第105話 名将の器

主要登場人物別名


忠三郎… 蒲生賦秀 蒲生家当主 後の氏郷

左兵衛大夫… 蒲生賢秀 蒲生家前当主 賦秀の父

作左衛門… 小倉行春 蒲生家臣 小倉実隆の子 賦秀の従兄弟


左近将監… 滝川一益 織田旧臣 柴田勝家と共に羽柴秀吉に反旗を翻す

義太夫… 滝川益氏 滝川家臣 一益の従兄弟


権六… 柴田勝家 織田旧臣 信長亡き後羽柴秀吉と対決する

三介… 織田信雄 信長の次男 


――――――――


 

 伊勢長島城の大手門前に陣取る賦秀は、正面から寸刻を置かずに撃ちかけられる鉛玉に顔を上げられずにいた。

 辺りには黒煙が立ち込め、長島城全体が火を噴いているかのように周囲の部隊を威嚇している。


 突然賦秀の近くにある盛り土の上部が弾け飛んだ。飛び散った土が顔にまで達し、口の中に土の味が広がる。


「作左衛門! 兵を城壁に取りつかせられるか!」

「無理です! 今前に出れば狙い撃ちにされます!」


 話している間にも二人の頭上で弾丸が空気を切り裂く音が響き、正面に置いた竹束には次々に弾丸が命中している。蒲生勢は長島城を攻め落とすどころか、近付くことすらできずにいた。



 蒲生賦秀と前田利益の一騎討から一月あまり経った四月十二日。

 兵糧が尽きたことで峯城に籠る滝川益氏は城を開いて降伏した。条件は亀山城の佐治新助と同じく、峯城の将兵を長島城まで無事に合流させることだ。

 蒲生賦秀はこの条件を飲んだ。今の伊勢鎮圧軍の兵数では峯城と長島城を同時に相手にするのは得策ではないと判断したためだ。


 当初七万だった秀吉の伊勢方面軍は今や二万を切るまでになっている。北近江に出陣してきた勝家と秀吉との睨み合いが続き、伊勢の軍勢を次々に北近江に抜かれて行ったためだ。

 当初伊勢方面の総大将を任されていた羽柴秀長までもが秀吉の命によって伊勢の陣を払い、木之本へ着陣している。


 必然的に伊勢方面は人手不足となり、名目上こそ織田信雄が総大将ではあったが、実質的には一万余りの軍勢を率いた蒲生賦秀が滝川の抑えとして奮闘していた。

 一方で伊勢の各地に広く展開していた滝川勢も亀山城・峯城の陥落によって兵をまとめ、今ではほとんどが伊勢長島城に集結している。


 結果的に伊勢長島城は蒲生と滝川の決戦の場となっていた。



 ―――さすがは左近将監殿


 賦秀は滝川一益の勇姿を思い浮かべた。

 信長麾下時代の賦秀は、随分と滝川一益に助けられた。畿内を転戦する滝川鉄砲隊は、さながら一個の生き物ような見事な統率を見せ、統制の取れた戦ぶりに若い賦秀は思わず圧倒されたものだ。

