其ノ弐拾伍 終戦ニツイテ

 間もなく車は獣道を出て、林道に差し掛かった。

 つんざくような音が上空を通過し、白いカラスたちが脇の林よりいっせいに飛び立つ。遠退いていく騒音は、ソ連のヤコブレフ戦闘機によるものだった。細い軍道は天蓋に枝を伸ばす木々で隠されているため、日本兵たちには気付かなかったようだ。


 直後、後方からも爆音が轟いた。ちょうど支部があった辺りから黒煙が昇る。

 時限起爆装置が作動し、ようやく任務が完了したのだ。緊張の糸が切れたのか、隆の部下たちからは密やかな歓声さえ上がった。



 正規の道に合流してさらに南下すると、徐々に樹木は退き、懐かしい平原が広がった。

 あとは目的地までほぼ無言だった。支部から脱出する際に得た情報を頼りにさらに南下した一行は、やがて小規模な集落を横断する線路へと到達した。

 鉄道車両の手前で、一旦、隆が車を停める。

「富察王龍、おそらくソ連軍も君らにとっては解放軍となるだろう。自分たちといるよりは降りたほうがいい」

 黒木大尉もきっとこうしたのではないだろうか。隆少尉が倣うべき彼は、もはや想像上のものでしかなかったが。

 だから進行方向からは顔も動かさずに、隆は中国人親子へと言った。すると躊躇するような仕草のあと、王龍と麗春はおずおずと車体を離れた。


「……ありがとう、ございました」

 珍しく下手な日本語で王龍は述べ、娘と揃って頭を下げた。父親の胸中にある複雑な情感は誰にも計れなかったが、泣いているようだった。そのため隆は黙ったまま軽く振り返り、富察親子に微笑みかけるのが精一杯だった。

 列車が汽笛を鳴らすと、隆は車を前進させた。王龍と寄り添う麗春が手を振り、少尉の部下と千鶴が同様にして応えてやっていた。


 線路のそばで自動車の速度を落とすと、停まりきらないうちに隆たちは降りた。

 ゆったりと始動しだした貨物列車と並走し、負傷者を持ち上げて乗せ、乗車した者たちはあとの者の搭乗を手伝った。先に乗った隆は妻のしなやかな腕をつかみ、ぐいと引き寄せて脇を抱き、車内に寝転がった。


 有蓋の貨車であった。

 居留民とも軍人ともつかぬ人々でごった返しており、いちおう搭乗者の区分けがなされているようだったが、飛び入りの隆たちに車両を選別している暇はなかった。それでも、敷かれたアンペラの上ではあるが、自宅の布団にいるように彼らは寝そべった。


 疲労感がどっと押し寄せてきて、線路が刻む振動さえ子守唄のようだった。開いている扉からは、景色も楽しめた。

 涼しい風に吹かれてようやく落ち着いた隆は、やっと、もはや過去となった奇怪な出来事を追想することができた。そして、あんな怪異に遭遇したというのに、差し迫ったソ連軍との戦いにそれを忘失しかけていた自分に驚いてもいた。

 内地に帰ったら、生き方を真剣に模索せねばならないだろう。これまでの価値観が、根底から覆される時代が訪れるのかもしれぬのだから――。


 そんな思いを抱き、ふと、仲間たちはどんな心気でいるのかを確認したくなって、隆は車内を見渡してみた。

 しかしわかったのは、誰もが疲れきっているということだけだった。きっと先の出来事だけでなく、この戦争を通じて蓄積されたものだろう。

 妻が夫の肩にもたれかかってきた。安らかな寝息だった。


 少尉たちの寄りかかる壁の反対側には、憲兵の斉藤衛が背を預けていた。立て膝で座り、口を半開きにして車外を傍観している。

「上等兵、どうかしたのか」

 隆が訊くと、斉藤は遠い目で呟いた。

「……敗戦国ですからね。帰国しても、焦土になってしまっているのではないでしょうか」

 憲兵の視線に釣られて、隆も茫洋たる大草原を展望した。黒木大尉や、戦没者たちに対する様々な想念が胸を打ち、少尉の目頭は熱くなった。


「メリケンといえども、国ごと吹き飛ばすことなどできはしないだろう。とにかく今は助かったんだ」

 折原隆は言明して小さく鼻を啜り、そこからは何者にも聞こえないような小声で独白した。

「あるいは時と場合によっては、あの〝顔〟とも共存することができたのかもしれない。……いずれにせよ、誰もあんなものがいたことすら知りはしないだろうが。せめて、おれたちは憶えていよう」

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