トポグラフ・マッパー夢原涙子

遥飛蓮助

第一部

第一章:タイムマシンの作り方

一、ウサギがアリスに出会ったら

 午後五時三十分。急な階段と、縦長の壁に反射する靴音が焦る気持ちに拍車をかける。

 茶色く汚れた階段を降り切ると、中は上から見上げた時よりも暗い空間が広がっていた。目の前に扉らしきものが薄ぼんやり見える。ここが行き止まりで、入口らしい。

 僕は袖をまくって腕時計を確認した。午後五時三十二分。迷路のように入り組んだ道に惑わされたせいで、あと二十八分しかない。

 ここに来るまで、葛藤らしい葛藤がなかったわけじゃない。でも時間は待ってくれない。限られた時間を賭しても、僕は彼女に会わなければならない。

 トポグラフ・マッパー夢原涙子。彼女は、僕の大事なものを探してくれるのだろうか。

「はーい」

 扉らしきものをノックすると、向こう側から間延びした声が聞こえた。


 迎えてくれたのは、小さい女の子だった。

 僕も男子高校生にしては百六十センチぐらいしかないが、彼女は輪をかけて小さかった。いや、小さいというより――。

(しょ、小学生?)

 太ももが露わになった裾の短いオーバーオール。白いTシャツの上からピンクのパーカーを羽織った小学生が、僕の目の前にいる。

 人のことは言えないが、なんでこんなところに小学生がいるのか。思ったままの言葉が出そうになった時、先に女の子が口を開いた。

「あのー、依頼人の方ですか?」

「は、はい」

 反射的に答えてしまった後、今度は僕から女の子に尋ねた。

「えっと、夢原涙子さんの妹さんですか?」

「いえ。私がトポグラフ・マッパー。またの名を、夢原涙子です」

「うそ」

 口を手で押さえるのが遅かった。慌てて口を押さえた僕に、彼女は「本当ですよー。こんななりしてますけど」と笑った。

(だったらもう少し服装を考えてくださいよ。いや、それよりも『またの名を』ってなんですか)

 言いたいことを飲み込んでから手を離すと、袖の下の腕時計が目に入った。

 午後五時三十五分。残りあと、二十五分。

 依頼人であると打ち明けてしまった手前、本当は迷っただけですと言って引き返すこともできない。手短に用件を伝えて帰ろう。走ればきっと間に合う。

「まぁ立ち話もなんですし、お話は中で聞きますよ。散らかってて、なんのお構いもできませんけど」

 はにかむように笑う夢原さんは、束ねたポニーテールを旗のように翻すと、僕を室内へと導いた。


 夢原さんは散らかっていると言っていたが、実際は部屋の右手にある応接用のテーブルに、分厚いファイルや仕分け途中らしい書類の数々が雑然と積んであるだけで、部屋自体に乱雑な印象はなかった。

 テーブル側の壁に残りのファイルをしまった棚。左手に流し台と小さな冷蔵庫。壁には顕微鏡で見た雪の結晶のような、どこかの地表を撮った白黒写真のようなものが何枚か飾られていた。

 彼女の机は部屋の奥、テーブルを挟むように置かれたソファの後ろにあった。

 机の上にパソコンのディスプレイとキーボード、大きめのタブレットが置いてあり、机の下から本体のモーター音が響く。ディスプレイは両手を広げても足りないぐらい大きく、キーボードは文字がすべて剥がれていて、長年愛用しているのが分かるほど表面が光っている。彼女の見た目に相応した女の子らしい小物や、ぬいぐるみの類はなかった。

 唯一女の子らしいといえば、『不思議の国のアリス』のモチーフが動くスクリーンセーバーくらいで、白ウサギが懐中時計の周りを走っていた。つられて僕も自分の腕時計を確認する。

 午後五時三十八分。残りあと、二十二分。

「今日はオフだったので、ちょっとファイルを整理してたんですよー。普段片付けに割く時間がなくてですね。朝からやってるわりになかなか終わらないなんので。これでもわりと片付いた方なんですよ?」

