第86話 長篠の戦い
夜明け前の薄明りの空を見上げながら賢秀は濡れた布で顔を拭った。とうに目は覚めていたが、それでも水を含んだ布で顔をこすると、さっぱりと爽快な気分が満ちて来る。ここ数日降った雨も上がり、東から紫色に変わって行く空には雲一つ浮かんでいなかった。
「父上、間もなく配置に着きます」
「うむ。我らの出番は最後だが、それでも皆にくれぐれも油断するなと伝えよ」
「ハッ!」
昨夜のうちに徳川家康配下の酒井忠次を中心とした別動隊が、武田の拠点である鳶ヶ巣山砦を攻略すべく出陣している。武田軍も今日には動きがあるはずだ。
天正三年(1575年)五月
畿内をほぼ制した信長は、浜松城の徳川家康からの援軍要請を受けて三河に向けて出陣した。武田勝頼に包囲された長篠城を救援するためだが、信長としてはこの機会に武田と雌雄を決する肚積もりであった。
世に言う『長篠の戦い』である。
織田・徳川連合軍は総勢で三万五千、対する武田軍は一万五千。兵力から言えば織田・徳川連合軍に有利と言える。
賢秀は今回も柴田勝家の寄騎として出陣していたが、信長からの指示により鉄砲兵だけを別に組織して前線へと送り出し、自身は柴田勝家と共に信長本陣の茶臼山付近に布陣している。茶臼山は決戦場として野戦陣を構築している設楽原からは距離があり、賢秀自身も内心出番があるとは思っていなかった。いや、むしろ出番が来ないことを望んでいた。
賢秀ら柴田勢はいわば信長本陣の最後の守りであり、賢秀らが戦う時は即ち織田・徳川連合軍が敗走する時だからだ。
―――我ら蒲生の鉄砲衆は滝川勢へと参加していたのだったな
今回の戦で信長から主力を任されたのは滝川一益であり、各部隊から集めた鉄砲も滝川一益の元に最も多く送られていた。
賢秀が兜をかぶり、配置に着いた時には既に空の色は紫を過ぎて白から青へと移り変わっていた。
※ ※ ※
滝川一益は正面に位置する武田勝頼本陣の旗を見据えていた。
織田方の陣には三重の土塁と馬防柵を設け、武田自慢の騎馬突撃を防ぐ野戦陣を構築している。
突然、腹に響くような太鼓の音が右側から響いた。同時に武田軍左翼の旗が揺れ、次々に右翼に陣取る徳川陣へ攻めかかる声が聞こえる。
「始まったようですな」
「間もなくこちらも動きがある。油断するな」
「ハッ!」
隣の益氏も気合を入れなおして正面へ視線を向ける。益氏にはああいったが、一益も気分が高揚せずにはいられなかった。
―――今日、儂は戦の有り様を変える
その自信に満ち溢れていた。
野戦陣の内側には五百挺の鉄砲を揃え、弓や槍の足軽も周辺に待機している。
今までの戦はあくまでも主力は長柄槍や弓だった。その中で騎馬は最強の兵器として活躍していた。事実、武田の騎馬軍団はその速さと破壊力によって今まで様々な合戦を勝利に導いてきた。だが……
―――鉄砲は騎馬に勝る
久助と呼ばれた昔から、一益はその信念を持ち続けていた。
天下を見回せば、やれ六角弓隊が最強だの、三好長柄隊こそ無双だの、武田騎馬隊が無敵だのと様々な軍備が持て囃されては消えていった。次は織田鉄砲隊こそが天下最強となる番だ。
この日の為、滝川一益や羽柴秀吉、丹羽長秀らの前線の将は小勢を持って武田軍を挑発し、設楽原の野戦陣に攻めかかって来るように誘導している。
また、織田本軍を小勢とみて武田が攻めかかって来るように信長は多くの兵を設楽原の後方に配置し、武田からはせいぜい一万ほどの軍勢に見えるように細工している。全ては武田勝頼をおびき出すための策だった。
戦場を圧する太鼓の音を抑えて、徳川陣から鉄砲の音が響き渡る。
「始まったぞ!こちらも鉄砲の発射準備を整えよ」
「ハッ!」
益氏が鉄砲物頭に号令をかけるのと同時に、正面の武田信廉の軍勢が押し太鼓を鳴らしながら騎馬突撃の態勢に移る。騎馬の突進を押し留めようと滝川陣から最初に弓が一斉に放たれるが、数騎の騎馬武者を落馬させただけで騎馬隊の突撃は止まらない。だが、一益は慌てなかった。
”放てー!”
