第77話 一向一揆再び
主要登場人物別名
左兵… 蒲生賢秀 織田家臣 左兵衛大夫の略
内蔵助… 佐々成政 織田家臣
又左… 前田利家 織田家臣 又左衛門の略
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元亀元年(1570年)六月
六角親子を野洲河原にて退けた織田軍は、続いて北近江の浅井と姉川を挟んで対陣する。いわゆる『姉川の戦い』を戦った。
この戦いは浅井と織田の一大決戦と言われるが、当初の予定では双方ともに大兵力を投入することの無い小競り合いになる戦いだった。その理由は、六角親子が木浜城を確保できなかったことにある。
当初の浅井長政の目的は近江の交通を扼して京と岐阜を分断し、織田の動きを制限することにあった。だが、六角親子が南近江の分断に失敗したことで北近江の通行を止める必要性は薄くなる。尾張・伊勢を抑える信長は、その気になれば伊勢から鈴鹿山脈を越えて南近江に軍勢を移動させることが可能だからだ。無論、北近江も通行出来た方が大軍を素早く動かすには有利だが、必ずしも北近江を通らなければならないということは無い。
そして、信長は南近江と岐阜から東山道上の浅井方拠点を挟撃する態勢を作ることが出来る。いや、実際に岐阜の軍勢に合わせて長光寺城の柴田勝家や宇佐山城の森可成などは北近江に向けて軍勢を出した。浅井としても大損害を覚悟してまで東山道を確保し続ける理由は半ば無くなった。この上は、軽く一戦して横山城を浅井と織田の国境として線引きする。それが姉川の戦いの目的だった。
だが、その状況に焦りを覚えたのが佐和山城の磯野員昌だ。
信長が南近江を確保した以上、佐和山城は敵中に孤立する形勢となる。長政からは北近江で替地を用意するという提案もあっただろうが、あくまでも本領である佐和山城を確保することに磯野員昌がこだわったのだろう。磯野だけでなく、佐和山城に近い朝妻城を領する新庄直昌や関ヶ原に近い須川周辺を本領とする遠藤直経なども自領が織田の勢力圏に入ることを良しとはしなかった。
一方の織田信長にしても、姉川で浅井と戦うのは岐阜から最短距離で京に向かう東山道を確保するという意味合いしかない。姉川の戦勝によって降伏した横山城は、北近江平野を扼すると言うよりは岐阜から南近江へと繋がる東山道を確保するための前線基地としての意味合いが強かった。
事実として、姉川の戦いで手痛い敗戦を喫したと言われる浅井長政だが、その後も北近江全域や竹生島に安堵状を発行するなどの行動を取っており、姉川の敗戦によって浅井の北近江支配が揺らいだ形跡が見えない。
姉川の合戦が激戦となった最大の理由は、本領を守るべく磯野員昌が必死になって織田を打ち破ろうと突撃を敢行したために双方にとって想定外の正面決戦となったのが実態ではないか。
織田信長にとっても浅井長政にとっても磯野の奮戦は想定外であり、だからこそ十一段崩しとも言われる磯野隊の大立ち回りを許してしまったという側面が大きいのだろう。姉川の合戦で奮戦したのは磯野員昌・遠藤直経・今村直氏など岐阜から南近江へと通じる東山道沿いに所領を持つ国人領主と朝倉軍の
結局、想定外の激戦となった姉川の合戦において辛くも織田が勝利し、浅井は予定通り小谷城へと撤退する。
戦略的には南北からの挟撃を余儀なくされる東山道を放棄し、一方向に全軍を向けられる地点まで後退して前線を作り直すという初期の目的は達成できたものの、己の所領を守ろうとする国人領主達を自分の意向に従わせるだけの強制力を持てなかったことが浅井長政の敗因となった。
※ ※ ※
姉川の戦いから二か月と少し後の元亀元年九月
蒲生賢秀は北近江に続いて摂津に転戦していた。足利義昭と敵対する三好三人衆が摂津欠郡に野田城・福島城を築いて挙兵したためだ。織田家の家老である柴田勝家の出陣に従って、寄騎である蒲生賢秀・賦秀親子も摂津へと参陣していた。
「父上、御屋形様は三好一統の降伏を許されぬそうですね」
