第81話 比叡山焼き討ち

主要登場人物別名


弾正忠… 織田信長 織田家当主


江雲寺殿… 六角定頼 六角家先々代当主


――――――――


 

 賢秀の率いる蒲生勢は、柴田勝家の軍勢と共に近江栗太郡の金森を包囲していた。

 近江金森は一向宗の寺内町で、周囲には総堀を巡らし、逆茂木を植えて要塞化してある。志賀の陣において信長を苦しめた近江一向一揆最大の拠点だった。


 元来近江は一向宗の盛んな土地であったが、六角定頼が本願寺証如との和睦の条件として近江の一向門徒を破門させたため、一時的に繋がりが絶たれている。今は再び石山本願寺の支配下にあるとはいえ、その連携は脆く信長も労せずして各地の一揆勢を撃破していった。


 これに先立つ八月二十八日。

 東近江で一向一揆の拠点となっていた志村城を攻めた織田軍は、圧倒的武力を持って志村城を徹底的に撃滅し、実に六百を超える首級を上げた。その報を聞いた小川城では恐れおののいて一戦もせずに降伏し、金森でも討って出て来ることはなくお互いに睨み合いが続いている。



「金森も間もなく降伏して来るかな」

「左様ですな。既に織田と本願寺の和睦も成立しました。これ以上戦う理由もないでしょう」


 賢秀の独り言に岡忠政が応じる。

 忠政は賢秀の傅役を務めた岡貞政の子で、幼い頃から賢秀とは兄弟のように育ってきた。本来ならば一郷を与えて一隊を率いさせるべき立場なのだが、本人の強い希望もあって賢秀の近習として相談役を務めている。


「金森が降伏すれば、近江国内の通行はほぼ確保できる。御屋形様も何とか京都の連絡を欠けさせずに済みそうか」

「問題はこの先でございますな」


 忠政の言葉に賢秀も表情を消して虚空を睨む。金森を降したら、いよいよ次は比叡山を討つと信長は明言していた。


 元々志賀の陣の折、信長は比叡山に中立を求めたが、坂本の町衆や僧兵たちはその言葉に従おうとはしなかった。信長としてもあくまでも反抗的な姿勢を崩さぬ坂本の町をこのままにしてはおけない。

 また、森可成が命がけで守った宇佐山城は和睦の条件として破却されており、今湖西地区はがら空きになっている。ここに軍勢を駐留させる拠点を作らなければ、今度こそ浅井・朝倉と戦になった時に京を守り通すことが難しくなる。


 そういった諸々の戦略的な事情を鑑みれば、坂本の町と比叡山を攻めるという信長の言葉はやむを得ないと賢秀も思った。相手は長く王城鎮護の聖域として神聖視されている場所ではあるが、坂本の物流の権益を保持する比叡山には多額の銭が集まり、僧兵たちも肉食をして遊女を侍らせ、財貨を集めるなど、およそ聖職者としては目を覆いたくなる行動をしている。

 そもそも坂本の町には仏具の店よりも遊女屋や銭貸し、鳥魚の食を売る店の方が圧倒的に多いのだ。信長が『財貨欲得に耽る売僧まいす』と糾弾したのも、至極真っ当な指摘ではあった。


「悪御所・半将軍に続き、またしても比叡山は焼かれる宿命か」


 悪御所と言われた室町幕府六代将軍の足利義教は延暦寺と抗争し、坂本を焼いている。また、半将軍と言われた細川政元は十代将軍の足利義稙との抗争の中で比叡山と対立し、比叡山の伽藍をことごとく焼き払っている。

 実のところ、戦国乱世にあっては強い経済力を持つ寺社は時に大名と協調するが、時には自己の権益を守るために敵対することが多く、焼き討ちを受けることも珍しくなかった。蒲生の旧主である六角定頼も京を巡る抗争の末に法華宗や一向宗を京の町ごと焼き払っている。

 今更比叡山を焼き討ちすると言っても世上では『またか』と思われる可能性の方が高いだろう。


「まあ、しばらくすればまた再興致しましょう。比叡山が銭の流通を取り仕切らねば御屋形様とて困られるはず」

「果たしてそうかな?」


 賢秀には忠政の言葉に同意する気にはなれない。確かに今まで銭の流通を取り仕切って来たのは諸国往来勝手の免状を持つ比叡山や興福寺と言った大寺社であったり、一向宗や法華宗のような広域なつながりを持つ宗門であった。


 しかし、信長は尾張熱田の商人衆を始め、岐阜加納の呉服商・伊藤宗十郎を重用して商人と寺社の切り離しを図っていると聞く。それは保内衆を庇護下に置いて寺社から独立した流通組織を模索した六角定頼の事績をなぞるような行いと賢秀の目には映った。


 ―――もしかすると御屋形様は江雲寺殿と同じ目線で世の中を見ておられるのかもしれぬ


 三年前の永禄十二年に伊勢を攻略した際には、信長は伊勢の諸関を撤廃して尾張・美濃・伊勢の自由通行を許している。近江においてはまだ敵対勢力がひしめき合っているために軍事用の関所を設けてはいるが、少なくとも織田領内では人が自由に往還できるように配慮がなされている。