 こちらが尋ねなくても、彼女は勝手に喋りながらテーブルの上の物を寄せていく。

 人の物に触れるのは憚られたが、用件を伝えて早く帰りたかったのと、彼女が自分の身丈を度外視してファイルをまとめて棚にしまおうとしていたので、僕も片付けを手伝うことにした。

 普通の人ならファイルを落としたら拾ってしまい直す程度のことでも、彼女の場合、手元が狂った拍子にファイルの下敷きになるというハプニングが起こりそうだったからだ。それぐらい見た目が幼く、とても『トポグラフ・マッパー』なる仕事をする人には見えない。

「手伝ってもらっちゃってありがとうございます。どうぞ座ってください」

 片付けが終わると、僕は勧められるがままソファに座った。夢原さんも机のタブレットを持ち、指で叩きながら反対側のソファに座る。慣れた手つきで画面を横にはじく姿が小学生じゃなければ、バリバリ仕事ができる女性に見えたかもしれない。

(タブレットよりスケッチブックの方が似合いそうだな)

 このくらいの歳の女の子だったら、どんな絵を描くのだろう。アニメのキャラクターか。好きな食べ物か。好きな動物か。それとも。

(それとも?)

 頭の隅に引っかかるものを感じた。『それとも』の続きが出ず、首を傾げる僕を夢原さんが不思議そうな顔で眺めていた。

「どうかしましたか?」

「あ、いえ。なんでもありません」

 おそらく気のせいだろう。気を取り直して単刀直入に尋ねた。

「あの、トポグラフ・マッパーって、人の涙から地図を作る地図屋のことですよね。ネットで『人の涙から作った地図で、なくしたものが見つかった』って書き込みを見て、なにかの手がかりになればいいなと思って来ました。大事なものなのは分かるのですが、いつなくしたのか、どんなものだったのか思い出せなくて。その地図を使えば、僕の大事なものも見つかりますか?」

 さっき時間を確認してから、最低でも二分は経っている。残り二十分。このまま畳みかければ。

 夢原さんは僕を見つめた後、目を伏せてタブレットをテーブルに置いた。気の抜けるような口調や振る舞いから想像できないくらい、静かな動作だった。

 背中に緊張が走る。

「人の涙から作った地図のことを『トポグラフィー・マップ』って言うんですけど、確かに落とし物を探すためって理由で来る依頼人の方はいますね」

 書き込みは本当だった。安堵を覚えて顔が緩む。

「失礼ですが、お名前を伺っても?」

「タカトシ、あ、スギウラ・タカトシです」

 夢原さんは両手を重ね、自分の膝に置いた。それから僕を見据え、落ち着き払った様子で口を開いた。

「スギウラさん。私は、あなたのご質問にお答えすることはできません」

(……え?)

 緩んだ顔が一気に強ばった。『できかねる』という譲歩した言い方ではなく、夢原さんはきっぱりと、『できない』と断言した。

「ど、どういう、こと、ですか?」

「すみません。そのご質問にもお答えすることはできません」

 絞り出した声に対し、彼女は助け船も、すがる藁も投げてはくれなかった。それはつまり、彼女の力でも、僕の大事なものを探すことができないということか。

 予想外の事態だ。緊急事態だ。僕は藁の代わりに、手汗をかく両手で拳を作る。頭の中で鳴り響く警告音と、彼女のパソコンから聞こえるモーター音が重なってやかましい。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。彼女も駄目だったら、僕は、僕はどうしたら。

「お答えすることができないのは、あなたの大事なものは、あなた自身が探すからです」

 ――僕が、探す?

