数学室
ペンケースを、鍵がかかる引き出しの奥底にしまったままだ。どういう柄だったか、どういう形だったか、どういう手触りだったか、もうぼんやりとしか覚えていない。
私は高校三年生の三学期に、クラス委員をしていた。大学受験を目前に控えるクラスメイトたちから半ば押し付けられる形で就任した。クラス委員といっても大したことなくて、伝言係や雑用係のような役割だった。彼女と出会ったのも、先生に押し付けられた雑用がきっかけだった。放課後、担任教師に生徒指導室に呼び出され、教材を数学室へ運ぶように言われた。数学室は、三階の隅にある古びた空き教室だった。引き戸の嵌められた曇りガラスには、まるで稲妻のようなひびが入っていた。建付けが悪い古い引き戸を無理やり開ける。数学室は、もうずっと人が立ち入っていないような雰囲気だった。しんとしていて、静謐を閉じ込めてしまったような小さな部屋だった。西日がまっすぐ差し込み、棚や机を照らす。端から捲れたフローリングに、まっすぐな長い影を作っていた。ささくれが目立つ戸棚には、何年も前の西暦が印字された科学雑誌や数学雑誌が乱雑に放り込まれ、並べられた机や椅子は、私たちが使っているものとは全く違う古い型だ。机に近づいてで観察してみるとシャープペンシルの先で掘られた傷の上に、埃がうすく積もっていた。
教卓の隅に、持ってきた教材を放るように置くと、埃が舞った。白んだ窓硝子を開けようと手を伸ばす。彼女が現れたのは、私が窓を開けた時だった。古い引き戸が鈍い音を立てて開かれる。風が私の横を通り抜ける。彼女は私を見るや否や、こんな場所に人がいるなんて思わなかった、と小さく呟いた。
彼女の名前も知らなかった。あまりにも知らない顔だったので、違う学年の生徒だと思っていたが、よくよく話してみると同じ学年で、文系クラスの生徒らしい。私は理系クラスで、文系クラスと理系クラスは教室がだいぶ離れていて、すれ違うことも稀だった。なぜこんな場所にいるのか尋ねると、隠れ家なの、と答えた。
その日から、休み時間や放課後に、数学室に立ち寄るようになった。人間に使われなくなって時間が止まってしまった部屋。受験勉強をしたり、先生から言われた雑用をこなしたり、何もかも飽きてまどろんだりしていた。たまに彼女がやってきて、気まぐれに手伝ってくれることもあった。クラスで起きたなんでもないようなことをお互いに言い合ったりしていく中で、ここは、自然と彼女と私だけの場所になっていた。彼女と私は、小さな秘密の共有していった。
けれど、三年生の三学期と言うものはまばたきのように短い時間だ。いつの間にか受験も終わり、卒業を迎える。卒業式の練習を抜け出して、隠れ家である数学室に立ち寄ると、先に抜け出した彼女がいた。彼女は一人で色紙に何かを書いていた。色紙が数枚、古びた机の上に置かれていた。どうしたのか聞くと、「もう終わりだから」といった。最近気付いたけれど、彼女の声は小さい。目立たない、ひっそりとした声で話すから、しっかりと耳を澄まさなければならない。その主張しない声を、どこか好ましいと感じていた。
「大学生になってもよろしく」、「卒業してさびしい」、「友達になれてよかった」……。何人かの女の子が書いたような筆跡のメッセージが色紙にびっしり書かれていた。
「みんなこう言うのが好きだから」
彼女も、すでに書かれたメッセージに続いて自分の言葉を書き始める。さびしい、悲しい、楽しかった、元気でね。月並みな言葉が、彼女の字で並べられていく。
「でも、この場所がなくなるのは確かに悲しいかもしれないね」
色紙を書く手が止まった。どういう気持ちでいるのかわからなかった。ただ、彼女と私の中にある小さな痛みが、同じ形であればいい。彼女は、色紙を鞄の中に詰め込むと、立ち上がった。じゃあね、と短く言うと、彼女はこの部屋から出て行ってしまった。私は一人残された小さな部屋で、うつむいていた。
帰ろうと思い、立ち上がった拍子に机にぶつかると、中に何かが入っている音がした。机の引き出しの中を覗き込むと、長四角のペンケースがぽつんと取り残されていた。中にペンが数本入っている、ネイビーと白のストライプ柄をしたペンケース。すぐに、彼女が使っているものだとわかった。私は、彼女のペンケースを自分の鞄の中に入れ、数学室を飛び出した。誰もいない廊下は、数学室よりずっと暖かい。私の指先は、まだ冷たい。まだこんな暖かい場所に、出たくなんてないのだ。春が、もう近くまで来ていた。
次に彼女に会ったのは卒業式だった。ふいにすれ違ったとき、彼女は、私のペンケースを見なかった?と尋ねた。知らない、と、私はただ一言答えた。
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