 今その完璧に統率の取れた鉄砲隊は賦秀に牙を向けている。


 唯一の救いは、滝川一益は長島城から動けないことだ。

 万一長島城を出れば、羽柴勢の別動隊がすぐさま長島城の搦め手に攻めかかるだろう。そのため、一益は敵を近寄せぬように鉄砲の弾幕を張り、防御に専念している。


 とは言え、賦秀としても長島城を攻めあぐねているのが実情だった。


「このままでは埒が明かん。まずは竹束を押し立て……ぐわっ!」


 賦秀が顔を上げて言いさした瞬間、隣の竹束に弾かれた跳弾が賦秀目がけて飛んで来た。

 跳弾を受けた賦秀は頭を大きく後ろに逸らした。頭部に弾丸が命中した証拠だ。


「殿!」


 小倉行春が慌てて賦秀に駆け寄る。総大将たる織田信雄は戦下手として有名であり、ここで賦秀が討ち死になどということになれば伊勢方面は大きく後退を余儀なくされる。

 それは北近江で柴田と対峙する秀吉本軍にも影響を及ぼすことになる。


 だが、体勢を起こした賦秀の顔には血の一滴も流れてはいなかった。


「案ずるな! 兜に当たっただけだ」


 行春が賦秀の兜に視線を移すと、言う通り燕尾型の兜に大きな弾痕が刻まれている。それを見て行春の背中には冷たい汗がどっと溢れた。

 運良く兜に当たったから良かったものの、これが顔に当たっていれば賦秀は今頃生きてはいなかっただろう。


「殿! お下がりくだされ! ここは某が!」

「馬鹿を申すな! ここで儂が退いては長島城を攻め落とすことなど出来ぬだろう!」

「前に出るだけが将に非ず! 今ここで殿が討ち死に為されれば、北近江の筑前守様にも影響がございましょう! 岐阜城が反旗を翻した今、これ以上伊勢に兵を回す余裕はありませぬぞ!」

「む……」


 行春の気迫に押され、賦秀も思わず言葉に詰まる。

 峯城の引き渡しが済んだ早々の四月十六日、一度は秀吉に降伏していた信長の三男・織田信孝が、滝川・柴田の挙兵に同調して再び兵を挙げ、岐阜城を占拠していた。

 柴田勢と長浜城で対峙していた秀吉は、後方を脅かす信孝を討つべく岐阜方面へと出陣していたが、折からの大雨により大垣城で足止めを食らっている。


 行春の言う通り、今の秀吉に伊勢方面へ兵を増員する余裕などなかった。


「仮に殿が討たれ、伊勢の戦線が崩壊すれば、それは羽柴軍全体の敗北にも繋がります。その時は敗戦の責めは全て蒲生に帰されまするぞ」


 賦秀もこれには返す言葉が無い。何もかも行春の言う通りだったからだ。


 秀吉と勝家はお互いに戦機を窺って睨み合いを続けている。だからこそ賦秀は柴田軍の士気を挫く為に長島城を一息に攻めようとしたわけだが、ここで賦秀が討ち死にすればそれはそのまま羽柴軍の士気低下につながる。伊勢から北近江へ滝川一益が進軍すれば、秀吉は越前・伊勢・岐阜の三方から包囲されることになるからだ。


 無論の事、敗戦の原因は全て蒲生賦秀の失態ということになる。


「大殿様があのご様子である以上、今更柴田殿に言い訳は通じませぬ。仮に負ければ、蒲生家は取り潰されましょう」


 賦秀の口元に力がこもる。だが、常に前線で変化する戦況に対応し続けて来た賦秀は、ためらう事無く決断した。


「本陣へ下がる。作左衛門、ここは任せたぞ」

「ハッ!」


 言うや否や、賦秀はマントを翻して後方へと退いて行った。賦秀の背を守るように竹束を抱えた近習が続く。

 行春はようやく安堵の息を漏らした。




 ※   ※   ※




「子倅は出て来ぬか」

「ハッ! 蒲生は付城に籠り、長島城を遠巻きに包囲する構えに切り替えた様子」

「血気に逸って攻めかかってくれば良いものを」


 滝川益氏の報告に、上座の滝川一益はチッと舌打ちをした。


「柴田には動きは無いか」

「近江柳ケ瀬に着陣された後は睨み合ったまま動かぬとか」

「往年の『かかれ柴田』も老いたものだな。これほど儂が援護してなお、猿如きに手も足も出せぬか」


 一益が舌鋒鋭く毒を吐く。今回の合戦で柴田勝家に対する一益の評価は一段と低い物になっていた。


 滝川勢は伊勢に秀吉を引き付けておくことが役目だ。その間隙を突いて越前から近江に攻め込めと一益も柴田に申し送っている。

 柴田の南進に秀吉本軍は北近江へ向かったが、それでも一益は二万に近い兵を伊勢で引き付けている。

 一万足らずの兵で倍近い敵を引き付けているのだから、陽動としては充分な成果と言える。


 だが、勝家と秀吉のにらみ合いが長引けば、伊勢長島城はそれだけ疲弊することになる。陽動は主力が敵を倒してこそ活きるのだ。

 仮にこのままの情勢で夏を迎えれば、長島城の兵糧は底をつく。悪いことに緒戦の蒲生の猛攻に対して弾薬を使い過ぎたため、長島城では弾薬の備蓄すらも心細くなってきていた。

