第62話 嫉妬

「――それじゃあアニキ! 失礼します!」


 元気よく別れの挨拶を言う千明を見送った後、俺と彩乃先輩は二人でクッキーをポリポリと食べていた。


 沈んだ様子だった千明が元気になったのは、多分俺が首を縦に振ったからだろう。


「よかったの? 新田君のお願いをきいちゃって」


「だってあんなの断りづらいじゃないですか……。俺だって本音は静かに暮らしたいですよ」


 千明は俺にぶれない強さがあると言ったが、全然そんな事ない。現に千明に流されるままになっているのだから。


「ふーん。……まぁでも困ってる人を何だかんだ言いながら助けちゃうのは政宗君のいい所だと思うけどね」


「……はぁ。そうですかね」


「そうだよ。普通の人なら道端に落ちてる人を自分の家に上げたりしないしね」


 そう言い笑みを浮かべる彩乃先輩。一瞬何の事を言っているのか分からなかったが、彩乃先輩の優しい笑みで思い出す。


「あ、あれは例外です。俺じゃなくてもうちの生徒だったら彩乃先輩が家の前にあんな状況でいたら誰でも助けるでしょ」


「そうかもね。でも政宗君はもしあの場所にいたのが私じゃなくて別の人だったとしても、見て見ぬふりはしなかったでしょ?」


「そ、それは……まぁ」


「やっぱりね」と言いながら笑う彩乃先輩に言い返す言葉がない。


 上手く言いくるめられた悔しさと共にクッキーを頬張ったその時、あることを思い出す。


「そうだ。彩乃先輩」


「ん? 何かな政宗君」


「生徒会長選挙の応援演説について何ですけど――新田の応援演説をやってもらえないかと思って」


 千明の事があったから忘れてしまっていたが、新田の応援演説の件を彩乃先輩に頼むんだった。


 すると、さっきまでニコニコ笑っていた彩乃先輩の表情が一変し、ブスッと機嫌の悪い表情になる。


「……ふーん。政宗君から私に紫帆ちゃんの応援演説を頼むなんてね」


 一気に機嫌が悪くなった彩乃先輩。多分というか絶対俺が新田の話題を出したからだろう。


「い、いや。あいつ結構困ってるみたいだったから……」


「本当に? 本音は紫帆ちゃんの評価を上げてムフフな事でも企んでるんじゃないの?」


「そ――そんな事あるわけないじゃないですか!!」


 疑いの感情成分満タンのジト目で睨まれるが、俺にそんなやましい気持ちは微塵もない。


 彩乃先輩は俺との距離をジリジリと詰めていき、背後にはボロアパートの薄い壁しかなくなる。


 四つん這いで迫ってくるものだからチラチラと覗く胸元に嫌でも視線が行ってしまう。こ、こんな攻撃は卑怯だぞ!


「ちょ、ちょっと何すか。何で無言で近付いてくるんすか!」


「……」


 問いかけても応答はなく、ただひたすらに距離をつめる。


 四つん這いという格好もあり、端からみれば肉食動物に襲われている草食動物といっか感じか。……いや、狩人に追われる動物か。


「――政宗君」


 眼前に迫った彩乃先輩の瞳にキョドった様子の俺の顔が映る。相変わらず凶悪な顔だ。


「は、はい!」


 吐息を感じられる距離。酸素が薄くなるなんてあり得ないと分かっているのに、何故か呼吸がしづらい。


「……本当はどうなの」


「……本当、とは」


 俺から目線を外した彩乃先輩は、斜め下を見つめながら口を尖らせる。


 ごにょごにょとしたその口調はいつもハキハキと喋る彩乃先輩とはかけ離れており、聞き取りずらい。


「だから……っ! ――紫帆ちゃんの事」


「新田? 新田がどうかしたんです?」


「……ッ! もう! 鈍いわねこのヤンキーはっ! 紫帆ちゃんの事を本当はどう思ってるのって聞いてるの!!」


 俺にとっての新田紫帆は同じ学年の生徒で、最近話すようになった人間としか言いようがない。


「どうって……。友達――とはいえないし、友達寄りの知り合いって感じですかね」


「でも最近距離が近いじゃない! 紫帆ちゃんってあんなキャラだから、多少は好意がないと自分からクッキー渡すなんてあり得ないし!」


 いや、新田は義理堅い人間だから嫌いな人間相手でもきっちりお礼はすると思うが……。


「ちょ、ちょっと落ち着いて下さい彩乃先輩」


 若干触れていいものか迷ったが、意を決し彩乃先輩の両肩を掴み押し退けるようにして距離を取る。


 すると、


「……私を……拒絶する……の……?」


(え……嘘だろ)


 彩乃先輩の大きな瞳がうるうると輝き出す。この人なら嘘泣きの線をあると考えたが、どうやら本気だ。


「あ、彩乃先輩! 何で泣くんすか! こんな簡単に泣くような人じゃないでしょ!」


「だ、だってぇ……!」


 ま、まずい。このままじゃ女性を泣かした悪い男になる。


 彩乃先輩を落ち着かせる為にはどうしたらいいんだ……!


「――彩乃先輩」


 ふぅっと息を吐く。


「新田とは何もありませんし、ただ同じ学年の人間というだけです。それに――こ、好感度的なあれでいえば、あ、ああ、彩乃先輩の方がた、高いでしゅよ」


 ……噛んだ。


 噛んでしまった。


 とんでもなく恥ずかしい言葉を吐いたから口の筋肉が言うことを聞かなかった。


 羞恥という名の炎に身を焼かれていると、


「……えっと。彩乃先輩?」


 俺の顔は今極限に赤いのだろう。だがその赤さを凌駕しているのではないかと思うほどに、彩乃先輩の顔は真っ赤っかに染まっていた。そして何故かにやけている。


「……し、しょんな事を言っても許しゃないんだから……っ!」


(噛んだな……思いっきり)


 そして彩乃先輩はわなわなと口を震わせた後立ち上がり、


「か、帰る……!」


「え、ちょ、彩乃先輩!」


 俺の制止を求める声など聞かず、置いてある自分の鞄を取りそそくさと玄関へ向かう。


 だが途中足がもつれたのか「痛っ!!」みたいな音と共に大きな物音が響く。


「だ、大丈夫――ッッ!!」


 慌てて転んだ彩乃先輩に駆け寄ると……見えちゃいけない物が目に映る。


 ――黒、か。意外に大胆な物を身に付けておいでのようで。


(落ち着け落ち着け落ち着け。見えた事はバレてないんだから!)


「……ふぅ。――大丈夫ですか?」


「う、うん! 大丈夫だから! そ、それじゃあね!」


 彩乃先輩は「あはは、転んじゃった」と言いながらそそくさと家を飛び出していく。扉の向こうに見えた外には、黒塗りの高級車が見えた。一体いつから待機してたのか。


「……はぁ」


 俺は一人になった家の玄関で、スイッチが切れたようにドサッと勢いよく座り込む。


 そうすると精神的な疲れと共に、自らが発した悶え成分配合のセリフが頭の中でリピート再生される。


(ああ……。マジで恥ずい。何であんな事……)


 顔が熱い。


 頭を抱えながら考えるが、辿り着く答えは一つ。――俺が本当にそう思っているからだ。


「……今日は寝る前に走るか」


 ――だがその後、黒い物を見るたびに『あれ』が思い出されるようになったことを、この時の俺はまだ知らないのであった。

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