 また、永禄十年には岐阜加納に『楽市楽座令』を発布し、その条文の中で織田分国内の自由往還を許す旨を明言している。

 少なくとも織田領内においては、寺社の力を借りずとも銭の流通を取り仕切る方法は確立されていると言えた。



 岡忠政と話し込んでいると、やがて金森の寺内町から使者と思しき一団が門を出て来るのが見えた。


「どうやら降伏の使者かな」

「そのようですな」


 使者はやがて織田信長本陣に入り、ほどなくして金森一向一揆は降伏した。




 ※   ※   ※




「こ、これは……」


 伴伝次郎は矢橋の渡船場に呆然と立ち尽くしていた。

 矢橋からは対岸の坂本を始め、大津から堅田までが一望のもとに見渡せる。伝次郎の視界には、その対岸がことごとく炎に包まれている光景が広がっていた。


 ―――比叡山を焼くと聞いていたが、真の狙いはこちらか


 比叡山の山上にはそれほど大きな火は出ておらず、焼き討ちはどちらかと言えば坂本や堅田の町を中心に行われている。つまり、信長の狙いは既存の物流組織を徹底的に破壊することにあったのだろう。


 甲賀衆が信長に従ったことを受けて、伝次郎は改めて信長に協力を申し出る為に後を追っていた。いわば全面降伏の形だ。

 手土産としておよそ百駄の米を持参している。石高にして四十石の兵糧だ。だが、それでも信長が保内衆の権益を保護してくれるかどうかはまだわからなかった。何せ、伝次郎は一度信長の要請を断っている。形勢が不利となったからと言って『やっぱりやります』が通るかどうかは分からない。


 だが……


 ―――こうなれば何が何でも協力せねばならん


 それが伝次郎の決意だった。

 既存の物流システムを破壊した以上、信長は新たに近江の物流システムを構築する必要に迫られる。そして、その物流システムの中核を担う商人衆は次の世の近江の権益を一手に握ると言っても過言ではない。

 当初は伝次郎も信長がここまでするとは思っていなかったが、こうなれば甲賀衆云々の前に保内衆の頭分として信長に協力せざるを得ない。



 矢橋から湖西へと渡った伝次郎は、織田軍へ兵糧を届けるとその足で大津三井寺の信長本陣へと伺候した。床几の前で跪く伝次郎に対し、信長は意外にも上機嫌で対応した。


「ようやく比叡山への義理を捨てる気になったか」

「是非もありません。我らには弾正忠様のお下知に従う他に生きる道がございません。何卒お慈悲を賜りますようお願い申し上げます」

「はっはっは。まあ、儂とて鬼ではない。過去を悔い改めて儂に協力するのであれば、全てを水に流そう」


 鬼ではないとはどの口が言うのかと内心では思いつつ、伝次郎は何も言わずに頭を下げる。

 信長の勧告に従わずに今も比叡山や日吉大社に籠る者は僧俗を問わず、老若男女を問わずに一人残らず首を討ち取っているとの報が次々にもたらされている。

 信長の立場からすれば、今までに十分に勧告したにも関わらず今なお比叡山に留まる者は織田に反抗の意思ありと見做されても仕方ないと言うのは理解できる。だが、一歩間違えれば自分がその首の一つになっていたと思うと、伝次郎は首筋にうそ寒い物を感じざるを得なかった。


「差し当って、京の商人共に貸し付ける米を用意せよ」

「京の商人に貸し付ける……?」


 伝次郎は一瞬意味が解らずにポカンと信長を仰ぎ見た。信長の顔は、自分の出した問題を伝次郎が解けるかどうか楽しんでいる風がある。


「それは、利息を得る為にということでしょうか」

「その通りだ。さすがに頭が良く回るな」

「恐れ入ります」


 言葉を交わす度に冷たい汗が背中を流れる。だがそれにも慣れてゆかねばならない。


「京の商人から得た利息をそのまま帝へ献上する。今の内裏は荒廃が酷い。先年から修理を行わせてはいるが、それとは別にこの先宮中を維持するための収入が無ければならんと思ってな。御料所を差し上げても在地の者に横領されればそれまでだ。それならば、儂が受け取るべき利息をそのまま献上すれば、継続的な収入になるのではないかと思う」

「なるほど」


 伝次郎は信長の勤皇家としての一面に意外な思いを持った。

 足利将軍家は今や朝廷への貢献は行わず、朝廷の窮乏にも知らん顔をしている。それは先代の義輝の頃からだったが、信長はそれに不満を持っていた。


 元来織田弾正忠家は信長の父の信秀の代から朝廷重視の姿勢を貫いている。信秀は伊勢神宮の遷宮のための木材や内裏修理料などを積極的に献上し、朝廷からも頼りとされる存在だった。

 そのため、信長も朝廷に尽くすところが多く、義昭に対してももっと朝廷を大事にするように何度か諌言している。その信長にとって朝廷の収入を確保することは喫緊の課題だと感じていた。


「では、百石程の米が必要になりますな」

「ふふふ。足りぬわ。差し当たって五百石ほど用意しろ」

「そ、それは……」


 さすがにそれだけの米をいきなり用意できるほどの蓄えは無い。ここの所近江や伊勢の政情は不安定で、保内衆の商売も決して安穏としたものでは無かった。


「心配せずとも銭はこちらで用意する。そちは米の手配と牛馬の足を用意しろ。良いな」

「ハッ!承知いたしました」


 満足そうな信長を前に伝次郎は再び頭を下げる。だがその胸には一点の染みが残っていた。


 ―――杉谷善住坊を始末せねば


 千草峠で信長を狙撃した善住坊は伝次郎の手配りで逃亡している。今は高島郡に潜伏しているはずだが、もっと遠くへ逃げるように言い聞かせておかねばならない。

 仮に善住坊が織田家に捕らえられ、信長の狙撃を伝次郎が依頼したことが明るみに出れば今度こそ命はない。善住坊が素直に従わなければ、最悪の場合は命を絶っておかねばならないと思い定めていた。



 元亀二年(1571年)九月二十日

 比叡山の焼き討ちを見届けた信長は岐阜城へと帰還した。帰国の前に近江国内の諸関を撤廃し、京から岐阜への自由通行を許した。寺社に頼らない流通機構の整備は、着々と進められていた。

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