「それって、夢原さんでも手に負えない依頼だからですか?」

 だから、だから彼女はまどろっこしい言い方をするのか。私は探すことはできないから、自分で探しなさいと。暗に伝えたいのか。

 拳を強く握り絞め、彼女の様子を窺う。夢原さんも僕を見据えたまま、首を振った。

「いいえ。私はどんな依頼でも、人の涙から地図を作ります。ですが」

「だったらさっさと作って探してくださいよ!」

 しびれを切らした僕は、テーブルを強く叩いて勢いよく立ち上がった。これでは埒があかない。どうしてはっきり言ってくれないのか。もったいぶった言い方はもうたくさんだ。

「さっきから聞いていれば、なんなんですか? 僕が未成年だからって、高額な依頼料をふっかけるつもりですか? いいですよ? 依頼料ならいくらでも払いますよ! 僕の大事なものと比べたら! だからさっさと!」

「スギウラさん。落ち着いてください」

 夢原さんは僕を見上げる姿勢になっても、重ねた手を離すことも、取り乱す様子もなかった。諭すような言い方が、余計癇に障る。

「……もういいです。失礼します」

 頭の中は熱いのに、背中と足先が寒い。声を荒げるなんて、自分じゃないみたいだ。

 震える拳を握り直して、僕は彼女に背中を向けた。そうだ。僕は帰らないといけないんだ。今から走ればきっと。

「スギウラさん」

 後ろから彼女の声が聞こえた。依頼人が怒って帰るというのに、なぜ呼び止めないのか。お詫びの一言もないのか。

 そんな人に依頼をしようとした僕が馬鹿だった。彼女とはもう、これっきりだ。

「あなたは、本当に大事なものを見つけたいと思っていますか?」


 当たり前だろ。大事なものがなんなのか分からないのだから、見つけたいと思うのは当然じゃないか。

(二度とあんなところへ行くもんか!)

 僕は狭い階段を駆け上がり、薄暗い裏通りから大通りへと飛び出した。初夏の空は明るく、夢原さんがいた地下と地上の温度差から汗がにじむ。

 走りながら、時計を確認した。午後五時五十五分。

 あと五分。時間は多少前後するかもしれないが、用心するに越したことはない。

 部活帰りの学生や、仕事帰りの会社員の間を走り、大通りを抜けると同じ家が並ぶ住宅街へ入る。

 手前から数えて四つ目。赤いポストを置いた家に駆け込んだ瞬間、前に出した足で地面を踏みしめて立ち止まる。

「おかえり」

 その人は、ちょうど玄関のドアを開けたところだった。

「たっ、ただいま、帰り、ました」

 肩で息をしながら、僕はその人を見た。ドアガラスに日光が反射して、最近増えてきた白髪が透けて見える。

「さっき家政婦さんから言伝を聞いたぞ。そんなに急いで帰る必要はなかったんじゃないのか」

「あ、はぁ、そうなんですけど」

 そういえば、服を着替えて夢原さんのところへ行く時、家政婦さんに『友達と会うから六時までに帰る』と言伝を頼んでいたんだった。間に合わなかった場合の保険として。

「――そうか」

 その人は僕を追及するように口を開いたが、出たのは一言だけだった。

 他の家からは夕食の匂いや、帰宅時の挨拶が聞こえるのに、僕とこの人の間には微妙な空気があった。

 どちらかが口を開くまで、どちらも口を開かない状態が何年も続いている。僕がこの人に敬語を使うようになった時期も分からない。

「……」

 息が整った後も、僕は俯いて押し黙る。

 言伝を頼んだのだから、急いで帰る必要はないのではないか。この人は、僕が理由を話すのを待っている。

 肌を刺す視線が、初夏の日光より痛い。でも僕に言うつもりなどない。だって本当のことを言ったら、夢原さんはともかく、僕はこの人に。

「今日はカレーだそうだ。お前も早く入れ」

 視線を上げると、脱いだ背広を腕に引っかけた、ワイシャツ姿の背中が家の中に入っていく。家の中は、夢原さんのいる地下より、暗く、重い。

 玄関のドアが閉まると、口から小さく息が漏れた。よかった。これで僕は。

 僕も玄関の前に立ち、深呼吸をしてからドアノブに手をかけた。

(ごめん、父さん)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る