其ノ弐拾 狙撃ニツイテ
黒木大尉が地下に降りた頃。彼を除く特別部隊の全員は、三階の所定の位置に爆弾を設置していた。それが済むと、隆と斉藤を含む数名がさらにわかれて屋上に登った。
雨はやんでおり、夜明けの時報のような狼の遠吠えが聞こえていた。割り当てられた作業が進められていくうちに東の空は白み、だんだんと薄い青さを湛えていく。
彼らは高置水槽の底部にも爆薬を仕掛けた。そこを壊すと設計上、黒木大尉が扉を開けてさえいれば流れが通り、発電室を含む大部分までが水に浸かるのだ。支部を水浸しにすることでカ号を倒せるはずなのである。
加えて彼らは、すでに崩れている箇所と新たに爆弾で穴をあける階下の構造も計算し、カ号の逃げ場をなくすよう流水を行き渡らせる工夫をしていた。
三階ではボリスと千鶴、彼女を護衛する二人の兵士が待機させられている。
千鶴は、屋上の爆薬から伸びる束ねた電線とそこに接続された起爆装置を託されていた。民話において竃神の絵を退治したのは若い嫁なので、あやかって爆破の役目を負ったのだ。
屋上での作業は順調に進んでいた。それだけに、やにわに平穏を乱した響きは、隆たちの耳に幻聴のように聞こえた。
一発の銃声。
紛れもなく、階下からだ。
兵士たちは緊迫し、隆少尉はすぐに指示を飛ばした。
「作業を継続してくれ、様子を見てくる」
言い終えるより早く、彼は踏み出した。
だが三階の床に靴を置いたとき、騒動は悪い方向で決着がついていた。千鶴と兵士の一人が倒れ、もう一人の護衛は頭から血を流して絶命していたのである。
「千鶴、しっかりしろ! どうしたんだ?」
「……ボリスに、逃げられました」
苦しげに上体を起こしながら、隆の妻は訴えた。
護衛はボリスの実力を見誤っていた。ソ連人の捕虜は、上の動向を心配して気を逸らした日本兵の虚を衝き、一人を殴って気絶させ銃を奪ったのである。もう一人が対応しようとしたが、千鶴を羽交い絞めにして盾にしたボリスは相手が怯んだところを撃ち、千鶴を突き飛ばして逃走したのだった。
もはやソ連人の足音すらも聞こえないが、追いかけるよりも有効な方法があった。ために少尉は急いで踵を返した。
「ボリスが逃走した!」
屋上で隆が告知した刹那、広場で花火が上がった。煙を靡かせながら昇天した発光体は、紛れもない信号弾である。
俯瞰すれば武器庫の手前に、そこから調達したらしい十年式信号銃を握る巨漢がいた。ボリスだ。
すぐさま、彼は北の出入り口の門を目指して駆けだした。
「撃てるか?」
隆の問いに、部下の狙撃手が屈んで銃を構えた。
素早く目標を狙い、発砲する。弾丸は、ボリスの足元で砂煙を上げた。彼はもう、出口を間近にしている。
「まずいぞ、敵本隊はボリスの要請を受けて近辺にいるはずだ。こちらも連絡を取ったほうがいいな」
隆が部下に命じると、担当の兵士は無線通信機での交信を始めた。
――カ号は電波を妨げるらしいので再度試みるのは任務完了後のつもりでいたが、こうなっては仕方がない。あるいは黒木大尉の対応次第ではカ号兵器が抑制され、成功する可能性もあった。備えておくのも無駄でないはずだ。どうせすぐに撤収するのだから、蓄電池を惜しむこともない。
そんな思索をしながら、隆は部下が受話器に耳を澄ませ、味方に呼び掛けるのを見守った。そこでふと、彼は異変を察知した。最初の一発を撃ったきり、狙撃銃が次弾を放たないのだ。
不審がりながら隆が狙撃兵に近寄ると、相手は銃を構えたまま小刻みに震えていた。
「大変です、少尉」
照準器を覗いたまま兵士が囁く。
彼の視線の彼方には、ちょうど支部の敷地を抜け森に入っていくボリスがいた。敵は逃したが、黒木大尉のほうにも成果があったらしい。カ号が脱出を許したのだ。
けれども狙撃手を怯えさせるような事態は、どこにも迫っていないかのようだった。
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