陣中で賦秀が賢秀と戦況を話し合っている。周囲には日夜鉄砲の轟音が響き渡り、風には硝煙の匂いが濃厚に混じる銃撃戦の陣中であり、話をするにも顔を近づけねばならないほどだった。
「うむ。雑賀衆や根来衆の来援に気を良くされているということもあるのだろうが、ここで三好の息の根を止めるおつもりなのだろう」
賢秀にも信長の考えは理解できる。元々三好家は四国阿波を本領としている。三好之長、三好元長、三好長慶など歴代の当主達は、一度は阿波へ押し返されても不死鳥のごとく軍勢を整えて畿内へと舞い戻っている。捲土重来は三好のお家芸と言ってもいい。だが、今回ばかりは事情が違った。
長く三好の畿内復帰を支えて来たのは瀬戸内海航路の終点として西国と畿内の富を一手に握っている堺の豪商たちだった。二年前の永禄十一年に信長が上洛した際に信長は堺を支配下に置こうと画策して矢銭を要求しているが、堺は一旦はこれを突っぱねた。
だが、本圀寺事件によって三好三人衆が阿波へ追い払われると堺も観念したのか、昨年の永禄十二年には信長の要求に応じて二万貫の矢銭を供出している。事実上、織田家の軍門に下った形だ。
三好三人衆が態勢も不十分なままに野田・福島で蜂起したのは、この織田家の堺支配に対抗するという意味合いが強い。堺を織田の支配から解放し、再び自由都市として中立の立場に戻すのが三好三人衆の目的の一つだ。堺の手引きが無ければ阿波から畿内への復帰が容易ではなくなるため、今回の戦は三好三人衆にとっても今後の再起を賭けた戦いと言えた。
この戦で完膚無きまでに三好三人衆を叩けば、以後堺は織田家に逆らうことは無くなるだろう。つまり、何度も何度も阿波から畿内へ侵攻されるという事態に陥らなくて済む。
信長が三好三人衆の降伏を許さずに徹底的に攻め抜く背景には三好家の再起を阻むという目的があった。
「ま、御屋形様のお考えも分かるが、それにしても欠郡は攻めにくい場所だ。あまり意地を張ってはこちらの損害も大きくなるように思うがな」
賢秀はそう言うと、目線を陣の外に向けた。戦場となっている摂津欠郡は淀川のデルタ地帯で、大小の河川が乱立する湿地帯だ。
三好方はその湿地帯にさらに堀を穿って備えを厚くし、非常に攻めにくい備えをしている。さらには双方鉄砲で武装しているために堀を強引に渡っては鉄砲のいい的になってしまう。必然的に、戦闘は主に堀を挟んでの銃撃戦となった。
「我が蒲生は近江衆の中でも多くの鉄砲を抱えておりますのに、父上は前に出て戦に参加されないのですか?」
「なに、摂津での戦はあまりツキがなくてな……」
「はぁ?」
「いや、ただのゲン担ぎに過ぎん。だが、儂が摂津で張り切るとお味方が負けるのではないかと心配になるのだ」
賦秀は訳の分からないという顔をしていたが、賢秀にとって摂津の戦と言えば江口の戦いが真っ先に思い浮かぶ。当時元服したばかりだった賢秀は、それこそ一騎駆けでもしてしまいそうなほどに張り切って参陣した。初めての出陣だったのだから無理もないが、それにしても肩を目いっぱい怒らせて力を込めていたと自分でも可笑しくなるほどだ。
その江口の戦いでは六角家は三好政長の援軍として出陣した。六角家自体は一切損害を出していないが、肝心の三好政長は六角の援軍が到着する前に三好長慶によって討ち取られてしまった為に六角家も撤退を余儀なくされたのだから、賢秀にとって縁起のいい場所ではない。
言わば摂津欠郡は六角家や蒲生家にとって敗戦の象徴のような場所だ。
戦国時代の武士は何よりもゲンを担ぎ、縁起が悪いと言っては落ち込むというところがある。それは賢秀も例外では無かった。
賦秀は武功を挙げる機会に恵まれないことに少し不満気だったが、柴田勝家からも前線に出て戦に参加せよとの下知は届いていない。父があえて前に出ようとせぬ以上はどうしようも無かった。
だが、その夜に賢秀は柴田勝家からの呼び出しを受けた。
※ ※ ※
「お呼びにより、参じました」
「よく来た。かけてくれ」
上座の柴田勝家に勧められて賢秀は末席の床几に腰かける。柴田本陣では柴田勝豊や金森長近、佐々成政、前田利家などの柴田配下の家臣・寄騎達が集まっている。
実のところ、柴田の寄騎でありながら賢秀がこうして軍議に呼ばれるのは今夜が初めてだった。信長は千草越えでの狙撃を一旦は蒲生の仕業ではないと納得したものの、心の中にしこりとしてなおも残している。明確に言葉にはしなくとも、主人のそういった空気は何となく伝わるものである。
特に柴田の寄騎は佐々や前田など信長自身が見出して側近く使ったいわば『信長直参』の者が多い。また、今回の戦で蒲生が消極的であることも前線に立つ彼らの侮りを生む結果となり、いつの頃からか賢秀は柴田寄騎衆の中で『臆病者』や『小心者』といった不名誉なあだ名で呼ばれていた。
「集まってもらったのは他でもない。此度の戦は織田の戦でありながら雇いの兵が主力となりかねぬ状況だ。我ら織田譜代衆がこの有様では面白くないと思わぬか?」
柴田の言葉に前田利家や佐々成政が真っ先に頷く。
この日、雑賀衆や根来衆の鉄砲兵が織田方として参戦し、三千丁の鉄砲を使って日夜銃撃戦を展開していた。いかに織田信長が鉄砲を集めることに力を注いでいるとはいえ、織田家には未だ三千丁もの鉄砲は無い。その為、このままでは傭兵である雑賀衆や根来衆が最も武功を挙げるといったことにもなりかねない。
賢秀以外の面々は尾張統一戦の頃から織田家に仕える古参の家臣であり、柴田の言葉に全面的に同意している。だが、賢秀はどうしてもその論に同意する気になれなかった。
―――味方の損害を少なく出来るのだから良いではないか
これが賢秀の本音だ。近江から遠征軍として摂津に進軍しているのだから、ここでの兵の損失は補充が容易ではない。遠征軍であればこそ、味方の損失は出来るだけ避けねばならない。銭雇いの兵が代わりに戦ってくれるのであれば、これほど有難いことは無い。
だが、そう思うと同時に賢秀は何故自分がこの席に呼ばれたのかも理解した。
「ついては、蒲生左兵には鉄砲兵を前線に出してもらいたい」
このために呼ばれたのだ。領国日野で鉄砲を生産している蒲生家では織田家中でも鉄砲の数が多い。蒲生以上に鉄砲を揃えているのは滝川勢くらいのものだ。
要するに柴田勝家は雑賀の鉄砲衆の力ではなく織田家譜代の力で勝ったと言いたいのだ。だが敵方の鉄砲を無視するわけにもいかない。そこで、柴田寄騎衆の鉄砲兵として蒲生を使おうと考えたのだろう。
仮にも柴田は寄親であり、蒲生の所領を差配する権限も信長から与えられている。拒否することは出来なかった。
「承知いたしました。明日には我ら蒲生も前線へ参りましょう」
「うむ。内蔵助が一番手を務め、又左が二番手に攻めかかる。蒲生はそれらを援護して……」
その時、闇夜を切り裂くようなけたたましい早鐘の音が陣内に鳴り響いた。
「何だ? 何事だ!」
周りを見回しながら放った柴田勝家の言葉に返事をする者は居なかった。
早鐘の音がなおも続き、柴田本陣だけでなく柴田陣全体が騒然とし始めた頃、一人の近習が慌てて柴田本陣に駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何があった!」
「石山本願寺が当家に対して一揆を起こしました! 野田城・福島城を攻める楼岸・川口の両砦に一揆衆が鉄砲を撃ちかけて攻めかかっております!」
「何だと!」
賢秀も思わず立ち上がる。石山本願寺は六角定頼によって焼き払われた山科本願寺に代わる一向宗の総本山として寺内町を形成し、この頃には防御施設も備えた城郭の体を為している。何よりも野田城・福島城と石山本願寺は一里(4km)と離れていない。織田家にとってはすぐそばに敵の伏兵が現れたようなものだ。
この石山本願寺の蜂起が、この後十年に渡る織田信長と本願寺顕如の長い死闘の序曲になるとは、この時の賢秀には知る由も無かった。
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