 一益の心中では一刻も早く勝家と秀吉の決戦が終わることを祈っていた。もちろん、勝家の勝利という結果で、だ。


 天守の窓から外を見ると、伊勢湾には二隻の鉄甲船が浮かび、こちらも長島城を遠巻きに包囲している。


 ―――九鬼も猿に味方したか


 九鬼水軍を束ねる九鬼嘉隆は元々滝川一益の紹介で信長に仕え、石山戦争においては木津川口の戦いで共に村上水軍と戦った。言わば九鬼と滝川とは織田家中で盟友と言っていい立場にあった。

 だが、今回九鬼は織田信雄の家臣として行動し、どれだけ一益が口説いても味方に付くことは無かった。


 もっとも、九鬼の方も長年の友誼からか積極的に長島城を攻めることはせず、ただただ海上に船を浮かべて牽制するだけだ。

 とは言え、九鬼水軍が敵に回っている状況では海から物資を運び込むことも出来ない。長島城は補給の手を絶たれた格好になっている。


「やはり、誰かと組んで事を為そうとしたのがそもそもの間違いだったのかもしれんな」


 窓の外を見ながらポツリと呟く。その背中はひどく寂しそうな物に益氏には感じられた。


「義太夫。出陣の用意だ」

「打って出られますか」

「権六殿が猿に怯えて手も足も出ぬというのならば、儂が蒲生の子倅を打ち破って猿の背中を襲うしかあるまい」

「敵は蒲生です。若輩と思って侮られるのはいささか……」

「分かっている。だが、やらねばなるまい」


 益氏にも一益の言いたいことは分かる。

 今こそ好機なのだ。柴田勝家に加えて織田信孝が岐阜城を占拠した今、伊勢を抑える蒲生を打ち破れば秀吉は窮地に陥る。

 多少の無理は承知の上でもやる価値は大いにある。


「三介様もおわしますが……」

「問題になるまい。率いるのが三七殿ではな」


 そう言って一益が皮肉そうに口元を歪める。

 この一益の癖が益氏はあまり好きでは無かった。滝川一益は軍事的才能に恵まれ、当代随一と言ってもいい戦上手だ。

 だが、己の才能を自負するあまりに一益には他人を馬鹿にし、見下す所がある。自己を過剰に信ずる所がある。


 いつの日か、その過信が一益の足を掬うのではないかと不安を持ち続けて来た。


「それに、蒲生と言っても相手は子倅だ。左兵衛大夫が相手ならばともかく、あの子倅ならば恐るるに足りぬ」


 この認識も危険だと益氏は思った。

 確かに蒲生賦秀は己の武勇を過信し、意気揚々と前線に出て来る所がある。だが、峯城を囲む蒲生勢には隙が無く、益氏もとうとう包囲を打ち破ることが出来なかった。

 男子三日会わざれば、とも言う。今の蒲生賦秀はそういった『引き』の戦も出来る将に成長している。


 だが、尚も言い募ろうとした言葉を益氏は飲み込んだ。

 結局はやるしかない。一益の言う通り、このまま柴田頼みでは埒が明かないのも事実だ。織田信孝も挙兵したとはいえ、岐阜城で孤立している。今の柴田・滝川・信孝はそれぞれが連携を欠き、バラバラに行動してしまっている。

 これを改め、連携した軍として機能させるためにはどうしても滝川勢が伊勢から近江へ乱入する必要がある。


「くれぐれも、御油断無きように」

「うむ」


 窓の外を見ていた一益が、振り向いて頷く。頭髪には随分白い物が混じるようになった。

 目尻に深く刻まれた皺に、益氏はふと一益の焦りを見たような気がした。

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