第74話 杉谷善住坊
「御屋形様、お待ち申し上げておりました」
「うむ」
元亀元年(1570年)五月
越前敦賀の金ヶ崎城から撤退した織田信長は、若狭の武藤から受け取った人質を将軍足利義昭に預けると自身は態勢を立て直すべく岐阜城への帰路に就いた。
だが、愛知川の北では六角旧臣の鯰江貞景が浅井長政に呼応して兵を挙げ、さらに佐和山城の磯野員昌が東山道(中山道)を抑えて岐阜への通行を塞ぐ構えを見せている。
浅井によって京と岐阜の通行を完全に遮断された形だ。
蒲生賢秀は京から野洲郡の永原城まで下って来た信長を軍勢を引き連れて出迎えていた。
賢秀がチラリと視線を上げると、信長は落ち窪んだ目を見開いて様々に思案を巡らせているように見えた。
―――だいぶ疲れておられる
無理もない。金ヶ崎で手痛い敗北を喫し、京に戻って慌てて浅井への備えを行って来たのだ。信長としても、浅井長政の裏切りは想定外だったのだろう。
信長にとっては、浅井長政は義弟なのだから自ずとそこには長幼の序列が生まれるのが当然と思っていた。織田と比べて浅井が圧倒的な勢力を保持しているのならば別だが、浅井の支配領域は北近江半国であり、尾張・美濃の二カ国を制して将軍家の後ろ盾となっている信長に対しては従属に近い関係になるのが自然であるというのが信長の認識だったのだろう。
ちょうど六角定頼が浅井亮政を事実上従属させていたことと同じような関係になるのが信長の想定だった。それだけ信長は北近江国人衆の独立意識を軽視していた。
まさか敦賀を織田が抑えることがここまでの反発を生むとは想像だにしていなかったようだ。
賢秀も当初は何故浅井が裏切ったのか訳がわからなかったが、日野中野城に戻って父の定秀から教えられたことでようやく理解した。
考えてみれば、北近江国人衆はその『自立心』によって既に一度裏切りを犯している。近江守護六角氏の配下を離れ、浅井を旗頭にすることで北近江の自立を勝ち取っている。
例え婚姻関係を結んでいようと、織田に対しては裏切らないと考える方が迂闊ではあった。
「長光寺城には柴田権六を入れる。蒲生は柴田の寄騎として引き続き近江の警戒にあたれ」
「ハッ!」
賢秀は柴田勝家の寄騎として編成されているため、今後の近江の制圧についても引き続き柴田勝家の下知に従うことになる。
柴田だけでなく、信長は岐阜への撤退の途中で近江の要所に守将を配置して回っていた。
滋賀郡の宇佐山城には森可成を入れ、賢秀の弟の青地茂綱らを寄騎として配置している。永原城には佐久間信盛を置き、永原城主の永原重康や進藤賢盛、池田景雄などを付けている。
そして、長光寺城には柴田勝家を置いて蒲生賢秀を寄騎に配置した。
金ヶ崎の敗戦を知った近江では甲賀に逃れた六角義賢・義治の親子が石部城に籠って近江各地に檄文を発している。各地の六角旧臣達も半数ほどは信長に対して反乱を起こしている。
しかし、六角家の根本被官である後藤や進藤、さらには宿老であった蒲生や永原などは相変わらず織田家に属し、六角と行動を共にすることを控えている。つまり、六角の復活は彼らにとって迷惑以外の何物でもないと言うのが旧六角家重臣層の認識だ。
賢秀も父の存念を聞き、内心で安堵の息を漏らしていた。
「それと岐阜への帰還だが、今は東山道が使えん。そこで、千草街道を越えて伊勢から尾張へ抜ける。道案内を頼めるか」
「ハッ!お任せ下され」
「では、早速日野に……」
「いえ、日野を抜けるのはいささか危険がござる」
信長が妙な目付きで賢秀を見る。千草街道は東山道の武佐宿を発し、日野を抜けて伊勢へと至る街道だ。その日野を抜けるのが不味いと言う。信長に日野を見られては困ると言っているように聞こえたのかもしれない。我ながら言い訳じみているとは思ったが、賢秀は慌てて理由を説明した。
「我が日野は甲賀に近く、御屋形様が日野を通られると知られれば敵が攻め寄せて来ないとも限りません。無論我らは一戦してでも御屋形様をお守り致しますが、出来得れば甲賀を避けて千草峠に至るのが上策と存じます」
「……続けよ」
尚も疑いの目を向けながら、信長が続きを催促してくる。いかに蒲生が忠義の家であるとはいえ、信長への忠義は文字通り昨日今日始まったものだ。
信長から見れば、蒲生が六角に同調しないと信じ切ることは未だ難しかった。
「幸い、布施城の布施淡路守殿も永原城へ馳せ参じておりますれば、小倉の旧領である山上城から甲津畑を抜け、鈴鹿山中で千草峠に至る道が良いかと愚考します。
山上城は甲賀からも鯰江城からも離れてござる。そうやすやすと軍勢を進めることは出来ますまい」
自身の考えのごとく話しているが、実はこれも父定秀の知恵だった。信長を永原城まで迎えに行くと話した時、定秀はこの経路を勧めた。
―――日野は甲賀に近すぎるだろう
今も父の声が脳裏に響く。確かに言われてみれば、甲津畑から雨乞岳を越えて千草街道に合流すれば甲賀からは手の出しようがない。
そのことに思い至らなかった自分を恥じると共に、今なお知恵が衰えぬ父にただ感嘆するばかりだった。
信長はしばし無言で賢秀を見つめていたが、賢秀の曇りのない眼を見てふっと息を吐いた。
「……よかろう。すぐに出立する。布施と共に案内いたせ」
「ハッ!」
※ ※ ※
織田信長一行は長光寺城から東に進路を取り、八日市から市原を抜けて甲津畑に至り、伊勢と近江の国境である鈴鹿山脈を登っていた。
初夏の日差しは熱気を帯び、何度も水筒の水を飲みながら道なき道を分け入っている。賢秀は案内として小倉家臣の速水勘解由左衛門を集団の先頭に置いていた。速水は甲津畑を知行しており、このあたりの山地はいわば庭のようなものだ。
「暑いな……」
「まこと、もう夏になる」
隣を進む布施公保も汗みずくになって歩いている。道なき道をかき分けて進むため、馬に乗っての行軍というわけにはいかない。その為、賢秀達はおろか信長自身も汗を流しながら歩いていた。
後ろを望むと、何人かの近習や小姓は既に舌を出して顎が上がった姿勢で歩いている。さすがに信長はそのような無様な様子は見せていないが、流れる汗は次から次へと頬を伝っていた。
「少し休むか……」
布施公保が一行の顔色を見ながら提案する。山に慣れた賢秀や布施公保でもキツいのだ。普段山歩きをしない信長やその近習には酷な道のりであることは見なくてもわかる。だが、信長は賢秀達の案内にも文句ひとつ言わず歩いている。どこかで一息入れなければ体が持たないのではと心配になるほどだった。
「この先に湧き水が出る場所があります。そこで一息入れましょうか」
前を歩く速水勘解由左衛門が賢秀達に提案して来る。
「そうだな。だが、あまりグズグズしても居られん。少し休んだらすぐに出発せねばならん」
既に日は中天に近くなっている。千草の街道に出るまではあと一里ほどだが、そこから千草城までは二里ほどもある。急がなければ山中で野宿をすることにもなりかねない。
湧き水近くの岩場に腰かけた信長に竹水筒に汲んだ水を差し出すと、ひったくるように受け取った信長はそのままゴクゴクと喉を鳴らした。
「ぷはぁ~ 生き返るな」
「今一息でございます。ご辛抱下さいませ」
「うむ。もう一杯水を……いや、顔も拭いたいな。自分で行こう」
言いさして信長が立ち上がりかけた瞬間、山の静寂を破って銃声が響いた。突然のことに驚く賢秀の隣では信長が突然頬を抑える。見れば手の隙間から鮮血が噴き出していた。
「御屋形様!」
小姓の堀秀政が信長の前に立ちはだかるようにして銃声のした方を向く。手には抜き身の刀が握られていた。慌てて賢秀も堀秀政の隣に立つ。と、次の銃声がして賢秀の隣の岩が盛大に弾ける。そこはさっきまで信長が座っていた場所だった。
「あそこだ!」
「追え!」
二発目の狙撃で火縄の煙を見つけた側近達が刀を抜き放って狙撃者の方へと駆け寄る。その瞬間、岩場から人影が躍ったかと思うとそのまま山の奥へと逃げて行った。
「御屋形様!ご無事ですか!」
「うろたえるな!かすり傷だ!」
頬から血を流しながら、信長は立ち上がって顔に布を巻いた。布は見る見る赤く染まったが、それでも致命的な傷にはなっていないようだ。
応急手当を終えた信長は、賢秀の方に燃えるような目を向けて来る。それは明らかに賢秀を疑っている目だった。
「申し訳もございません!刺客が潜んでいることに気づけませなんだ」
「気付かなんだか……まこと、気付かなんだのか?」
賢秀は背中一面に冷たい汗が噴き出るのを感じた。確かに、この道を通ることを進言したのは自分だ。そして蒲生は昨年まで六角の忠臣として支えて来た家だ。状況証拠は完璧と言える。
この暗殺そのものが蒲生の仕組んだことだと疑われれば、申し開きのしようもない。だが、天地神明に誓って賢秀は信長を亡き者にしようなどと考えてはいない。
「お疑いとあらば、今この場で首をお刎ね下さい」
「……」
しばらく無言で信長の視線を受ける。先ほどと同じ燃えるような目だったが、その目の奥が少し和らいだ気がした。
信長としても今更引き返すわけにもいかない。蒲生が裏切っているのならば、戻っても暗殺者は狙って来るだろう。そして、賢秀は目を一切逸らさずに真っすぐ信長の目を見据えている。とても嘘を吐いている者の目とは思えなかった。
「良い。以後は細心の注意を払え」
「ハッ!申し訳ありませんでした!」
叱責を受けた賢秀は、改めて速水勘解由左衛門に刺客を警戒するように伝え、自身も周囲を注意深く観察しながら進む。賢秀を監視するように後ろには堀秀政がピッタリとくっついてきていた。
恐らく賢秀の挙動からさらなる刺客の有無を計ろうとしているのだろうが、賢秀は本当に何も知らない。この地に刺客を伏せたのは賢秀では断じてない。
だが、賢秀には心には一点の染みがあった。
―――弾正忠様がこの道を通ることを知っているのは……
その思いが黒い染みのように心に広がる。脳裏に浮かぶのはいつものように一人で将棋盤に向かう父の姿だった。
日野は甲賀に近すぎる。
そう言った父の言葉が違う意味を持って賢秀に迫って来る。仮に信長が日野で刺客に襲われれば、それこそ蒲生の仕業としか思われないだろう。だが、鈴鹿山中ならばどうだ。
蒲生は信長を安全に逃がそうと奔走したが、武運拙く甲賀衆に裏をかかれて暗殺を許してしまった。そういう筋書きが不可能では無くなる。
定秀が六角家の為に信長暗殺という一手を打った。自分はそのことに気付かず、間抜けにも定秀の策略通りに狙撃者の目の前まで信長を案内してきてしまったのではないか。
その思いが、時がたつほどに賢秀の中で膨れ上がり、父に対する疑念となって心を埋める。
―――儂は、父上に踊らされたのか?
とすれば、この先も第二第三の刺客が潜んでいる可能性は十分にある。定秀がたった一発の銃弾に全てを賭けるような真似をするとは思えない。仕損じた時の為に二の矢三の矢を用意しているだろう。
だが結局その後刺客の姿は無く、信長一行は無事に千草城に到着した。翌日には報せを受けた滝川一益が千草城に馳せ参じ、信長は一益の軍勢に守られながら岐阜城へと帰還した。
賢秀は千草城で信長と別れ、今度は千草峠をそのまま抜けて日野中野城へと戻った。
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