という物頭の声と共に、鉄砲の轟音が次々と辺りにこだまする。音が止んだ後には、武田の騎馬隊はある者は馬に銃弾を受けて落馬し、ある者は鉄砲の音に驚いた馬が言うことを聞かずに暴走し、もはや『騎馬隊』の体を為さなくなっていた。
―――よし!やはり鉄砲は騎馬に勝る!
射撃を終えた鉄砲隊は、揃って銃口を掃除して次弾の装填にかかる。その間に何とか柵までたどり着いた武田の兵は、柵の内側から突き出される槍に串刺しにされて次々と屍を晒した。
柵の前での攻防が行われている最中、同じく正面の小幡信貞の軍勢が味方の屍を踏み越えて攻めかかって来る。鉄砲は装填に時間がかかるために連射が出来ない。今回の織田軍に多くの鉄砲が配置されていることを見て取った小幡信貞が、次弾の発射までに距離を詰めるべく一気に突撃して来た。
―――かかった!
一益は蒲生から借り受けた鉄砲隊を指揮する滝川益重の方へ視線を向けた。
益重の元には蒲生の鉄砲兵百に加え、滝川一益自身が鍛え上げた鉄砲兵も配置して合計二百の鉄砲を預けている。その益重隊は先ほどの武田信廉隊への銃撃には参加せず、今もひっそりと静まり返っている。
と、突然益重が手に持った軍配を空高く掲げた。
―――よし、上出来だ。
蒲生と滝川の鉄砲兵は他の鉄砲兵と練度が違った。他の隊から借り受けた鉄砲兵には射撃のタイミングを揃えるという器用な真似は難しかったが、長く鍛錬を繰り返して来た滝川の鉄砲兵には容易な技だ。今回蒲生の兵を借り受けたが、蒲生の鉄砲兵も滝川と同じく練り上げられていることを見て取った一益は、思い切って自身の鉄砲兵と共に重要な役目を任せることにしていた。
益重の軍配が前面へ振り下ろされると、目前半町にまで迫った小幡信貞の騎馬隊に向かって二百挺の鉄砲が火を噴く。
武田信廉隊への銃撃と違い、十分に引き付けてから一斉射撃を繰り出したことで馬ではなく騎馬武者本人が銃弾を受けた為、小幡隊の被害は信廉隊の比では無かった。
小幡隊が阿鼻叫喚の地獄絵図を展開している間に、先に射撃を終えた三百の鉄砲が装填を終えて次々に発射される。蒲生・滝川の兵と違い、息を揃えての一斉射というのはまだ十分にできていないが、それでも士気が挫けた武田信廉・小幡信貞両隊に対しては充分な効果があった。
「見事にはまりましたな」
「うむ。やはり鉄砲を揃えて撃てば効果は絶大だ」
一益は満足げに頷く。これこそ一益が理想としていた鉄砲の運用法だった。
とはいえ、この運用を実現するには何よりも兵の練度が欠かせない。鉄砲隊の内、誰か一人でも目前の敵に怯えて号令を下す前に発射すれば、それで台無しになってしまう。
だからこそ軍制を整備して物頭の号令に徹底的に従う兵を作り上げた。
「蒲生の練兵もさすがだな」
「左様ですな。一糸乱れぬとはまさにこのこと」
益氏の言葉に頷きながら、一益は改めて蒲生賢秀の手腕に感じ入っていた。賢秀が意識してやっていたのかどうかは分からないが、この運用法は和田山城攻めで蒲生賢秀に完封された時の物だ。
二段に分けたのは一益の着想だが、『斉射』による銃撃を受ければ身動きが取れなくなることは賢秀に思い知らされた。今はそれを武田軍にぶつけているに過ぎない。
とはいえ、今回鉄砲隊の主力を任されたのは蒲生では無く自分だということに一益は満足していた。
今回の戦で、織田の鉄砲隊の武名は天下に轟くだろう。その織田家中にあって一番の鉄砲の上手は滝川一益と言われるに違いない。今回の戦はそれほどの影響力があると思っていた。
