其ノ拾壱 中国人ニツイテ
一行は迅速に行動を開始した。
折原隆少尉率いる第二班は順調に使命を遂行し、男大首との遭遇はいくらかあったものの、経験を活かした的確な判断と何度か往復して把握した安全地帯の確保とによって、どうにか死傷者を出さずに乗り切ることができた。
ただ、黒木大尉の懸念は現実のものとなった。ソビエト連邦軍の足跡らしき弾痕と薬莢はあったが、持ち主たるソ連兵の姿がなかったのだ。
他方、黒木を班長とする第一班は、二階の安全地帯への爆薬装置はできたものの想定外の事態と出くわすことになった。
施設の責任者である宇賀神軍医中佐の私室の正面を通りかかったとき、内部から物音がしたのだ。
そばにいた斉藤が手信号で班員を招き、兵士たちは部屋の前に集合した。構えが万全なものとなると、憲兵が戸を蹴破る。
「う、動くな!」
室内は明かりが点いておらず、警告した斉藤の探見電灯によって照らされた。
たちまち、潜んでいた人影が浮かび上がる。そいつはからっぽの本棚の裏に半身を隠そうとしたが、途中でもはや遅いと悟ったのか、両手を挙げて降伏した。
「そのまま反転するんだ」
恫喝する黒木大尉に、影はおとなしく従った。
黄色人種だった。
中国服を着た浅い色の肌の、若い男。服は清潔だが、顔は汗と埃で薄汚れていた。彼は怯えたように首を傾け、遠慮がちに言った。
「ヨウ メイヨウ レン ノン チャン チョンウェン?」
「中国人か」
ほっとしたように黒木が呟く。探見電灯が照射されると、満州に滞在している日本兵たちには見慣れた、中国人の顔立ちがそこにあった。わりと美形な青年で、眩しそうに小さな目を瞬かせている。
「ソ連の部隊と交戦していたのはお前か」
中国人の腰の
「芝居はよせ、ある程度は日本語が通じるはずだ。だからこそ、警告に応じてその格好をしたんだろう」
顎をしゃくった黒木が、相手の腰元の武器を目線で示した。中国人が自分の身体を見下ろして、肩を落とす。
「何者だ?」
大尉が改めて訊くと、諦めたように中国人は答えた。
「……
黒木大尉は第二班を呼び寄せた。
関東軍の精鋭であり、満州に滞在している彼らは誰もがそれなりに中国語がわかるが、隆は特に堪能で、ソビエト語や英語もできたためだ。もっとも通訳をするまでもなく、富王龍もかなりの日本語ができるようだったが、別な意味で対話は難航した。
彼は話し自体を拒み、自分のことすらろくに語ろうとしないのだ。
「こ、こいつ、見覚えがあります」
「わたしもです」
憲兵の斉藤と技手である千鶴は、それぞれが、王龍と名乗った中国人について助言した。
黒木大尉は、嫌な命令を思い出しながらも尋ねる。
「……では捕虜か?」
「だとしたらこんな上等な服は着ていませんよ」大尉の指摘を否定して、斉藤は私論を述べる。「そういえば自分が見たのは、捕虜の集団が収容所に入れられる際、付近を歩いていた彼がそいつらから罵られるところでした」
「わたしが覚えてるのは、軍医中佐と話しているところです。中佐は親しげな感じでしたけれど……」
続いて千鶴が言ったことに、黒木は驚いた。
宇賀神中佐は支部の最高責任者なのだから、そのような関係があったなら、この中国人も相応の人物かもしれない。であるならば、同郷の仲間から嫌われていてもおかしくはないだろう。
「貴様、いったい誰なんだ?」
斉藤に銃を突き付けられて跪いている王龍は、挑むような目付きで大尉を仰いだだけで、黙止したままだった。
日本人たちは籠目をするように彼を囲んでいた。余った隊員は、部屋に残っていた資料を漁っている。
どうやら、処分すべきものとそうでないものとを選別している段階だったらしい。そうした作業が、顔の襲撃で中断されたような散らかりかただ。
「もう一度だけ訊くぞ、王龍」進展しない尋問に苛立ち、黒木はついに短銃を抜いた。銃口が王龍の額に当てられる。「どういう理由でここにいた」
頑なに口を閉ざしていた王龍の顔が、そこで初めて恐れの色に染まった。けれどもそれは、死への恐怖というよりなにかを失うことへの危惧に似ていた。
「
「命が惜しくば答えることだ」
泣きそうな顔で王龍は弁解した。
「言えない……、わけがあるんだ」
黒木大尉が引き金に指を掛けると、中国人はきつく目蓋を閉じた。千鶴が思わず顔を背けた。ものの、いつまでたっても銃声はしなかった。
王龍が薄目を開けると、大尉はすでに銃を下げていた。
標的が安堵の息をつく。直後、黒木大尉は銃底で彼の顔面を殴打した。中国人が頬を抑えて転倒し、机に突っ込んで低く呻く。
「……それで勘弁してやる」
吐き捨てた黒木は、室内を探察している部下たちを振り返った。
「成果はあったか?」
「大部分は廃棄されているようですね」棚のそばにいた兵士が口答した。「ここにあるのは大尉が仰っていた、病原菌や薬物、電波などによる実験記録のようです」
「分隊長、これを!」
反対側の戸棚を調べていた兵士が声を上げた。中国人を見張っている斉藤を除いたみなが、そちらに群がった。そこにいた兵士は束ねられた資料を手にしており、ある
「あいつだ。奴に瓜二つじゃないか!」
隆は叫び、全員が震駭した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます