夢原を周囲が訝しむ前に転居するという噂。没落した貴族の末裔にして、深窓の令嬢という噂。

 噂の後ろに噂がくっつけば、遠くない未来、大群になって夢原を押し潰さないだろうか。それだけが心配――いや、夢原の信奉者を名乗る過激派思想の者まで現れる可能性を考えて、『心配』という言葉を選んだのだ。けして夢原の身を案じてのことではない。

「『自分の気持ちを確かめたい』と言っていたんですね。夢原さんにマップの作成を依頼する方って、依頼内容が抽象的な表現をしてますよね。意味深というか」

 俺が自分を納得させている間も、タカナシと夢原の一問一答は続く。

「そうですね。ニシムラ・リュウジさんについては、駆け込みでやってきた方だったので、急ぎのご用時があるかと思っていたんですけど、対応は落ち着いていて、不思議なくらい普通でした。いえ、普通というより……確信を持って、私にマップを依頼してきたという感じでした」

「確信を持って? 『自分の気持ちを確かめたい』という依頼内容について、ということでしょうか?」

「ええ。確信を持っていて、でも明確な形にするためにマップの作成を希望したのではと。形にしなければ分からないこともありますから」

 そこまで言ってから、「あ」と思い出した顔をした夢原は「すみません。ニシムラ・リュウジさんにお渡ししたマップのコピーがあるのですが、ご覧になりますか?」と尋ねた。タカナシが俺を見たため、促すように頷いた。

 タカナシからも「お願いします」と促された夢原は、分厚いファイルの一つを取り、テーブルに置いて開いた。今まで依頼を受けた客のマップのコピーがきちんと整理されており、日付順に付箋を貼って整理している。

 どれひとつとっても同じ模様はなく、見ているこちらが目移りしそうなほどだった。俺が目を瞑って目頭を押さえると、夢原の小さく微笑む声が聞こえた。反対に、タカナシはまた騒ぎ出す。

「すごいですね! これ全部今まで依頼を受けて作成したマップですか?」

「ほんの一部です。マップは、一つとして同じ模様や風景のようなものは出てきませんから、定期的に整理してはいます」

 つまり、その人のために作られた、世界に一つだけのマップ。それを被疑者はバラバラにして現場にばらまき、姉も置いて失踪した。その理由にはまだ至っていない。

「確かマップは、涙を流した本人にしか読めないんですよね?」

「はい。私はあくまでも作り手ですし。『涙を流した本人にしか読めない』という抽象的な説明もさせていただいているのも、ご自分の気持ちを形にすることで、見えてくるものもあるという意味も含まれています」

 夢原が先ほど言った「形にしなければ分からないこともある」というのは、そこから来ているのか。ほぐした両目を開け、改めてファイルに入ったマップを見た。ちょうど、被疑者のマップにたどり着いたところだった。

「お二方は、最初にこのマップを見て、どう思いました?」

 夢原は俺とタカナシを見据えて言った。「分からない」以外の返答を希望しているようで、夢原自身も、自分の口から「分からない」以外の答えを出そうと、じっとマップを見つめた。

 俺には新芽なのかモヤシなのか、とにかく細長くてひょろっとしたものが地面から伸びる様子に見えた。二人に伝えると、タカナシは、「俺もそう見えますけど、縛られていたものに解放されたような感じにも見えます」と言った。

 ニシムラ・リュウジはなにかに解放され、その気持ちを確実なものにするためにマップを作った。では何から解放されたのだ。解放といえば、真っ先に発達障害の姉の世話が上がった。

 であるなら、状況は最悪だ。被害者は弟である被疑者に捨てられ、失踪した被疑者は開放感に満たされ、どこかでのうのうと生きていることになる。それがもし真実なら、俺は被疑者に、刑事として冷静に接することができないかもしれない。

 奥歯を噛み締めてソファから立ち上げると、タカナシの慌てた声が聞こえた。

「ホズミさん、ここに来てからちょっと変ですよ。どうかしたんですか?」

 察しの良い部下を持って俺は幸せ者だ。さらに奥まで察したように見えて、また気分が悪くなった。

 俺もさっきと同じように「なんでもない」と返し、まだ答えを出していない夢原に話を振った。

「夢原。お前の見立てはどうなんだ?」

 俺か、もしくはタカナシと同じか。何十人もの人間と出会ったトポグラフ・マッパーは、真剣な眼差しで俺を見上げた。

「開放感に涙しているように見えますが、それに対する高揚感が感じられません。それどころか、もの悲しさすら感じます」

 言い切る夢原の目は確かにプロのそれで、俺は目をそらさずにはいられなかった。

 ニシムラ・リュウジが確かめたかった思い。それぞれの答えが被疑者の心を正しく捉えていたかどうか。

 確証はまだ、ない。

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