―――左兵殿。悪く思うなよ
少しだけ意地の悪い気分になって一益は後方に視線を移した。目に入るのは山だけだが、一益の視線の先には信長本陣を守護するように蒲生賢秀も布陣しているはずだ。
今回の滝川勢の活躍は他の部隊と比べても群を抜いていたが、その活躍の半分は蒲生賢秀のものだ。だが、それを知るのは滝川一益ただ一人である。
一益が何も言わなければ、余人は賢秀の力を過小評価するだろう。それも分かった上で、いわば手柄を独り占めした。
そこまでしても一益は蒲生賢秀に負けたくなかった。
「殿、次が来ますぞ」
「うむ。次弾の装填急げ! 弓隊は矢を放って援護しろ!」
隣の益氏の言葉に現実に引き戻されて一益は視線を前方へと戻す。目の前には次々と馬から振り落とされる武田軍の姿があった。
※ ※ ※
「ここまでかな」
兜の庇を上げて賢秀は上空を見上げた。既に日は中天を過ぎ、未の刻(午後二時)に近くなっている。
前線から聞こえる銃声もまばらになり、おおよその戦闘が終わったことは察せられた。
「某は納得がいきません。滝川の戦功の多くは父上が鍛え上げた鉄砲兵によって挙げたものでありましょう」
賢秀の隣で賦秀は口をへの字に曲げながら騎馬に跨っている。今回の戦で滝川一益の戦功が群を抜いていることは、次々に駆け込む使番によって信長本陣へも伝えられていた。武田信廉・小幡信貞隊を壊滅させ、さらに土屋昌続、真田信綱など名の知れた武将を討ち取る戦功を挙げていた。だが、その活躍を支えたのが蒲生の送り出した鉄砲兵であることを賦秀は敏感に感じ取っていた。
「ははは。まあ、良いではないか。お味方は武田に勝利した。それで充分であろう」
「しかし……」
「御屋形様がお決めになった配置に文句をつける気か?」
「……」
賢秀は己の戦功を他に誇ることが無く、そのために小心者や臆病者などと謗られることも珍しくない。賦秀としては父賢秀の能力を侮られることを常々悔しく思っていた。
だが、信長の名前を出されては賦秀も黙るしかない。それに、当の賢秀がこの件を良しとしている以上、賦秀としてもそれ以上の口出しを控えざるを得なかった。
「惜しいことでありますな。父上が武功比べに精を出されれば、滝川殿と互角の働きが出来ましょうに」
「誰が武功を挙げたのどうのというのは小さいことだ。それよりも、織田家の拡大に伴って天下が平和に近づきつつある。それが何よりと申すものだ」
賢秀がニヤリと笑いながら賦秀をたしなめる。
実際、元亀年間までは近江や畿内近国が合戦の舞台となっていたが、天正年間に入ってからは近江の外で戦をする機会が多くなっている。逆に言えば、蒲生の本領である日野は平和が保たれているということだ。
賢秀はそれだけで十分に満足していた。
天正三年五月二十一日
明け方から始まった『長篠の戦い』は八時間の激闘の末に武田の大敗という結末で幕を閉じた。
織田・徳川連合軍には大した被害は無かったが、武田方では山県昌景、内藤昌豊、馬場信春、真田兄弟など部将級の者や宿老と呼ばれる重臣までもが討ち死にしている。
武田にとっては目を覆いたくなるほどの大敗北だ。
この一戦によって織田鉄砲隊の武名は天下に轟き、その主力たる滝川一益は織田家随一の鉄砲の上手と持て囃された。
一方の蒲生賢秀は相変わらず日野の小心者と侮りを受けている。だが、賢秀にはそうした世上の評価を気にした様子は無かった。
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