其ノ陸 大首ニツイテ

「だめです!」

 そのとき突然、金切り声が飛んできた。全員の視線が音源の後方に集束する。

「あなた、早く逃げてください!」


 廊下の反対側から駆けてくるのは、若い女性だった。

 瓜実顔の美女である。ほっそりとした肢体に白い肌。踏みだすたびに、艶やかな長い髪が揺れていた。


「千鶴、無事だったのか!」

 隆の心は花火のように晴れた。それは彼の妻だったのだ。

 黒木大尉も安堵して、胸を撫で下ろした。兵士たちは状況に呑まれかけたが、あまり猶予もないので後ろを気にしながらも室内に入っていった。


「離れてください! 化け物が――」


 そこで、小さな唇を目一杯開けて叫んでいた千鶴の声音は途切れ、彼女は凍りついて、視線を通信室に張り付かせた。隊員たちもただならぬ気配を感知して、すぐさまそちらに注目した。


 ――顔だ。


 厳つい顔貌で険しい形相の、壮年男性らしき顔がある。平面で厚みが一切なく、モノクロで輪郭は凸凹しており、東洋人のようだが、生身の人間というより古い人物画みたいな、非現実的な人面だった。

 しかもそれは生首なのだ。

 おまけに頭部だけでありながら、兵士たちより倍以上もでかい。さっきまでそんなものはいなかったはずが、いつの間にか、がらくたと化した通信設備の上に鎮座しているのだ。


 あまりの出来事に、時間が止まったようだった。

 悲鳴は遅れて聞こえた。少なくとも隆が耳にしたときには、すでに先頭にいた二人の兵士は上半身を化け物の口腔に収めていた。余った四本の脚だけが血飛沫の中を泳いでいたが、〝顔〟が顎を動かすと全身が吸収された。

 我に返った残りの人員が急いで部屋を出る。

 まだ茫然となっていた隆の鼻先で扉が閉ざされた。黒木大尉が機転をきかせたのだ。彼は扉を押さえたまま、そばまで来ていた夫人を見返った。

 隆も自らの立場を思い出し、妻の肩を抱くようにして訊いた。


「なんだ、あいつは!」

「わかりません!」欧米人のような大仰な手振りで、千鶴はがなった。「みんなあいつに殺されたのです!」


 部隊は静寂に覆われた。みなの乱れた息遣いだけがしばらく響いたあと、彼女はやっと、落ち着いて話しだした。

「……わかっているのは、あいつが全部の電線管とそこに繋がる機械類から現れること、物をすり抜けられること、口に入れたものを消し去れるということだけです」


 隆たちは背中に冷や水を浴びせられた気分だった。

 彼女の訴えが本当なら、電気機器が溢れるなかをここまで辿り着けたのが奇跡だ。通信室の扉を閉ざしても無駄なはずである。疑問は黒木大尉も同じらしく、彼は言った。


「こ、ここに至るまでに、そんな兆候はなかったぞ。だいいち、ならばなぜ今襲ってこない?」

「……あの顔、それなりにものを考えることができて、なにかを企てているみたいなのです」


 千鶴の発言に、隊員たちは騒然となった。

「畜生!」

 怯えた兵士の一人が軽機関銃を天井に構えた。狙いは、電線管に定められている。


「いけません!」その銃身を両手で押し下げ、千鶴が必死でたしなめた。「どうしてかは知りませんが、あいつは普段はたまにしか現れないのに、住処を攻撃されると必ず襲ってくるのです!」

 迷うような兵士の視線が、千鶴のものとぶつかる。

「あの顔に食べられるとみんな消えてしまいます!  遺体や血痕まで舐めとられて、存在の形跡すらまともに残りません。銃弾も爆弾もきかない、殺されるだけです!」


 千鶴の主張は、隆たちが出会ってきた光景と合致もしていた。

 小興安嶺支部内から失われていたあらゆるものは、あいつのせいかもしれない。瞬く間に隊員二人を呑み込む素早さである。


「一等兵、銃を下ろせ」

 夫人に同調するように、黒木大尉が命令した。迷っていた兵士が直ちに銃口を下げる。


「おまえはどうやって生き延びたんだ?」

 隆が千鶴に尋ねると、彼女は浮かぬ顔で答えた。

「電気が流れていないところには出てこないみたいでしたから、あれとの戦闘での損傷で電線が遮断された通路に隠れていたのです。懸命に戦おうとする人や逃げようとする人ほど、早く殺されていきました……」


 廊下の静けさが、証言の重大さを増していた。

 たちまち兵士たちがざわめきだす。


「あの顔、生きているのか?」

「いや、まるで幽霊のようだったが」

「あんなことをする幽霊など聞いたこともない」


「……大首おおくびだ」


 隊員たちの会話の最後を飾ったのは、黒木大尉だった。部下たちが彼を見やると、俯いていた部隊長は面を上げた。

「江戸時代に現出したという、巨大な女の生首の姿をした妖怪だよ。先刻の顔も、幽霊というよりは妖魔の類のようだった」


「けど今のは、男でしたよね」

 上官の話に隆が応じると、大尉は頷いた。


男大首おとこおおくびか」


 黒木大尉による命名は、怪物の特徴を簡潔かつよく表現しており、奴の恐怖が甦るようで、場はまたも沈黙に閉ざされた。

 そんな中で、千鶴がそっと夫に身を寄せ、弱々しく耳打ちした。


「ごめんなさい、あなた。本当のことを言えなくて」


 勤務先を偽っていたことについてであろうと察して、隆は張り詰めた状況のために冷や汗を掻きつつも、妻に優しく微笑みかけた。


「上からの指示なら是非もない。それより、おれたちが記録だけでなく、この世からも消されないようにしなきゃな」


 二人は顔を近づけ、口づけを交わしそうになる。

 コホン、と、夫婦に見入る兵士たちの中で黒木が咳払いして忠告する。


「すまんが、後にしてくれないか。状況は切迫しているのでな」


 はっとした折原夫妻は、恥ずかしそうに身を引いた。

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